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香椎うっちゃんのブログ
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金印シンポジウム(世界の記憶)
 
今年で第10回を迎える「金印シンポジウム」が109日(日)、千早の新しい東区民センター(なみきスクエア)で開催されました。
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8回から10回まで受講してきましたが、講義を聞けば聞くほど「謎が多いなあ・・・しかし、浪漫(面白さ)も多い」が実感です。

             ●第8回・9回・10回のレジュメ
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うっちゃんの中学・高校の日本史では、漢の皇帝光武帝が日本(倭)の奴国の王に金印を授けた。それには、「漢委奴国王」(カンコクオウ」と彫られている。それだけの事柄を教わって、現在に至っていたのですが金印シンポジウム」に参加して徐々に多くの謎があることがわかったのです。 しかも、その謎は江戸時代から続いていて、現在も混沌としているものもありました 謎の1つだった「偽物説」については、100%近く本物だと検証され、今年度からの大きな動きにつながって行きます。
 
その大きな動きとは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(これまでの世界記憶遺産)に登録しよう、という動きです。 「10 金印シンポジウム」が終わって、ほぼ2週間後1026日(水)の西日本新聞に、西谷 正 先生の記事が載っていました。
        ●西谷 正 先生  ”金印「世界記憶」に適合”の新聞記事 
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109日(日)のシンポジウム開催当日、うっちゃんは会場の”なみきスクエア”へ歩いて向かっている途中で、西谷 先生と出会いました。 その日、西谷 先生は基調講演の講師を務められます。
西谷 先生はうっちゃんのことを知らなくても、先生の講演や現地説明会には何回も参加しています。 相ノ島の積石塚古墳現地説明会の時のことなどをお話ししながら、”なみきスクエア”に到着です。

西谷 正 先生の基調講演のテーマは「金印は”世界の記憶”にふさわしいか」でした。

             ●西谷 正 先生 基調講演 
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レジュメを見た時に「世界の記憶」と「世界記憶遺産」とは別物かいな?と思ったのです。「山本作兵衛の炭坑記録画・記録文書」が登録された時から、「世界記憶遺産」と言っていましたから・・・西谷先生の話は、そこからスタートしました。

「世界記憶遺産」の英語表記は、1992年にスタートした時から「Memory of the World」、この英語の意味により近い訳語に変更された、とのことです。 「Heritage=遺産・後世に伝えるべき自然環境・古代遺跡」の英文字が無いですから・・・しかし、「遺産」という文字が消えると、レベルが低くなったように感じるのは、うっちゃんだけでしょうか。でも「日本の記憶」ではなく「世界の記憶」ですから、やっぱり凄いですよね。
 
■ 「世界の記憶」として登録されるための選定基準

ユネスコの国際諮問委員会は大きく三つの選定基準を設定しているそうです。
●第一 真正性が問われ、模写・偽造品でないこと
●第二 独自性と非代替性が求められる
●第三 以下の五つの基準のうち、一つ以上を満たし、世界的に重要であること
1、年代  2、場所 3、人物 4、題材 5、形式・様式
 
西谷 先生は第一と第二については問題ないとし、第三についても、其々の適正を解説されました。 個人的には「2、場所」について、志賀島の「叶ノ崎」に不安を感じたのですが・・・。
西谷 先生は「以上のように、志賀島発見の”金印”は、スネスコ国際諮問委員会が定める選定基準の全てに適合することから、”世界の記憶”にふさわしいものと言える」と基調講演を締めくくられました。
 
金印が本物であること、それが「後漢書の倭伝」に記載されていること・・・これだけでも適合を満たす凄い事柄ですよね。 しかし、よくよく考えるに、こんなに小さくて貴重なものが、志賀島の田んぼの中から発見されるとは、奇跡に近いですね。
 
金印」は福岡市の宝です・・・既に超一級の国宝なのですが・・・うっちゃんが言いたいのは、「世界の記憶」に登録されれば、福岡市のイメージアップにつながり、更なる地域活性化を促す起爆剤となる「の意です。
 
先週も「福岡市博物館」を訪れたのですが、中国の個人旅行客が来館していました。 でも金印の展示室は通り過ぎていました。 展示室が暗くて、あんなに小さい物ですから、気が付かないのかも。 でも、これが”世界の記憶”に登録されれば、注目を浴びますよ。 日本と中国間の侵略や戦争の歴史を語る物でもなく、紀元前後に日本が中国と交流があった証ですから、中国の人々に知ってもらうことは大変意義があります。
 
金印」の”世界の記憶”について、「2019年の登録を目指す」としています。しかしながら、登録までの道程は長いのです。

(1)申請   行政・NGOの団体が日本ユネスコ国内委員会に申請
(2)提出   日本ユネスコ国内委員会がユネスコ”世界の記憶"事務局へ提出
(3)受付   ユネスコ”世界の記憶"事務局が受付
(4)評価   専門家による評価を登録分科会へ
(5)登録勧告 登録分科会が国際諮問委員会に登録の勧告
(6)審議決議 国際諮問委員会が審議し決議
(7)最終決定 ユネスコ事務局長が最終決定
 
最初の申請・提出が、とても大切だと思います。 「全市民でムードを高めましょう」と高島市長が挨拶されていました。
              ●高島市長挨拶
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さて、第10回 「金印シンポジウム」の講演は以下のとおりです。
 
 
「金印」の蛇紐(だちゅう)は駱駝(らくだ)だったのか?
福岡市埋蔵文化財課  大塚 紀宜 先生
■ 阿曇族と金印〜古代海人族の雄飛
宮地嶽神社 宮司  浄見 譲 先生
■ 常陸と九州との関連について
ひたちなか市埋蔵文化財調査センター  稲田 健一 先生
■ 海人族の鉱山・砂鉄探し
安曇族研究会会員  酒井 春人 先生
■ 近江・安曇川(あどがわ)の阿曇族の足跡
高島歴史民俗資料館  白井 忠雄 先生
■ 金印シンポジウムの10
志賀島歴史研究会理事  岡本 顕実 先生
 
全てを報告できませんが、過去の講演・セミナーも含め、「金印」について学んだこと、考えたことを三つ程まとめました。
 
金印は天明4年(1784年)、志賀島で発見され、発見届(口上書)によると、百姓の「甚兵衛(じんべえ)」が「叶(かのう)の崎」の田で溝を修理中に見つけた、とされています。 福岡藩の儒学者・亀井南冥が「金印弁」と題した論文で、後漢の皇帝から授かった印綬であると鑑定したのでした。
 
■ 金印発見場所

亀井南冥の「金印弁」に記されている絵図を見てみましょう。

       ● 亀井南冥の「金印弁」志賀島絵図   福岡市博物館蔵 
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絵図の右下に赤い文字で「叶崎」と書かれています。 矢印かX印でも記されていれば、はっきりするのですが・・・この辺りとしか分かりません。 九州大学の平山平次郎博士が現在の石碑の場所に特定したのですが・・・。 うっちゃんは、あの急斜面に田んぼがあったとは考えられないのです。 今回のシンポジウムで、西谷 正 先生は「叶(かのう)の崎」の場所は、碑が建っている場所として、「田があった場所は道路の下であったが、現在は波で洗われて無くなっているのだろう」と説明されました。
確かに昭和初期に撮られた写真では、道路下に田が存在しているのです。左の写真で、道路下の田が確認できます。右写真、現在は道路下に波が打ち寄せています。

             ● 金印発見場所の石碑
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正確な出土地とその性格については、まだまだ浪漫が広がっていきます。
 

■「漢委奴国王」の読み方

うっちゃんは漢委奴国王」(カンコクオウで良いのでは、と思っているのですが、どうしても佛教大学中国学科 黄 當時 教授の説が気になるのです。
 
(1) 古代中国の金印の下賜は「授与する側+授与される側」の二者との直接の統属関係を示すものであり、ABCと言う三段服属を示すことは無い。倭国の中の奴の国という取り方は有り得ない。
(2)よって委奴(わぬ・わな)と言う国の国王に授与したものである。
(3)」は「大きい」と言う意味で、大きい=つまり「」が「大和(やまと)に変わったのである。
 
(1)と(2)は納得できますが、(3)は福岡に住むうっちゃんとしては、ちょっと困ります。ですから、委奴とはが発展し、を代表する強大な国になった国名だと勝手に解釈しているのです。 
うっちゃんが考えているもっと大きな浪漫で示すと、次のようになります。

国(紀元前2世紀)→委奴国(1世紀)→→(朝倉に移動)→→邪馬台国(3世紀)→→(東遷)→→大和王朝(4世紀)
 

「金印」の蛇紐(だちゅう)は駱駝(らくだ)だった

うっちゃんは何時も思っていたのです。「これ、蛇には見えないよネ」って。

      「漢委奴国王」金印の蛇紐(各角度から)  レジュメから転載 
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右上の正面から見た蛇紐の姿は、左右対称で四足動物に見えます。 ただし、鱗(うろこ)のようなものが彫られているので・・・蛇なのかなあ。 福岡藩の儒学者・亀井南冥はどうして、これを蛇だと断定したのか・・・江戸時代には、中国漢時代の印章制度が既に研究されていたそうで、北方の民族には「駱駝(らくだ)紐」の印章、南方の民族には「蛇紐」の印章が与えられていたことを、亀井南冥が知っていたのだ、とある本で読んだことがあります。
下の「蛇紐」印を比較して下さい。

   ●志賀島の「漢委奴国王金印(左) と 雲南省「滇王之印」金印(右) 
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右は1956年、雲南省の「滇(てん)」族の王墓から出土した「滇王之印(てんおうのいん)」です。前漢の皇帝から下賜された「蛇紐」の金印です。 「滇王之印」の紐は、見ただけで「蛇」と分かります。

シンポジウム講師の福岡市埋蔵文化財課・大塚 紀宜 先生のお話しで、何となく理解できました。 レジュメ中の大塚先生の説明を借りると、
 
漢委奴国王”金印は”駱駝(らくだ)印を原型として、後に”蛇”印に整形されたものである可能性が高い。紐の制作の際に突発的で緊急性の高い状況があったことが伺える。一例だが、”倭”を漢の出先機関である楽浪郡付近にある国と考えて”駱駝印”を渡そうとしていたが、実際に謁見した倭人が東南の民族であった為、急遽”蛇紐”に変更せざるを得なかった

漢委奴国王金印(上)と「漢廬水佰長」駱駝紐銅印(下)の形状比較 
                          レジュメから転載
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整形したと思われる部分の説明をお聞きした時には「なるほど」でした。

「金印」は謎が深ければ深いほど、浪漫が広がります。
 
 
以前にリポートした金印ブログも覗いてください。

*参考資料:第10回金印シンポジウム レジュメ資料
*「昭和初期金印の碑」写真は岩波写真文庫「金印の出た土地」 埋蔵文化センター 常松課長資料からお借りしました。
 
 
 

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