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香椎うっちゃんのブログ
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名島水上飛行場
 
現在の福岡国際空港は昭和19年(1944)、陸軍の飛行場として建設されました。しかし、戦争に使用されることなく終戦を迎え、米軍に接収されます。 陸軍が建設した時には、その地域の名前から「蓆田(むしろだ)飛行場」の名称でしたが、米軍は隣周辺の地名から「板付飛行場ITAZUKE AIR BASE)」と変更しています。「MUSHIRODA」の発音が難しかったからだと言われています。昭和47年に米軍から返還された後「福岡国際空港」となり、現在は多くの国内線・国際線の便が離着陸しています。
 
さて、昭和の初めから太平洋戦争が始まるまでの間、九州における国際空港は福岡市東区に存在していました。 しかも、時期は異なりますが2箇所で開港しています。 今日は、その内の最初の一つ「名島水上飛行場」の跡地を訪ねたいと思います。
 
名島水上飛行場」は次の名島町地図のの場所です。後の写真の中に出て来る「名島火力発電所」は、「妙見島」はの番号でその場所を印しています。
                   名島の地図     (マピオン利用)
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昭和の初め、郵便・通信・交通を管轄する中央官庁は逓信省(ていしんしょう)でした。昭和4年(1929年)、逓信省は告知978号「飛行場の設置」で「東京飛行場」、「大阪飛行場」、「福岡飛行場」を指定しました。この「福岡飛行場」が「名島水上飛行場」のことです。
 
当時の航空写真で、名島水上飛行場、名島火力発電所、妙見島を現在の地図と照らし合わせて場所を確認して下さい。
                当時の航空写真 
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現在の城浜団地は海でした。その海に突き出るように水上飛行場が建設されたのです。
8月には日本航空輸送株式会社の福岡支所が置かれ、国内線の大阪/福岡間で水上飛行機の運用が開始されます。翌年の昭和5年には福岡/上海への水上飛行機による定期航空路が開設され、朝鮮半島・台湾へも航空路が開かれました。
              名島水上飛行場  絵葉書
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二つの格納庫と水上機を吊るす大型クレーンが二基、そして格納庫の後ろに航空通信塔も確認できます。
日本航空輸送株式会社は現在のJALとは関係ありません。
 
 ●クレーンで吊るされる DORNIERWAL(ドルニエ・ワール) 絵葉書より
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DORNIERドルニエ)」とはドイツの双発飛行艇。日本航空輸送株式会社は川崎造船所でライセンス生産された「DORNIER(ドルニエ)」を購入しています。この飛行艇の愛称が「WALワール)」、ドイツ語で「くじら」のことですが、飛行艇の形を見ると納得します。
WAL(ワール)」は全長17.25m、乗員3名、乗客810名で当時としては大型の水上飛行機でした。クレーンで吊るされた「WAL(ワール)」の後方に立花山が見えます。
 
もう1枚、着色された絵葉書があります。
                  絵葉書 
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角度を変えて、中央が「DORNIERWAL(ドルニエ・ワール)」、左奥は「中島飛行機」が製作した「フォッカー・スーパー・ユニバーサル」です。乗員2名、乗客6名。「中島飛行機」は、後に 陸軍の名戦闘機「」を開発・製作した会社であり、現在の富士重工業(SUBARU)です。
左下にの妙見島が映っています。
 
前段の説明が長くなりましたが、名島水上飛行場の跡地に行ってみます。
国道3号線から名島地図の桃色点線の道路を、名島運動公園に向かって歩きます。この道路は名島町の中では道幅も広くて立派な道路です。 
      ●国道3号線から名島運動公園に向かう道路 (空港道路)
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当時の航空写真でも桃色点線で表しています。名島水上飛行場に於ける国際線の開設に伴い、市内から名島飛行場へのアクセスを整えるために造られました。「空港道路」と呼ばれています。同時に3号線も整備され、昭和8年(1933年)には名島橋が竣工しています。
  ●昭和8年、名島橋上空から名島水上飛行場、火力発電所を望む 
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名島橋は鉄筋コンクリート、長さ204m、幅24mで、昭和8年当時としては大変立派な橋でした。 将来を見越し、航空機の緊急離着陸の為に造ったとの話も聞きました。確かに、この名島橋から名香野までの3号線(約700m)は、道幅も広く、滑走路のように一直線なんですよね???。
 
名島運動公園の木々は既に紅葉の装い。公園緑地の一角に「九州電力 名島発電所跡」の碑が建っています。
     ●名島運動公園           ●名島発電所跡の碑 
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名島発電所は大正9年(1920年)、最大出力1万kwで九州電灯鉄道名島発電所として稼動開始。その後、何度か会社が合併し、大正14年(1925年)には4本の煙突を備え、最大出力4kwで東洋一の火力発電所となっています。
              ●東洋一の名島火力発電所 
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戦中戦後もフル稼働し、昭和26年(1951年)に九州電力となり、昭和35年(1960年)老朽化によって発電を停止。バックに立花山と埋め立て前の香椎海岸が見えます。
昭和初期は名島水上飛行場と共に名島地区の発展に貢献したと思われます。
 
名島運動公園から都市高速の下を抜けて名島神社にお参り。 本殿横の石段から名島城跡に上ります。 石段脇のもみじが鮮やかでした。
            ●名島神社から名島城址への石段 
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名島城址から水上飛行場跡を探したのですが、木々と住宅の建物に遮られ、確認することは出来ませんでした。

名島城址の説明板で名島古城の絵図が確認できます。江戸時代の黒田藩の学者・加藤一純青柳種信が書した「筑前国続風土記附録」に描かれた絵図です。
                 ●名島城古図 
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この古図の上に水上飛行場、発電所、妙見島 の位置を想像で印してみました。
もう一度、名島水上飛行場当時の写真を見てみましょう。

               当時の航空写真 
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空港道路を挟んで本丸と二の丸・三の丸跡が分かります。また、二の丸・三の丸南側の城濠(印)が昭和まで残っていたことも分かりました。本丸南側の濠は埋められ、火力発電所の敷地になっていて、現在は都市高速道路が走っています。
 
城跡の左側から北西を望むと、妙見島は確認出来ました。
      ●昭和初期の妙見島            ●現在の妙見島 
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名島城址を下り、海岸に出て妙見島を写真に撮りました。写真に記した松ノ木は同じ木ではないでしょうか? この松の木は無言で時代の移り変わりを見てきたのでしょう。

神功皇后が朝鮮半島から帰還した際、この妙見島に武具を埋めたらしい。江戸時代には風浪が激しい日には、砂の中から鉾や弓の矢尻が出て来たそうな。 太閤秀吉が名島城に宿泊中、茶会を開いた時の井戸(太閤水)も残っています。
 
海岸通りから城浜小学校の手前を右に入り、青色点線の道路を進むと、右側に「名島水上飛行場跡」と彫られた石碑の前に出ます。 周りを見渡しても、この場所に飛行場があったとは想像できません。
               ●名島水上飛行場跡碑 
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碑の文字は元市長・進藤一馬氏の書によります。横の石版には「昭和五年開場し 大阪と中国の上海へ水上機による定期空路が開かれ 九年に閉鎖 六年にはリンドバーグが飛来した」と刻まれています。

リンドバーグとは チャールズ・リンドバーグ CHARLES LINDBERGH 19021974)。
1927年(昭和2年)、愛機「スプリット・オブ・セントルイス号」で初の大西洋(ニューヨーク・パリ間)横断飛行に成功した英雄です。ジェームズ・スチュワートがリンドバーグを演じた映画(1957年)「翼よ!あれが巴里の灯だ」は有名です。 4年後の1931年(昭和6年)、夫人と二人だけで北太平洋飛行に挑戦したのです。

          ●リンドバーグ 北太平洋横断飛行経路 
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親善飛行となっていますが、パンアメリカン航空がスポンサーになっており、太平洋航路開拓の調査でもあったようです。
 
昭和6917日、二人を乗せたロッキード社の単発水上飛行機「シリウス SIRIUS」が名島水上飛行場に着水しました。当時の西日本新聞は、その時の様子を、
立花山上空にポツンと見えた機影は、ぐんぐん姿を現し、赤い翼を翻して博多湾を一周すると、名島水上飛行場に着水した
と記しています。 多くの市民が歓迎したそうです。 碑の前の通り(青色点線は「リンドバーグ通り」と呼ばれています。

●空港岸壁に接岸作業  後部座席の夫人がその様子を腰を浮かして見ています。
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    ●リンドバーグ氏がシリウス号から降りて作業の打ち合わせ?
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現在、「シリウス号」は「スプリット・オブ・セントルイス号」と共に、ワシントンDCの「スミソニアン航空宇宙博物館」に展示されています。


この頃の航空機技術の進歩は凄まじく、飛行機の主流は水上機から陸上機に移り変わって行きます。
逓信省は昭和116月、告示1223号で「次の飛行場を指定する」と発表しました。

1、東京飛行場
2、大阪飛行場
3、福岡第一飛行場
4、福岡第二飛行場
5、那覇飛行場
 
4番目の福岡第二飛行場は「名島水上飛行場」のことです。「名島水上飛行場跡」の石碑には「九年に閉鎖」となっていますが・・・これは、国際線ルートの閉鎖であり、水上飛行場としての機能は昭和11年以降も暫く続いていたことが分かります。 しかし、福岡第一飛行場で大型陸上機が活躍するにつれて、徐々に名島水上飛行場の使用は薄れていったのでしょう。

石碑の前で、「この場所に飛行場があったとは想像できません」と申しましたが、一つだけ痕跡が残っています。 
石碑の近くの商店前です。歩道と商店の間に10mほど白っぽい石畳とコンクリート舗装が続いています。これが水上飛行場の岸壁跡です。石畳の右側が海になります。

             ●名島水上飛行場の痕跡
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昭和11年、逓信省が発表した福岡第一飛行場も東区です。

参考文献:現地説明板、ウィキペディア、H/PY氏は暇人」、H/P「みに・ミーの部屋」、H/P「西鉄電車沿線を楽しむ」、H/PAll-A Blog 」、福岡博覧、より
画像:現地説明版、「Y氏は暇人」、「みに・ミーの部屋」さんよりお借りしました。
         絵葉書は福岡市博物館蔵

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