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香椎うっちゃんのブログ
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鴻臚館(こうろかん)遣唐使と山上憶良(やまのうえのおくら)
 
702年(大宝2年)、大阪(難波)から博多に向かう船に山上憶良(やまのうえのおくら)が乗っていました。前年の701年(大宝元年)に「大宝律令」が完成し、倭国は「日本」と言う国名を使用するようになりました。律令体制のもとに、新しい国造りが始まったのです。瀬戸内海を進む船の上で、山上憶良は胸を膨らませていました。彼は第8回の遣唐使団の一員に撰ばれ、中国唐の都長安(現・西安)へ最新の文化・技術・仏教を学びに行くのです。博多に到着した山上憶良は筑紫館つくしのむろつみ鴻臚館の前身)に滞在し、海の状態や風向きなど、航海の条件が整うまで出発を待ちます。
             鴻臚館 第3期の復元予想図 
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ここで、鴻臚館について触れておきます。鴻臚館(筑紫館)とは大宰府政庁の管理下にあって、唐・新羅の外交使節をもてなす、と共に遣唐使・遣新羅使の送迎宿泊に使用された施設なのです。昭和62年、平和台球場跡で遺構が発見され、発掘調査は現在も続けられています。これまでの調査で鴻臚館は5期に分かれて建設されたことが解っています。17世紀後半で、日本書紀に「688年、筑紫館(つくしのむろつみ)で新羅国の使者をもてなした」と記されていて、文献上で初めて現れます。28世紀前半。38世紀後半から9世紀前半。45は遺構が残ってないとされています。838(承和5年)は僧円仁が第19回遣唐使(事実上最後の遣唐使)に同船した年です。この年の史書に、唐と日本の役人が鴻臚館で詩を唱和したとありますので、第3期の時点で名称が筑紫館(つくしのむろつみ)から鴻臚館(こうろかん)に変わったことが分かります。 
           ● 第1期〜3期までの遺構 
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894年(寛平6年)、第20回の遣唐使が計画されますが、菅原道真の建議によって中止になります。 遣唐使廃止後は唐や新羅の商人らによる交易の場と変わっていきます。名称も鴻臚所となり、907年、唐が滅び宋(北宋)の時代になると、大宋国商客宿坊と呼ばれます。1047年(永承2年)、放火によって焼失後は再建されず、鴻臚館時代が終了しました。この頃は、交易の場は既に博多の町に移っていたのです。
 
山上憶良が大阪(難波)から博多に着いた702年(大宝2年)は、第2期と考えられ、筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていた時代です。

4期・5期 の頃、交易船が砂浜の近くまで来て、小船で積荷を降ろしています。 
                           鴻臚館前での交易風景画 
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山上憶良ら第8回遣唐使も筑紫館(つくしのむろつみ)前から小船で遣唐船に乗り込み船出した、と考えられるのですが・・・一つだけ割り切れないことがあるのです。 筑紫館(つくしのむろつみ)は何時からあったのか? そして、遣唐使・遣新羅使は何処から船出したのか?です。
印、筑紫館(つくしのむろつみ)の存在が文献上で現れたのが688年。 第1回の遣唐使が派遣されたのは630年です。この58年間が問題です。何が起こったのか? 大宰府政庁の出現です。 大宰府の前身(倭国時代の地方機関)は比恵遺跡印の那津官家なのつのみやけ)と考えられています。 661年、倭国と親交が深い百済を唐・新羅連合軍が攻めます。663年、百済を救援するために倭国は援軍を送りますが、「白村江の戦い」で大敗します。唐・新羅軍が攻めて来ることを恐れ、水城大野城基肄城を築きました。また、壱岐・対馬・周辺の島々に防人を配置したのです。この時、那津官家(なのつのみやけ)など博多にあった軍事・外交・政治施設を水城の奥に移したのが、大宰府政庁です。
       大宰府鴻臚館那津官家(なのつのみやけ)間の古代官道 
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ところが、唐・新羅は攻めてくるどころか、国交回復の使者を送ってきたのです。途絶えていた遣唐使派遣は直ぐに再会されました。第5回(665年)と第6回(667)は、「白村江の戦い」後に唐から来た使者を送りとどけることが主目的だったようですから、遣唐使派遣としては意味が薄いと感じます。しかし、669年には、正式な第7回遣唐使団を出発させることになりました。大宰府から博多湾まで距離(約15km)があります。大宰府政庁は唐からの使者、また、突然再開された遣唐使のために、慌てて宿泊施設を建てたと考えられます。それが、1印、筑紫館(つくしのむろつみ)ではないでしょうか?。第1期の北館と南館の向き(方角)がずれているのも、緊急を要して別個に建てられたからだと想像しています。
                                鎌倉時代の博多湾周囲 
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 筑紫館(つくしのむろつみ)1期(7世紀後半)から600年後の鎌倉時代に描かれた博多湾沿岸の絵地図です。(上の絵時図は江戸時代に模写されたもので住吉神社所蔵)
印は西公園、●印は住吉神社、○印は櫛田神社印は博多駅の現在の位置を印しています。 印が当時の鴻臚館筑紫館)、印が那津官家(なのつのみやけ)。そして、中洲ホテルオークラ横に「鏡天満宮」が鎮座しています。菅原道真公が都から船で到着された場所とされ、近くに渡唐口跡」と彫られた石塔が建っています。遣唐使・遣新羅使が向かう船の乗り場があった場所とされています。
 
整理すると、「白村江の戦い」以前は、比恵にあった那津官家(なのつのみやけ)が遣唐使の宿泊施設をも兼ねていたのではないか? 少なくとも第1回遣唐使派遣(630年)から第4回遣唐使派遣(659年)までは、比恵の那津官家(なのつのみやけ)から中洲にあった渡唐口」に出て、ここから出航したのではないでしょうか。 当時の地理からしても妥当な考えです。

と言うことで、うっちゃんは第1期の筑紫館つくしのむろつみ)」は665年から669年の間に建てられた・・・それまでは、渡唐口」から出航し、以後は筑紫館(つくしのむろつみ)」前の海岸から出発したと考えています。 そして第2期の「筑紫館(つくしのむろつみ)」は測量を正確に行った上で、700年頃までに計画に沿って新しく建て替えられたのではないでしょうか?。
 
7回までの遣唐使船団は北路コース(朝鮮半島西側を北上後、黄海を渡り山東半島に上陸、陸路で長安まで)を選んでいましたが、船舶の航行技術も上がり、山上憶良の第8回遣唐使団は初めて南路コースで向かいます。以後は南路コースが多いです。
                     遣唐使の航路 
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遣唐使船団は4隻で出発します。海が荒れて遭難に逢うリスクが高いことから、1隻でも到着すれば良しとする可能性を期待した出航でした。山上憶良は遭難の不安を感じたのですが、新しい知識を学びたいと言う気持ちの方が強かったのです。
                     遣唐使船復元予想図  
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山上憶良五島列島から直接東シナ海を無事に渡り、揚子江の下流から揚州まで上り、そこから陸路で長安まで向かいました長安は唐大帝国の首都で、当時世界最大の大都市です。アジアは勿論、シルクロードを通じて世界から文物が集まっていました。山上憶良は寝食を忘れて知識を吸収したのです。2年間の留学期間を終えて帰国した山上憶良は、奈良への遷都事業にも係わったでしょう。そして、710(和銅3年)、平城京が完成します。平城京の造り・町並みは長安に倣ったと言われています。
                ● 奈良 平城京 ジオラマ (奈良市役所)
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律令制での地方においては、其々の地域を国・郡に分け、統治のために国司郡司が置かれました。国司は現在の県知事です。 山上憶良は奈良朝廷内ではエリートコースを歩み、伯耆国(出雲・松江辺り)の国司・伯耆守(ほうきのかみ)を務めた後、726年に筑前国の国司・筑前守(ちくぜんのかみ)に任ぜられ赴任してきます。この時の大宰府長官大伴旅人で、山上憶良は奈良で面識がありました。 二人は意気投合し、日本の外交・軍事の最前線として最も重要な筑前国博多湾地域の整備に取り掛かります。特に第2期目に入っていた「筑紫館(つくしのむろつみ)」については、唐・新羅の使節団や遣唐使・遣新羅使が安心して快適に過ごせるよう、更に施設を充実させました。第2期の遺構でトイレの跡が発見されています。 当時のトイレットペーパーも見つかっています。でも、これは・・・痔病の人は使えません???。どんな物かは、鴻臚館跡展示館で確認して下さい。
おそらくこれらの新しい設備は、山上憶良を含む長安の都で学んだ官人達の意見などが取り入れられたのかも知れません。これらのことが次の時代(8世紀後半)に3期で登場するおもてなしの貴賓館鴻臚館」へと繋がっていったのでしょう。
           鴻臚館 南館でのおもてなし 福岡城だより・室川康男画)
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また、冷泉津対岸の「渡唐口印)も防人の送迎港として賑わい、生活する人々が増えて町が大きくなっていきます。そして、平安時代後期には、日宋貿易の拠点として栄え、博多の原点を形成していったのです。
 
大伴旅人は仕事の合間を縫って、山上憶良を大宰府の自宅に招いています。二人とも歌人ですから、大伴旅人が歌を詠むために呼んだと思われるのですが・・・これは???。恐らく酒を飲む口実です。大伴旅人は酒をこよなく愛した人物として知られています。でも、大宰府赴任直後に同伴してきた奥さんを亡くしていますから、悲しみをお酒で紛らわせていたのかもしれません。万葉集に撰ばれた大伴旅人の歌76首のうち、13首がお酒を愛する歌です。 730年(天平2年)、大伴旅人は自宅に山上憶良ら九州各国の国司や官人を招いて宴を開いています。有名な「梅花の宴」です。山上憶良のように唐に渡って学んだ者もいたでしょう。そんな高官ばかりですから、漢詩を詠む教養は全員が持っていたと思われます。でも彼らは、あえて和歌で詠んでいます。日本の風景、日本の想いを日本語で謡う。「日本」と言う国名を使い始めた意識の表れでしょう。
梅花の宴」での二人の歌が万葉集に撰ばれています。  
大伴旅人   わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも
山上憶良   春されば まず咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ
実際には「万葉仮名」で書かれていますから、読むのは難解ですが・・・日本語の表現っていいですよね。 山上憶良の歌の中で「・・・独り見つつや・・・」は、和歌の専門家に言わせると、奥さんを失った大伴旅人への心遣いが表れているそうです。優しいですね。
          ● 博多人形による梅花の宴の再現 (大宰府政庁展示館)
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山上憶良は重税に苦しむ農民、防人の帰りを待つ妻、幼い子供を謡った歌が多く、社会派の異色歌人として知られています。万葉集に78首撰ばれています。
高校の古文で習った、山上憶良の歌を覚えています。  
銀(くろかね)も金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも  
銀・金・真珠などよりも、子供以上に尊い宝はありませんよ  
山上憶良が筑前国司(福岡県知事)在任中に謡った歌です。 幼い子供への慈愛が感じられます。 優しくて素晴らしい国司でした。 
大伴旅人は730年、山上憶良は732年、それぞれ大宰府長官、筑前国司の任務を終えて、奈良の都に帰って行きました。 
  
 *「秋の七草と山上憶良」も覗いて下さい。
参考文献:日本史通覧(帝国書院)、福岡博覧、市史だより、福岡城だより、H/P「万葉集を読む」、山上憶良(ウィキペディア)、鴻臚館跡展示館解説板、他
画像:福岡市博物館、鴻臚館跡展示館展示・解説版、福岡城だよりNO-51より使用 

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