ここから本文です
香椎うっちゃんのブログ
ホームページ 「香椎浪漫」(検索)も時々覗いて下さい。

書庫全体表示

長崎ランタンフェスティバル2017 ①
 
24日(土)、JR九州ウォーキングです。 2017年最初のJRウォーキングは「長崎」にしました。 夜の「ランタン祭り」の会場も巡りたいので1泊します。 特急かもめ9号に乗って、長崎には午前1050分着。 改札を出た場所にウォーキング受付デスクが設けられていました。 受付デスクの後ろには、大きなオブジェと共に「ランタン祭り」のイベント広場があって、中国舞踏が披露されています。到着そうそう気分が盛り上がります。
               長崎駅改札前広場
イメージ 1
 
コースマップを確認して、万歩計をセット。 今日は相当歩かなければ、と覚悟しているのですが・・・コースマップに記載されている距離は8km。直線にした総距離は8kmでも、会場内を歩き回るので、歩行数は延びると思います。
                コースマップ
イメージ 2
 
長崎駅から東に出て、旭大橋東口交差点を右折します。 浦上川に架かる旭大橋の先には稲佐山の裾野が広がっています。 直ぐ左折して、元船の遊歩道へ向かいます。  
             旭大橋手前から稲佐山を望む
イメージ 3
 
途中で、デカイ「鉄玉」に出会います。 江戸時代からこの場所(大波戸)に置かれていて、長崎港の名物となっていたようです。 
             大波戸の鉄玉 (別名 鉄砲玉)
イメージ 4

説明を読むと”島原の乱で一揆が立てこもった原城を攻略するために、長崎で鋳造された大砲の弾丸と言い伝えられてきた・・・しかし、正確な記録も無いので、大砲の弾丸でない可能性もある”と書かれています。 そして、直径55cm、重量560kgとあります。いや〜大砲の弾丸の可能性はないでしょう。 戦艦大和の主砲の内径が46cmですよ。江戸時代初期に、こんなデカイ大砲を造るのは不可能と考えますが・・・専門家の皆さんは、どう思われますか? うっちゃん的に推理すれば、これは異国の船に「日本はこんなに大きな弾丸を撃つ大砲も持っているんだ」と言う威嚇のために造った鉄玉だと思いますが、如何でしょう? 長崎には大正時代に流行った座敷唄に「長崎七不思議」という替え歌があります。その歌詞の中では「玉はあれども大砲なし」と、七不思議の一つに数えられています。
 
フェリーターミナルの一番手前に長崎港観光遊覧船「新・観光丸」が停泊しています。 「観光丸」とは安政5年(1858)に配備された幕府の軍艦です。 観光丸は有名な咸臨丸と一緒に博多港にも入港しています。
                  新・観光丸
イメージ 5

大河ドラマ「竜馬伝」の撮影に使用され、船内に福山雅治のサインが残っています。「新・観光丸」の奥に写っている橋は「女神大橋:愛称ヴィーナスウィング」です。

                              長崎出島ワーフ
イメージ 6

海辺の複合商業施設でレストランが並んでいます。 稲佐山の夕焼けを眺めながらテラスで過ごすといいでしょうね。
 
1956年(昭和31年)頃の長崎港の写真が掲示されていました。
                 1956年頃の長崎港
イメージ 7

 出島岸壁  カトリック中町教会  三菱重工業長崎造船所  旧長崎魚市  旧長崎駅舎  浦上川 
 
長崎水辺の森公園を抜けると、松が枝国際観光船埠頭が現れます。なんと大型クルーズ船が入港しています。
                松が枝国際観光船埠頭
イメージ 8

このクルーズ船は博多港でも、月に45回は良く見かけます。 中国のクルーズ会社が運行している「天海新世紀・Sky Sea Golden Era」です。 と言うことは、今頃、中国からの訪日客が街中を観光しているのでしょう。 長崎ランタン祭りは、中国の旧正月を祝う「春節祭」が起源ですから、彼らにとっては正月旅行になるのでしょうか。
 
グラバー園・大浦天主堂の横道を抜けて、孔子廟へ向かいます。

イメージ 9
 
    孔子廟入り口 と 孔子廟儀門
イメージ 10イメージ 11

紀元前550年頃の中国は周王朝が崩れ、諸侯が対立した春秋時代が続きます。孔子はこの頃の思想家で儒教の創始者として、中国のみならず海外でも良く知られています。 その孔子の霊を祀っている「孔子廟」は日本の各地にありますが、圧倒的に素晴らしいのが長崎の孔子廟です。 台湾旅行に行かれた方は台北や高雄の孔子廟に寄られたと思います。孔子廟儀門の前を2頭の福建獅子が門を守っています。 門を抜けると広い中庭があり、正面中央に大成殿が見えます。 大成殿の周りを72賢人(孔子の高弟)石像が取り囲んでいます。

                       72賢人石像
イメージ 12イメージ 13













72体はそれぞれ等身大で、資料に基づいて北京美術工場で彫刻されたものです。現在、お昼の12時少し前ですが、大成殿の前でイベント場所取りのため数人が座っていました。13時から中国変面ショーが始まるようです。大成殿の後ろの「中国歴代文物展示館」と「孔子廟資料館」も中に入りましたが、写真撮影禁止で紹介できません。台北の故宮博物院とまではいきませんが、それでも貴重なものが展示されていました。 後日改めてゆっくりと来館します。
                  オランダ坂
イメージ 14

鎖国が終わった江戸時代から明治時代初期にかけて、中国人を初めオランダ人・アメリカ人・英国人などの貿易商人が長崎を訪れ、見晴らしの良い高台に邸宅を築くようになります。当時の長崎の人々は中国人・アジア人を除く諸外国の人々を全て「オランダさん」と呼んでいたことから、彼らの邸宅に続く石畳の坂道を「オランダ坂」と呼んだそうです。
                  三角溝
イメージ 15

オランダ坂の側溝は平石を2V字に組み合わせたもので「三角溝」と呼ばれています。水が少ない時でも多い時でも、排水し易いように工夫されているそうです。居留地造成に合わせて造られた遺構として大切に保存されています。
 
オランダ坂」から館内町に入ると「唐人屋敷跡」の入り口に到着です。「唐人屋敷跡」の扁額が架けられた中国風門が建っています。
                唐人屋敷跡入り口
イメージ 16

この入り口門の先に約9,000坪を占める中国人居住地がありました。寛永12年(1635)から中国の貿易船の入港は長崎港だけに制限されました。来航した中国人は帰国までの間は、それぞれ知り合いの日本人の家に宿泊していました。しかし、密通(密貿易)や混血児の問題が起こったので、幕府は対策として元禄2年(1689)、「唐人屋敷」を建設し、長崎奉行所に管理させて、中国人を帰る日までここで生活させたのです。 2階建て瓦葺の長屋20棟に2,000人近くの中国人が住むことが出来たようです。 屋敷跡を歩いてみました。
                唐人屋敷跡内の路地
イメージ 17

 石段坂道、細い裏道、軒下の迷路・・・今でも中国が溶け込んだ雰囲気を残した町ですね。 台湾・九份の石段路地を思い出しました。
 
                唐人屋敷 天后堂
イメージ 18

南京地方の人々が航海の安全を祈願して、元文元年(1736)に「天后聖母」を祀ったのが起源とされています。
 
唐人屋敷の数百m先が海辺でした。 商品の取引を円滑に行うために、海辺を埋め立てて中国船専用の倉庫区域を築造しました。埋め立て地域なので「新地」と呼ばれました。嘉永6年(1853)の黒船来航以来、幕藩体制は揺らぎ始め、維新への歩みを速めます。安政6年(1859)、幕府は長崎をはじめ函館・横浜・新潟・神戸を開港することとなり、長崎の唐人屋敷は幕府の管理から離れ、廃屋化していったのです。長崎の中国人は倉庫区域だった「新地」に、自らの手で新しく中華街を形成したのです。現在の「新地中華街」です。
 
唐人屋敷跡」から数分で「新地中華街」に着きます。
長崎ランタンフェスティバル」は新地中華街の人々が地域振興のために始めたのが起源ですから、ここが一番賑わうのでしょう。

           新地中華街イベント広場(湊公園)入り口
イメージ 19

上の写真を見ただけでは、日本とは思えません。

               イベント広場内 
イメージ 20
       
ド派手なランタン(中国提灯)やオブジェで気分が盛り上がります。
 
          イベント広場内 お堂のお供え物
イメージ 21

お供え物は豚の頭でした。 本物だと書かれていました。
 
               イベント広場内
イメージ 22
 
会場ステージ前の両側には飲み物・肉まんなどのお店が並んでいます。
イベントスケジュールを見ると、本日の「新地中華街ステージ」では、夕刻から「皇帝パレード」、「龍踊り」、「中国獅子舞」、「琉球太鼓エイサー」となっています。 今夜はホテル泊ですから、夜にもう一度来ようと思います。
 
時計を見ると午後1240分。 数日前から、中華街のチャンポンを楽しみにしてきましたから・・・今から中華街に入ります。
ところが、ここまで順調に進んできたウォーキングなのに・・・嗚呼悲惨!
 

 
 
              

この記事に

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事