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香椎うっちゃんのブログ
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志免町の竪坑櫓  国鉄勝田線
 
平成29年2月18日(土)のJR九州ウォーキングです。 気温11度で晴れ。 少し風がありましたが、ウォーキング日和です。 志免町はJRが走っていないので、隣町の須恵駅がスタート・ゴール駅になります。 香椎線のキハ47系のディーゼル電車に乗って、9時42分定刻に到着。 須恵駅では70名程のウォーキング参加者が降車しました。

                 コースマップ
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この日のコース距離は7km。所要時間約3時間。万歩計セットOK、スタート!

県道91号線を九州自動車道手前まで来ると、「旧志免鉱業所竪坑櫓」の建物上部分(矢印)が見えてきます。 
                91号線から志免方向
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ここから見ると「竪坑櫓(たてこうやぐら)」が相当大きな建造物であることが分かりますね。 写真右側の木々に覆われた小高い山、これは志免鉱業所時代のボタ山です。
糟谷炭田は良質な石炭が生産されることから、明治22年、海軍が採炭所を設立したことが志免鉱業所のスタートとなります。 軍艦や軍事工場用の燃料として 石炭が掘られていたので、俗に「海軍炭鉱」と呼ばれていました。 戦後は日本国有鉄道志免鉱業所となり、蒸気機関車の燃料として、石炭が生産し続けられました。 つまり、一貫して国が保有する国営の炭鉱でした。
                旧志免鉱業所竪坑櫓
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須恵駅を出発して30分ほどで、竪坑櫓に到着です。 真近で見ると本当にデカイですね。三井三池の宮原坑万田坑の竪坑とは構造が違うので一段と巨大に見えます。 海軍が石炭を大量にしかも安定的に生産するためには、より深い層の石炭を掘らなければなりませんでした。その為に昭和18年(1943)、当時「東洋一」と言われた「竪坑」の建設を進めたのです。
                当時の志免鉱業所 
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竪坑櫓鉄筋コンクリート造で高さは47.65mあります。金づちを立てたような建物の形をワインディングタワー(塔櫓巻)型と呼びます。 6階以上の4面は壁があり、8階部分に1,000馬力の巻上機が置かれ、地下430mまでケージ(箱)使って坑員をおろしたり、また、石炭を地上に運んでいました。 同じタイプの櫓で現在残っているのは、ベルギー(ブレニー)と中国(撫順)の3ヶ所だけと言われ、櫓自体が大変貴重なものになっています。
                                                       
うっちゃんが志免竪坑櫓について、何故詳しいか?と言うと、昨年(平成28年3月20日)の「糟谷地区文化財講演会」に参加していたからです。 志免町教育委員会の徳永 博文先生から「国の重要文化財」として学びました。

           糟谷地区文化財講演会 徳永 博文 先生資料
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当時の志免鉱業所の写真では、竪坑櫓の手前にもう一つ坑櫓が見えます。八坑櫓です。竪坑よりも早く、昭和13年(1938)に完成しています。 煉瓦造で傾斜角30度の連御坑口が残っています。総延長距離は929mに達したと言います。
       坑口と石炭層の略図       八坑の連御坑口跡 
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竪坑櫓や八坑口跡は志免町総合福祉施設「シーメイト」の敷地の中にあります。「シーメイト」の意味は直ぐに分かりました。志免(シーメ)の仲間(メイト)が集う施設 でしょう。
                             
当時の志免鉱業所の写真(三つ上)では、煙突が立っている場所が「シーメイト」本館になっています。 スポーツ施設、会議室、ホールを有し、交流サロン、レストランも併設されています。エントランスホールで旧志免鉱業所時代の懐かしい写真が展示されていました。 
           従業員住宅の道路で遊ぶ子供達  
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最盛期の志免鉱業所の出炭量は年間50万トンで従業員は6千人・・・家族を含めると数万人が竪坑櫓東側の住宅地に住んでいたのでしょう。 活気があったと想像出来ます。子供達の顔が明るくて元気です。
 
シーメイト」から数分歩くと「志免町産業遺産収蔵庫」に着きます。小さな小屋の中に各坑道から出土した遺物が保管されています。
       志免町産業遺産収蔵庫保存の第八坑扇風機坑のプロペラ 
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興味あるものが小屋の真ん中に置いてありました。 八坑道に空気を送る坑口に設置された大型扇風機です。直径3mの海軍水上偵察機の木製プロペラ(4枚羽根)を三連の串形に並べた珍しいもののようです。
 
             大正町商店街 (今と当時)
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往時の面影は残っていません。 数件の野菜果物屋さんとお魚屋さんだけでした。  
大正町商店街から十数分歩くと「鉄道記念公園」に着きます。

      鉄道記念公園手前の緑道(旧線路敷) と 旧志免駅跡 
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この緑道(遊歩道)は国鉄分割民営化前の昭和60年(1985)までは、勝田線(吉塚・宇美)の線路が通っていました。糟屋炭田(志免鉱業所)の石炭輸送と宇美八幡宮参詣客輸送のために、大正8年(1919年)、筑前参宮鉄道が開業させたのが勝田線の始まりです。その後、西日本鉄道と合併しますが、昭和19年(1944年)、戦時買収により国鉄勝田線となります。

昭和28年頃、京都・博多間を運行していた「特急かもめが、この勝田線を走っていたことをご存知ですか? 興味ある方は、2016年5月14日(土)のうっちゃんのJR九州ウォーキングブログ「宇美の歴史と文化」の半ば辺りを覗いて下さい。           

冬の日差しを浴びて、静かに佇む旧志免駅は昭和そのものですね。 ジーンときます。

            当時の思い出を残した国鉄志免駅 
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鉄道記念公園から最後の訪問地「岩崎神社」に向かいます。
                       岩崎神社
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岩崎神社」は江戸時代の神仏混淆時に、村民によって祭りが行われたことが起源のようです。志賀海神社の綿津見大神玉依姫、香椎宮の息長足姫(神功皇后)を含む五柱が御祭神です。
                        絵馬堂 
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御手水所で身を清め、拝殿にお参り。 そして日頃は開いていない絵馬堂に入ります。
「JRウォーキンング志免」の開催と言うことで、特別の開帳のようです。

絵馬堂の中には奉納された大変古い絵馬が掛けられています。現存する中で一番古い絵馬は安政三年(1856)に奉納された「黒田二十四騎図」です。
                    黒田二十四騎図
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黒田家の旗「中白の長のぼり」は確認できますが、人物については色・線が擦れてはっきりちは見えません。志免町の有形民俗文化財に指定されています。
 
もう一つうっちゃんの興味を引いた絵馬が掛かっていました。
                      下関講和条約図絵馬
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下関講和条約」は日清戦争に勝利したことにより、明治28年(1895)4月17日、下関の春帆楼(赤間神宮に隣接している割烹旅館)で調印されました。 書机を挟んで対談する右側の日本国・伊藤博文(顔が鮮明でない)と左側の清国・李鴻章です。 明治28年同年の制作になっているので、戦勝を祝っての奉納なのでしょう。 
どこの神社の絵馬堂も同じですが、絵馬の色が落ちて、保存状態が良くないですね。
 
同じ道を折り返し、91号線の「シーメイト」横を通って須恵駅に帰ります。
 
途中、道路左側に「ボタ山」が見えました。説明を受けなければ「ボタ山」だとは分かりません。
                  ボタ山 
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当時の航空写真中心部から右側に竪坑櫓が見えます。 ボタ山のこれだけの土を地下から掘り出すとは凄いですね。 
12時20分、須恵駅ゴール。 歩行数11,097歩でした。
 
志免鉱業所時代の写真画像はシーメイト展示写真をお借りしました。
 
 

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