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香椎うっちゃんのブログ
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大名町〜大手門(福岡城界隈)
 
今回は大名・舞鶴から下之橋御門(大手門)付近までの城下町跡を散策してみたいと思います。 まず、西鉄グランドホテル前印の天神西交差点から西通りを南へ向かいます。
                 散策マップ 
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 旧町名
        鉄砲町                   紺屋町 
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江戸時代、西鉄グランドホテルの後ろには幅50mのお城の堀(肥前堀)がありました。肥前堀の南側から現在の国体通り一帯は商人や下級武士の町だったのです。 紺屋町・鉄砲町・雁林町・東小姓町など・・・現在、若者に人気がある大名町の通りに、昔の町名が復活しています。
       
               若者の町・大名町
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         宮本武蔵              東小姓町 
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宮本武蔵が熊本細川藩に仕えたのが1640年。 その2年前の「島原の乱」前後に、武蔵は福岡の黒田藩を訪れ、仕官を願い出ています。 その間、住んでいた所が東小姓町だと言われています。 当時のお殿様であった2代目忠之公が、武蔵を迎え入れなかった理由は分かりませんが・・・。 もし仕官が叶っていたら、二天一流(二刀流)の「五輪書」は福岡藩に残っていたのかも・・・。
 
 上久(ジョーキュウ)醤油
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安政2年(1855年)、旧紺屋町(現在の場所)で創業以来160年を超える醤油屋さん。福岡が誇る老舗店です。 醤油は勿論ですが、合わせ味噌、万能味噌ダレは誰もが認める美味しさ。 ジョーキュウの宣伝をするつもりはありませんが、うっちゃんお奨めは「玉葱ポン」・・・カボスの香りにすりおろしの玉ねぎ・・・お肉にかけたり、サラダにかけたり・・・とにかく絶品!。
 
 
明治通り、昭和通りを越えて、親不孝通りまで戻ります。

 西郷南州翁隠家乃跡
   西郷南州翁隠家乃跡碑                 西郷隆盛
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京都にいた西郷隆盛と僧・月照(薩摩藩と朝廷の仲介役)は「安政の大獄」(1858年)による幕府の捜索から逃れるために、鹿児島へ向かいます。 途中、福岡滞在中に隠れた場所がこの地です。現在は海鮮料理店ですが、当時は醤油屋の倉庫でした。西郷は僧・月照を薩摩で匿う下準備のため、先に出発。 後日、僧・月照を薩摩へ送り届けたのが、福岡藩の勤皇の志士・平野國臣(ひらのくにおみ)です。 西郷からの信頼が厚かった福岡男児であります。 ところが、平野は後日、次の歌を詠んでいます。
 
わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山
 
自分が日本国を思う熱い想いに比べれば、桜島の噴煙などたいした事ない
 
鹿児島の人が聞いたら怒るような歌ですが・・・幕府に気兼ねして、西郷月照の受け入れを拒否した薩摩藩に対する怒りの心が表れています。脱藩した平野國臣はその後、尊皇攘夷の急進派とともに京都に集結しますが、寺田屋事件後に捕らえられ処刑されました。
福岡藩は惜しい人物を失くした・・・もし、彼が明治維新まで生きていれば・・・。
 
 大長寺
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西郷南州翁隠家乃跡碑前の古い通りを真っ直ぐ西に下ると、右側に見えます。
黒田官兵衛如水の弟・黒田利則(としのり)は、父・職隆(もとたか)と母の菩薩を弔うため、現在の那珂川町に寺を建立し、位牌を安置しました。利則公が亡くなった後、位牌はここ大長寺に移されたのです。現在も官兵衛の父・母(職隆公・夫人)と官兵衛のおじいちゃん・おばあちゃん(重隆公・夫人)の4基の位牌が安置されています。元祖・黒田家ですね。(現地前の解説板より)
 
 飯田屋敷の大銀杏
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この地は黒田家の家臣で飯田覺兵衛を祖とする飯田家の屋敷跡です。覺兵衛は肥後加藤清正公の重臣でしたが、清正公が改易になった時、親しかった黒田長政公の客分として召抱えられたのでした。 この大銀杏は覺兵衛が清正公を偲んで熊本城から移植したものです。
以来400年、風雪に耐えてきましたが、老齢による腐朽が進んでいます。福岡市は保存樹に指定し、これから長い年月をかけて再生治療を行っていきます。(現地解説板より)

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 玄洋社跡
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ドコモDOCOMOビルの前です。 「玄洋社」は西南戦争後、旧福岡藩士(頭山 満、平岡 浩太郎など)による自由民権運動から結成された政治団体です。成長するに従い、自由民権運動からは遠ざかり、条約改正断行・日清開戦・大陸進出などの対外強硬策を訴える国家主義団体になっていったのです。 そして、日本国の政治に大きな影響を与えてきたのですが・・・敗戦後、占領軍GHQによって、「国家主義の気違いじみた一派」として解散させられました。 確かに、他国を侵略することは認められません・・・しかし、玄洋社の社則に「皇室を敬戴すべし」、「日本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」とあります。 言葉そのものを、日本人のうっちゃんは「その通りだ」と思っているのですが・・・。
 
 
 黒田家浜町別邸跡
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舞鶴3丁目の福岡消防局と駐車場の間に石碑だけが建っています。江戸中期から昭和39年まで、舞鶴3丁目は「浜町」と呼ばれていました。 その前は「多葉粉(煙草)町」だったのですが、あまりに火事が発生するので、裏が美しい浜だったことから「浜町」に改名されたそうです。廃藩置県の後、お城は陸軍の兵営になった為、この地に黒田家別邸を建設して、黒田家の家宝や大切な資料を収めたのでした。ところが、昭和20619日、米軍爆撃機B-29から落とされた無数の新型ナパーム弾(焼夷弾)によって、全て焼けてしまったのです。 もしかしたら、焼けた資料の中に天守閣の設計図があったかも・・・。
 
 東学問所(修猷館)跡碑
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三井住友海上火災ビル横です。 天明4年(1784年)、福岡藩九代藩主・黒田斉隆の時代に二つの藩校が創設されました。一つは東学問所・修猷館(しゅうゆうかん)。館長は朱子学者・竹田定良。 もう一つは西学問所・甘棠館(かんとうかん)。館長は儒医であり徂徠学者・亀井南冥(かめいなんめい)。 両校がライバルとして開校した年に、志賀島で金印が発見され、二人の学長が鑑定書を提出したのです。 現在では甘棠館の亀井南冥が書した「金印弁」が有名です。 徳川幕府が発した「寛政異学の禁(朱子学に統一せよ)」によって、甘棠館は廃校。 後は修猷館が藩校として存続し、現在の県立修猷館高校につながっています。

上之橋を渡り、城内(鴻臚館跡広場)に入ります。
 
 鴻臚館 万葉歌碑
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天平8年(736年)、新羅に派遣される使節が筑紫の館(つくしのむろつみ・鴻臚館の前身)で足止めされ、故郷の大和に残した家族を偲んで詠んだ歌。 万葉集 巻15に4句収められています。
 
今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松陰(かげ)に ひぐらし鳴きぬ
 
秋になったら帰国すると家族に言って出て来たが、まだ筑紫国に居る。ひぐらしが鳴き始めたけど、いつ帰れるのだろう。
 
他の3句では、筑紫の館から志賀島が眺望できる、と詠っています。 江戸時代から筑紫の館は現在の中呉服町付近にあった、とされてきました。 しかし、九州大学の中山平次郎博士は、万葉歌の「志賀島が眺望できる」、「ひぐらしが鳴いている」の二つの内容から、筑紫の館(鴻臚館)は福岡城内跡にあった、と推測したのでした。
 
 
 黒田二十四騎(博多人形像)
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福岡ファイナンシャルビル1階ロビーに常設展示されています。 金融機関のビルに用事も無いのに入るのは躊躇しますが・・・入り口を入って受付左側です。博多人形作家協会が制作したもので、絵画とは違った感覚で二十四騎の凛々しい武者姿が楽しめます。

後ろに黒田家藤巴(ふじともえ)紋の陣幕が張られ、その前面中央に、長政公の水牛脇立兜と両脇に黒田家の旗(中白の長のぼり)と馬旗(吹貫)が飾られています。二十四騎とは親族一門から3家、播磨姫路時代から仕えてきた大譜代から19家、中津藩時代から仕えた古譜代から2家、の合計二十四騎を言います。大譜代の中には、大河ドラマでも有名な栗山善助、母里太兵衛、後藤又兵衛、井上光房らが含まれます。 一見の価値ありです。
 
 圓應寺(えんのうじ)
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黒田官兵衛如水の正室・光姫が夫・官兵衛が亡くなった慶長7年(1602年)に出家し、開基した浄土宗のお寺です。 門の藤巴紋に格調を感じます。 光姫は息子の長政より長生きして75歳で亡くなりました。孫の3代藩主・忠之公が圓應寺にお墓を建て葬りました。 ここから息子や孫が住んでいた本丸・天守閣(うっちゃんは天守閣が存在していたと信じています)を見守っていたのでしょう。 そして、夫である如水公が過ごした三の丸御鷹屋敷(おたかやしき)の近くに居たかったのでしょう。御鷹屋敷までは250mの近さです。 NHK大河ドラマでは、光姫は光(てる)姫と呼んでいましたが、圓應寺内で発見された資料によると、光(みつ)姫と読む可能性が高いとのことです。 現在、お墓は千代町の崇福寺に移され、夫・官兵衛、息子・長政と一緒に眠っておられます。 圓應寺内には、光姫の法名「照福院」と刻まれた供養塔が建てられています。 
               照福院供養塔
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照福」とは、「岡を末永くらし見守る」の意味です。有り難いことです。


「武蔵が福岡藩に仕官していたら」、「平野国臣が維新まで生きていたら」、「天守閣の設計図が残っていたら」などの「もし・・・だったら」は、歴史を語る時には使ってはいけないのですが・・・それでも、福岡を愛している人間は、そう考えてしまうのです。
 
*参考文献:H/P「福岡市の文化財」、「福岡市史」、「福岡市よかなび」
      ウィルプランニング「福岡歴史探訪」、海鳥社「福岡博覧」 
*西郷隆盛、宮本武蔵画像はウィキペディアより。フリーメディア確認済み。
*散策マップは「We Love 天神協議会」&「博多まちづくり推進協議会」が発行した(天神・博多まち歩きマップ)を転用いたしました。
 

 

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