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西公園”荒津山” (福博プチ散歩)
 
西公園は、古くは荒津山(又は荒戸山)と呼ばれていた丘陵地です。 明治14年から「荒津山公園」としてサクラやカエデなどが植栽され、明治33年(1900年)、福岡県管理による「西公園」として開園しました。 大手門から荒戸・西公園にかけて、黒田藩士に関連する名所も多いのですが、まずは黒田如水公、黒田長政公が祀られている光雲神社(てるもじんじゃ)」にお参りしてスタートすることにします。

                 西公園散策マップ
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参道を進み、本殿前の石段を上ります。

              光雲神社石段
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黒田五十二萬石にちなみ、石段は52段です。
 
 光雲神社(てるもじんじゃ)
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黒田如水公と初代藩主長政公の親子が祀られています。神社名は如水公の法名「院殿」と長政公の法名「院殿」の一字ずつに由来します。 江戸時代、ここには荒戸山東照宮が建っていました。 明治維新後は参拝者も少なくなり、廃宮となった跡地に城内から光雲神社が遷座したのです。 

徳川家康を祀った東照宮が何故この地に? 荒戸山東照宮を建立したのは2代藩主忠之公です。忠之公にとって、徳川家康はおじいちゃん(祖父)になります。 初代藩主長政公は家康の養女・栄姫を正室として迎えています。 関ヶ原の戦いを前にした政略結婚でしょうが・・・。 孫がおじいちゃんを祀ったのです。或いは黒田騒動(お家騒動)を無難に乗り切るためか・・・。

      光雲神社拝殿                 拝殿天井
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拝殿で上を見上げると、黒田家の藤巴(ふじともえ)家紋を真ん中に、舞鶴城にちなんだ二羽の丹頂鶴が描かれています。 参拝の際に、賽銭を投げ入れると天井の鶴が鳴きます。
 
境内入り口の右側に槍を持った武士が立っています。 母里太兵衛です。

                 母里太兵衛像
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福島正則から呑み獲った名槍「日本号」の逸話は「黒田節」で謡われています。 黒田二十四騎の中でも、特に選ばれた重臣・黒田八虎の一人。 でも、如水・長政親子に言わせると、八虎の中でも序列1位なのでしょう。 だからこそ境内入り口に立って、お二人をお守りしているのだと思います。

          黒田長政の兜(黒漆塗桃形大水牛脇立兜)
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長政公が若かりしころ愛用していた、大変貴重で価値ある兜です。 母里太兵衛が名槍「日本号」を持ち帰ったことで、福島正則は機嫌が悪くなります。そこで、黒田長政は仲直りのために、大切にしていた「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」を福島正則の「一の谷形兜」と交換したのです。
 
② 皇太子嘉仁親王 御手裁 松桜
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光雲神社本殿の後ろを上った所が、標高48mの荒津山頂上です。縦に細長い石碑には「皇太子嘉仁親王 御手裁 松桜」と彫られています。皇太子嘉仁(よしひと)親王とは後の大正天皇です。 明治33年(1900年)10月28日、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が北部九州を巡幸された折、ここに松と桜を植樹された記念石碑です。嘉仁親王は次の日の10月29日、東区の香椎宮にて杉の木を植樹され、裏山で松茸狩りを楽しまれました。 
 
③ 加藤司書 記念碑
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手前の石碑は「加藤司書公」となっていて、「銅像」の文字が削り取られています。銅像は奥の台座に立っていましたが、戦時中の金属不足の際、供出させられ、現在はありません。 黒田藩における加藤家は、代々中老職に列せられる名門で、先祖の加藤重徳(しげのり)を語るには、織田信長の時代まで遡ります。信長に反旗を翻した荒木村重を説得に行った黒田官兵衛は、逆に捕らえられ石牢に1年間監禁させられます。その時の牢番で、官兵衛を励まし続けたのが加藤重徳でした。 この後の話は長くなりますので簡単に・・・加藤重徳の次男・一成(かずなり)は黒田の姓を与えられ、朝倉甘木の三奈木・黒田家の初代当主となります。長政公を助けた黒田二十四騎の一人です。 加藤重徳の長男・加藤吉成(よししげ)が黒田藩中老職としての「加藤司書公」の始祖となります。
 
江戸末期、加藤司書は勤皇派の中心人物として活躍していました。幕府の長州征伐の際は、薩摩の西郷隆盛と共に幕府軍の解兵に尽力し、戦いを中止させます。 長州にいた三条実美ら五卿を大宰府に移し匿います。それから、大宰府には坂本竜馬らが訪れ、勤皇志士らのメッカとなったのです。 ところが藩主・長溥(ながひろ)公は藩論を勤皇から佐幕へ反転させます。慶応元年(1865年)、一丑(いっちゅう)の獄の大弾圧によって、140名の福岡藩勤皇派が処罰されました。加藤司書は切腹、享年36歳。

           供出前の加藤司書銅像             加藤司書肖像画
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明治維新まで、あと3年でした。 明治新政府に加藤司書が加わっていたならば・・・。黒田長溥公を責めることは出来ません。 立派なお殿様でしたから・・・英明で立派過ぎたのですよね。 島津藩のように西郷や大久保に任せておけば良かったのに・・・。 加藤司書を語るにはページ数が足りませんので改めて。
 
④ 平野 國臣像
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福岡藩勤皇の志士で、忘れてはならない、もう一人の人物が平野國臣です。最初に建てられた銅像は、加藤司書像と同じく戦時中に供出させられましたが、昭和39年の平野國臣100年祭の時に再建されました。平野二郎(國臣)は藩士時代、江戸や長崎での勤務の際、欧米列強の先進文化を目の当たりにし、新しい国造りを夢みます。 京都で西郷隆盛らと知り合い、勤皇の志士として幕末の舞台に登場したのです。

藩の臣でもなく、幕府の臣でもなく、自分はであるとして、名前を國臣に改名して脱藩します。 西郷隆盛からの信頼は厚かったようです。西郷隆盛が島津のお殿様から裏切られ、入水自殺しようとした時、平野國臣が助け上げました。もしこの時、西郷が死んでいたら・・・。 その後、京都での活動中に幕府側に捕らえられ、元治元年(1864年)、新撰組によって処刑されました。明治維新の4年前でした。 平野國臣は最初から尊皇攘夷では無くて、根本的なところでは、黒田長溥公と考え方が合っていた部分もある、と思うのですけどね・・・。 福岡藩には薩長土肥に負けないくらい、優秀な人材が多く居たのです。

 
西公園の麓まで下り、北側の「かもめ広場」に向かいます。 広場前の港(入り江)は、鴻臚館時代に遣唐使・遣新羅使の船団が出入りする場所でした。 江戸時代には「波奈港」と呼ばれ、福岡藩の重要な要港だったのです。 次の写真は西公園東側展望広場から撮ったものです。

⑤ 波奈港 
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正保4年(1647年)、ポルトガル船が禁止令を破って長崎に入港した際、「長崎御番(長崎港の警備)」を命じられていた福岡藩は軍を率いて長崎に向かいます。 この時、御用商人だった大賀宗伯は他の博多商人と共に藩主・忠之公を助け、この波奈港に兵士や食料などを運ぶ船団を準備し、出航させたのでした。
 
幕末の頃、藩の軍艦・日華丸大鵬丸蒼隼丸もこの波奈港に停泊していました。
 
⑥ 日本遠洋底曳網漁業協会寄贈モニュメント
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かもめ広場」の一角に置かれています。 横の説明版を要約すると、次のように書かれています。
大正2年、2艘の船での底曳網を試したところ大漁の成績を収め、昭和9年に博多港に新基地を設け拡大していった。 最盛期には操業船226隻、従業員数2,972名、年間漁獲高12万8千トンとなり、福岡市経済の原動力となって支えて来た。漁業基地開設65周年を記念して、漁船の象徴であるスクリューのモニュメントをここに寄贈する。
 
⑦ 午砲場跡(住吉神社)
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福岡造船所近くに鎮座する住吉神社の片隅に石碑が建てられています。
東経135度に位置する「明石」が日本の標準時と定められたのが明治21年7月。 世界基準での日本の正しい時刻が決まったのです。 福岡に於いては、須崎にあった福岡藩の台場(砲台)跡で、12時に大砲(空砲)を鳴らして、正午の時刻を住民に知らしめる民間会社が現れました。 

午砲」と名付けられ、その音から「ドン」と呼ばれていました。 ところが住民から「音がうるさい」との苦情が出たので、荒津山(西公園)の中腹(参道から東側展望広場へ向かう途中のトイレ横)に移動させます。 しかし、そこでも近くの住人から、音の衝撃で「障子が破れた」、「棚から物が落ちた」などの苦情が出て来ました。 已む無く、西公園下の石碑が建てられているこの場所に落ち着いたのです。 しかし、今度は市内中心部の住民からは「聞こえない」との苦情。 この「午砲」は運営する民間会社が経営困難から中止になるのですが、こんどは「寂しい」との声。
 
                午砲(ドン)
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午砲」は福岡市が運営を引き継ぎ、昭和6年、市庁舎屋上のサイレンに交代するまで続きました。 
明治36年から昭和6年まで使用された三代目の「ドン」は、現在、福岡市博物館に保存されています。
 
 
*加藤司書肖像及び銅像写真の出展は「節信院:加藤司書傳」より フリーメディア確認
*写真は平成29年2月22日及び4月5日撮影分を混合使用
*散策マップ:マピオン使用
 
 
 
 

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