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香椎うっちゃんのブログ
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牛頸山(うしくびやま)ハイクと牛頸の由来 
 
415日(土)の天気は晴れ、気温24度。 西鉄電車大牟田線に乗って、下大利駅に向かっています。今日は西鉄レッツハイクに参加して、黒金山・牛頸山に登ろうと思います。
前夜から、チョッピリ気になっていることがあるんです。415日は北朝鮮の初代 金日成(イルソン)将軍様の誕生日。 そして米国海軍の空母カールビンソンが朝鮮半島に向かっている。 心配だな〜・・・それでも、出かけました。
下大利駅から西鉄バス(23番)で約20分、南山手団地バス停終点から徒歩15分で、牛頸ダムの”水辺公園”に到着。

              牛頸ダム”水辺公園”
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既に受付を終了した数十人毎に説明を受けて順次出発しているようです。
              
              ワッペンをリュックに貼り
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うっちゃんの受付番号は190番でした。 いつものように”森永ミルクキャラメル”をいただいて・・・今日は”塩分タブレット”も配られました。 この天気でかなりの汗をかくでしょうから、塩分は助かります。
 
                 コースマップ
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コースマップを見て、少し心配! この数年の間で、高さが400m以上の山には登っていません。 しかも二つの山を縦走するなんて・・・。総距離11kmはウォーキングでは大した事ないが、アップダウンがありますからね。 説明を聴くと、登りやすい山のようですから、自分のペースを保って行けば大丈夫でしょう。 それに、途中の要所でスタッフが待機しておられるので、大変安心しています。
 
       牛頸山・黒金山登山口            登山道
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ここから登山道です。 後ろを歩いている、おばちゃん三人組の会話が聞こえてきました。「ネエ!ネエ!この辺はね、むかし屠殺場があったんだって。だから牛頸って言うらしいヨ」。あ〜、屠殺場の説も広まってるんだ! うっちゃんも2年前に「牛頸」の地名に関心を持ったので、色々と自分なりに調べていたのです。 それは最後にお話ししましょう。今は二つの山を登ってゴールすることが先です。

                杉林の登山道
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杉林の中を、歩きやすい登山道が続きます。

       黒金山山頂            稜線を牛頸山へ向う
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水辺公園のスタートから1時間で、標高411mの黒金山山頂に到着。標識が無ければ山頂とは分からない狭いところです。 しかも、杉林で眺望がありません。 ここから幾つかの峰を縦走して牛頸山へ向かいます。 上ったり下ったりで少し辛かった。

      三市町境界山                 急な上り坂
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途中、三市町境界の標識が・・・大野城市とあとは何処だろう? 帰宅後に調べました。筑紫野市と那珂川町でした。 牛頸山山頂近くでは、右上写真のような、急な上りもありました。   牛頸山山頂に到着です。
 
               標高448mの牛頸山山頂   
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この牛頸山山頂も狭いです。 先着の20名程で混雑していました。
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但し、黒金山山頂とは違って眺望は最高です。
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この景色を見るために登ってきたようなものです。 しかし、次から次と山頂に到着する人々で大混雑です。 お昼どきですが、昼食の”おにぎり”は下山して、水辺公園までガマンします。素敵な景色をカメラに収めて山頂を下ります。

水辺公園までは、殆どが下りです。 いきなり急な下り階段がありました。

               急な下り階段
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下り終えて、下から撮った写真です。 ここから、もう一度登れ、と言われたら絶対に「NO」です。

途中から車も通れる広い林道を歩きます。 沢に下りて、冷たい水にタオルを浸し、汗を拭きます。気持ちイーッ!

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12時55分、水辺公園に到着。ゴールの受付を終わって、公園の草の上に座り込みます。いつも思うのですが、自然の中で食べる”オニギリ”は本当に美味しい! しかも、ソニーのウォークマンでオールデイズを楽しみながら・・・。 いま、デル・シャノンの「太陽を探せ」が流れています。 青春の思い出を「キープ・サーチン Keep Searchin’」です。 

フッと、登り初めのおばちゃん3人組の「屠殺場」の話を思い出しました。
牛頸の地名の由来は「屠殺場」なのか?

2015117日(土)の「JRウォーキング大野城駅」に参加した時に「牛頸須恵器窯跡」を見学しました。 上大利から牛頸にかけて500基以上の窯跡が確認され、西日本最大の須恵器製造地帯として国指定遺跡になっています。 この時から、「牛頸」という地名に興味をもって時々調べていたのです。
 
牛頸山の「牛頸」には色々と説があって面白いのです。 その説を挙げてみると・・・、
 菅原道真公が京から大宰府に赴任する際、この辺りで牛車の牛が疲れてしまい、首を垂れて動かなくなった。
 村の平野神社の西にある山(古野山)が、牛の頭が伸びた形に似ていた。
 縄文時代は海岸線がこの辺りまで入り込み、「入り江」を意味するアイヌ語の「ウシ」が地名に残った。
 68世紀にこの地に移って来た渡来人の故郷の名称「牛頭」を村の名につけた。牛頭が牛頸に転訛した。
 この地に牛の屠殺場があった。
 
は近年のガサネタですね。 は天満宮の神使が「牛」であることから、後から地名に絡めたのではないでしょうか。 は、縄文時代にアイヌ語が入って来た?こと自体に納得できません。
の説は、黒田藩の儒学者・貝原益軒が書した「筑前国続風土記」の中に書かれているので無視はできません。 但し、うっちゃんはが正しい説だと思い込んでいるので、については次のような仮説を考えました。

貝原益軒の一番弟子に竹田定直(春庵)と言う藩の学者がいます。竹田定直の孫が竹田定良で藩校・修猷館(しゅうゆうかん)の初代館長です。 で、こともあろうに竹田定直(春庵)はここ牛頸に居を構えていたのです。貝原益軒は「筑前国続風土記」を記すに当たり、藩内を自分の足でくまなく歩き、目で見て、耳で聞いて、手で触って内容を確認しました。ところが、「牛頸」についてだけは、友人でもある竹田定直(春庵)に「村人に聞いておいてくれ」と安易に頼んだのではないかな?。 そんで、竹田定直は近くに住むお百姓さんに聞いて、昔から伝わる話を貝原益軒に伝えた。 でも、もしかしたら、この説が当たっているのかもしれません。
 
さて、うっちゃんが調べたの説ですが、牛頸が須恵器の一大生産拠点だったことが重要です。 500基以上の窯跡が確認されているのですから。 縄文式土器や弥生式土器が平地窯で焼かれていたのに対し、須恵器は山の傾斜を利用した登り窯によって焼かれます。高温で焼かれるので硬くて丈夫です。これらの技術は古墳時代に朝鮮半島から伝えられました。 日本書紀によると「須恵器の技術は新羅の渡来人が伝えた」とあります。ただ、焼き方の技術を地域別にみると、朝鮮半島南部の伽耶(かや)だと言われています。新羅は慶尚北道、伽耶は慶尚南道で隣同士ですから、境の地域辺りから伝わった焼き物と考えて間違いないのでしょう。 そして、この境の地に1430mの伽耶山が座しているのです。
この伽耶山牛頸の地名に関連してきます。

私たちが知っているスサノオノミコトの話(神話)は・・・スサノオが高天原で粗暴を行ったので、神々から追放され、出雲に降った。そこで、その地を荒らしていた八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した・・・こうですよね。 ところが、日本書紀には異説というのがあって「一書に曰く・・・」があるのです。 追放されたスサノオは新羅曾巳茂梨(ソシモリ)という所に降りたのですが、そこは荒れた土地だったのです。スサノオは「ここはイヤだ!居たくない!」と言って、土の船を造って東の出雲に渡ったそうです。

この曾巳茂梨(ソシモリ)が何処であるのか、数々の説があるのですが、慶州(古代新羅)に住む郷土歴史研究家の説を紹介します。

昔はこの地に、「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していました。 その山は現在の伽耶山です。 伽耶とは仏教が伝わってきた以降の名で、古代には「牛の頭=ソシモリ」と言われていました。

日本ではスサノオのことを、牛頭天王(ごずてんのう)とも呼びます。関連する事柄が広がります。

ソシモリ山牛頭山=伽耶山の麓に住んでいた人々が玄界灘を渡って、須恵器を焼き始めた土地に懐かしい故郷の名前(牛頭)を付けたのです。 では、何時「牛頸」になったのか? 近年ですね。 明治17年までは、御笠郡牛頭村と書かれていましたから。 「頸(首)」と「頭」は意味としては同じに扱われます。 首都、首長、首相など・・・首は中心・トップの意味を持ち・・・「頸」は強いと言う意味もあります。 と言うことで、うっちゃんはを支持します。

78世紀の新羅からの渡来人は、壱岐から直接、糸島(今宿)に上陸しました。 そして、美しくて懐かしい山を見つけて「伽耶山可也山(糸島富士)」と名付けたのでしょう。 牛頭(頸)で須恵器を焼く人口が増え、平地には大きな村が出来ました。 故郷の国の名前から、新羅原=白木原と付けたのかもしれません。 うっちゃんは30代の頃に読んだ金 達寿”氏の著書「日本の中の朝鮮文化」の影響が強すぎますネ。

 
参考:大野城市(歴史と文化財)ホームページ
   九州国立博物館 展示 ホームページ
 
 

 

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