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黒田猛将虎退治

黒田猛将虎退治 飾り山笠 2017
 
九州北部各地の大雨災害には心が痛みます。 特に福岡県朝倉市・東峰村、大分県日田市など、甚大な被害を受けられた皆様には心からお見舞い申し上げます。 今なお避難されている皆様、そして、復旧活動に従事されている皆様の安全をお祈りしています。
 
こんな中、博多祇園山笠 2017がスタートしました。 個人的には、今ひとつ、お祭りに気が乗らない面も感じますが・・・だからこそ、博多の男たちが被災地の皆様を勇気づける気持ちを持って、全力で山笠を舁くことが大切です。
 
市内14箇所に建てられた「飾り山笠」のうち、福岡ドームを除く13箇所を7月2日(日)廻ってきました。 今年も歴史的に興味を持った「飾り山笠」を紹介したいと思います。 呉服町交差点に建った7番東流 飾り山笠表を飾る「黒田猛将虎退治」です
 
  ■ 黒田猛将虎退治  7番東流 表  人形師:白水 英章
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文禄2年(1593年文禄の役)、明軍と休戦した日本軍は、漢城(ソウル)から釜山まで撤退し、日本へ帰国します。 しかし、朝鮮半島南部を支配する為に、南海岸(蔚山市・釜山広域市を含む慶尚南道)付近に日本式の城(倭城)を築き、各藩の武将に残留させます。 30個以上の倭城が確認されていますが、釜山と蔚山(ウルサン)の中間点に、黒田長政がいた「機張城(キジャン城)」があります。 
 
              長政築城の機張倭城位置  
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韓国では機張倭城(キジャン・ウェソン)と呼ばれます。倭城は朝鮮半島に於いて使用される言葉で、倭城の「倭」は倭寇の「倭」です。 侮蔑の意味が含まれていることを、歴史の事実から知っておく必要があります。 そのことは別の機会に・・・。 休戦中黒田長政この機張城に残留しました。
 
       黒田長政が築城した機張倭城(キジャン・ウェソン)
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しかし休戦状態ですから戦はありません。 記録では文禄3年2月13日、長政は鉄砲を持ち、二人の家来(菅六之助林太郎右衛門)を従えて、「虎退治」に出掛けています。

虎の肉は滋養強壮の効果があると考えられていた為、豊臣秀吉は朝鮮半島残留組の武将に、虎の肉を塩漬けにして送るように命じていたのです。 その意味では「虎退治」ではなくて「虎狩り」ですね。
 
                  黒田長政   
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山に入ると直ぐに一頭の大きな虎が現れました。 虎は腰を屈めて、ジワジワと機を伺いながら長政に近づいて来ます。長政は銃の照準を合わせたまま待ちます。瞬間、虎が跳びかかったところで鉄砲が火を噴き、虎の頭を射貫いたのでした。 大虎の体はドスッと鈍い音をたてて、長政の前に倒れ込みました。
 
                   菅 六之助  
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二頭目は赤具足を着けた菅六之助の前に、興奮した状態で現れました。 牛もそうですが猛獣は赤色に興奮するのでしょう。 黒田家では、一つの戦いで七つ以上の首級を挙げた者に赤具足が許されるきまりがあり、それは誉れ高き武勇の証でした。 黒田24騎の一人であり、新当流と新陰流の両方を極めたこの剣豪に立ち向かった虎が不運でした。 刃が光った瞬間、虎は命をおとしてしまいます。 

文禄・慶長の役で菅六之助が使用した太刀は、備前吉次が作った名刀で「南山」と呼ばれ、現在も直系の子孫に伝えられています。 第94代内閣総理大臣:菅 直人とは直接の血縁関係はないが、同族であります。
 
                 林 太郎右衛門  
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三頭目の虎は、これまた黒田24騎の一人で、槍の名手である林 太郎右衛門の前に現れます。大きな口を開けて襲いかかりますが、林 太郎右衛門突き出した槍が虎の喉の奥を突き刺します。 虎は槍を噛み砕いて、更に向かってきました。 林 太郎右衛門素早く刀を抜き、落ち着いて討ち取ったのです。 
 
舞鶴公園(福岡城)の御鷹屋敷跡(如水公の隠居屋敷)近くに、「名島門」が移築されて立っています。 小早川隆景が築城した名島城の脇門だったのですが、黒田長政が居城を移すとき、林 掃部(かもん:太郎右衛門の晩年の名)に下げ渡され、林家の邸宅門として使用されていました。 
                                        名島門    
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文禄・慶長の役での虎狩り(虎退治)と言えば、絵画で良く見る加藤清正が有名です。

                 加藤清正の虎狩り  
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秀吉の家来で有名な「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられるほどの槍の名手です。文禄の役では小西幸長の1番隊に続いて、2番隊で出発し、朝鮮半島の奥深くまで侵攻しています。 しかしながら、歴史の事実として、彼は虎狩りをしていません。 林 太郎右衛門の虎狩りがモデルになって・・・江戸時代に、清正公を懐かしむ肥後の人々が創作したのではないかと言われています。
              
初めの倭城位置図の中で、黒田長政が築いた機張倭城の北に西生浦倭城(ソセンポ・ウェソン)という城があります。 この西生浦倭城加藤清正が築いたのです。 保存状態が良いので、日本式実戦用城郭の研究に、貴重な史跡となっています。

      西生浦倭城 本丸            二の丸入り口
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文禄の役でちょっとしたミスを犯した清正は、秀吉の怒りに触れ、京都伏見で謹慎させられています。 よって、休戦中は朝鮮半島には居ませんでした。 代わりに、この城には浅野幸長が残留していたので、清正は虎退治出来なかったことになります。 
 
清正は秀吉と寧々(正室・北の政所)から実の息子のように育てられました。 幼少の頃の名前が「虎ノ助」で、二人からは「トラ」と呼ばれていました・・・そんなことも、猛将イメージの「虎退治」につながったのではないでしょうか・・・。 

福岡市においては、「虎退治林 掃部(槍を持った)」を歴史的事実として、世間に広く知らしめて行きたいですね。 そうすると、「名島門」の観光価値が上がっていきます。
 
それよりも、黒田長政らが送った塩漬けの虎肉を、大坂城の秀吉はどんな調理方法で食べたのでしょうか。 やっぱし、プルコギ(焼肉ですかね?
 
 
■ 黒田長政、菅六之助林 太郎右衛門の肖像画はウィキペディアからお借りしました。
■ 倭城の地図及び倭城跡写真は「夕里@韓国で城めぐり」さんのホームページからお借りしました。
  
■ おんな城主 直虎  飾り山笠2017

 
 
 

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