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一言でいうと「面白かった」 一気に読んでしまった。
でも、この小説の難解な岩手弁の洪水を芥川賞の選者達がどれだけ心の底からの言葉として理解し、そして選んだのか、不思議なキブンだった。みんな(選者達)、分かったの? 分かったんであれば凄い。まぁ、だから選者たりうるんだろうけど。
物語は主人公の桃子さん(推定:約74歳)の一人語りである。15年前に故郷の岩手弁を話す、愛する伴侶を失った。桃子さんは、その伴侶はとても美しい男だったという。そう、東北には時々目元の涼しい肌の白い、そして眉や髭の濃い美しい男がいる。そんな男を想像した。
その愛する、かけがえのない男が心臓の病で急逝した。何故死んだのか。自分が死に至らしめたのか。胸を掻きむしるような悲しみが襲う・・・でも、その悲しみの最中に、自由に
なった喜びを感じている自分を見つけてしまう。
それは著者本人の体験でもある・・・と著者が語っている。
子供たちも自立し、一人になった桃子さんが、かつてのニュータウンでいまは老人が圧倒的に多い町で自らの内なる自分や黄泉の人たちと語り合う。その言葉が、二十歳頃まで住んでいた生まれ故郷の岩手弁になる。
そう、自分の本当の、根っこからのココロを語ろうとする時、人は最初に覚えた言葉で語るのがしっくり来るのかも知れない。
その為に、この一人語りが岩手弁の洪水になる。遠野の語り部の岩手弁を完全理解した実績を持つオレも、この岩手弁の文字列に四苦八苦した。98%程度は理解したものの、あやふやな部分を残しながらの読了でした。
一人語りの部分で、内なる自分と語る部分もあるが、他にとうに亡くなったばあちゃんとの会話も出てくる。その他の死んだ家族達との会話も。この部分も興味深かった。と、いうのは一昨年亡くなったオレの父がそんな感じだったのだ。
父より先に死んだ者たちが、隣の部屋でかしゃかしゃくちゃくちゃ話をしているという。あいがだ(あいつ達)は何処にいるんだ?と時々顔を見せに秋田の実家に帰るオレに問うことがあった。ある時は父の母が出てきて「おがだじゃ」と言ったという。「おが」というのは「あんまり」という意味。父の母(オレにとって祖母)は、父にあんまり長生きしすぎる。と言ったというのだ。そんな父とあの世の人たちとの会話と同じようなことが、この小説でも繰り広げられていた。作者自身の経験にしては若すぎる(まだ63歳)から想像なんだろうか。
そんな桃子さんが、美しい顔を持ち心も真っすぐな大好きな亡き夫の墓参りに行く。半日の行程をおにぎりを持って。途中、笹薮に入ったり足を挫いたり・・・でも、行かねばならない。こんな肉体的な苦痛などとっくに超越した筈だ。桃子さんはずんずん歩く。
その時、呟くのだ「おらおらでひとりいぐも」・・・タイトルにもなっているこの言葉の意味をオレは二通り思う。一つはもっとも一般的な解釈となるであろう「オレはオレで一人でいくさ」。もともとは宮沢賢治の「永訣の朝」という妹との別れに際しての詩に書かれた「Ora Orade Sitori egumo」が由来という(小説ではその事に一切触れていないが)。
もう一つは誠に勝手な解釈だが「オラオラで一人いくぞ」。このオラオラは「そこのけそこのけ」という意味だ。怖いものなんかない。どんな障害があったって、オラオラオラと叫びながら、何の支援も受けず、オラは一人で行くんだ。そういう意味だ。
怖いものの無くなった桃子さんが一人住まいの古びたニュータウンの家にいるとき、小学二年生の孫娘が一人で訪ねてきた。「おらおらでひとりいぐも」と語った時に思い出していた、ばっちゃと幼い自分。そのことが今度は自分がばっちゃになって巡って来た。
人生は巡る
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文学
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2017年のノーベル文学賞を受賞したという報道の夜、裏のツタヤへ行って購入した。それまで著者を全く知らなかったので、どんなものなのか知りたくて・・・それが唯一の動機だ。
でも・・・退屈だった。主人公のイギリスの大きなお屋敷(ダーリントン・ホール)の執事が休暇を貰って4日間国内を旅する間の独白の物語。時は1956年(昭和31年)7月。
その独白にはお仕えする主人(ダーリントン卿)への献身さや執事としての矜持が大切に散りばめられている。第二次世界大戦末期もその範囲に入る。いかなる時も出しゃばらず、自分の考えは出さず、ただひたすらに執事として使える主人公。
最も優れた執事の資質とは「品格」を備えること。その「品格」とは何なのか。ただただ主人の手足となり、思いを忖度し、仕えること。まるで日本の武家社会の殿様に使えるサムライのような感じだ(知らないけど)。
その初老の執事が、休暇を貰い車で旅に出る。その最終目的はかつて同じお屋敷で女中頭をしていた女性との再会。彼女の手紙から「どうやら不幸せのようだ」と感じ取り、再び同じお屋敷で働かないかと世話をすること・・・のようだ。
旅の途中で出会う人々との会話や主人公の思い出話が延々と続き、最後の数ページに入ってやっと目的の旧知の女中頭に会って、そのやりとりで物語が締めくくられた。この最後の数ページが言いたいのであれば、その前の長い退屈な話は意味があるのだろうか・・・。そんな思いまで持ってしまった単純ヤローのオレなのでした。
最後の最後、その女性に会い、過去の手紙の中身から察するに決して幸せではないのではないかと尋ねる主人公に女性は「他の人と結婚したものの、あなたと人生をともにすることへの思いが募り、そういう時期もあったが今は夫を愛せるようになり、もうすぐ孫も生まれる予定で幸せ」ということのようだった。
全く、男女の想いとか考えていなかった風の主人公はその時、改めて自分の迂闊さ、鈍さを思い哀しみが込み上げてくる。そしてその迂闊さは執事として最高レベルであることを目指し、努力し、主人によりよく仕えることを至上命題として来た自分の人生の虚しさにも及ぶ。
立派な人と信じて仕えた主人はヒットラーのドイツへの協力者という評価を受け、失意の人として終えた。主人公は自分では何も決めず、ただひたすら執事として仕えた自分の人生の空っぽさに気づいてしまうのだ・・・
ps:この一冊だけじゃ分からないので、もうちょっと読んでみないといけないね。
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今日(もう昨日か)、NHKクローズアップ現代でこういうタイトルで『ONE PIECE』の特集をやっていました。勿論、ニュース報道番組での取り上げですから、社会的背景やメガヒットの意味するものが取り上げた趣旨です。 |
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NHK夜7時30分からのクローズアップ現代はその時々の旬のネタをNHKの情報収集力と国谷キャスターの的を得た探りで解きほぐす好みの情報番組ですが、昨日は生誕100年の太宰治の本が何故今も人気なのかを探っていましたね。 |
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61年前(1948年6月)、太宰治という作家が玉川上水に身を投げ、この世を去りました。 |


