>>>牡羊座の独り言 Part2<<<

北欧4ヶ国の旅、エジプト紀行を連載中です。

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会津若松の末廣酒造の酒蔵見学で簡単な酒造りの講義を受けた後、酒蔵内の見学でしたが、酒造りの主要部分は入場できませんでしたが、コメを蒸す工程や麹室や酒の絞り器などの模型の展示で酒造工程を理解することが出来ました。2Fの展示室では酒造工程で使う用具や酒の容器など展示と酒蔵を利用したコンサートホールが見学出来ました。

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1Fの釜場
お湯を沸かし釜の上に蒸し器を乗せて米を蒸す工程
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1Fの醪(もろみ)室
立ち入り禁止でした。
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1Fの資料館-1
米を蒸す釜、麹室の模型
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1Fの資料館-2
酒ふね(酒しぼり器)
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1Fの資料館-3
半切桶
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1Fの資料館-4
2つの酒母についての説明板
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1Fの資料館-5
軒のある入口の奥は古酒蔵です。
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1Fの資料館-6
酒の容器
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1Fの資料館-7
水汲み桶
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2Fの展示室-1
種々の秤(はかり)
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2Fの展示室-2
種々の秤(はかり)
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2Fの展示室-3
木桶への焼印
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2Fの展示室-4
酒製品の容器
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2Fのコンサートホール
元々は古酒蔵だった場所
渡辺貞夫や日野皓正などのジャズの演奏もあるようです。
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2Fのコンサートホール
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写真撮影:2019年6月27 
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 会津・鶴ヶ城公園を見学し、ランチを摂った後は会津若松市内の酒蔵見学に向かいました。訪問したのは江戸年間嘉永3年(1850年)創業の末廣酒造・嘉永蔵でした。昔ながらの完全なる手造りと最新鋭テクノロジーの共存により、酒造りをされている蔵でした。簡単な説明の後、酒蔵内の見学と最後は吟醸酒、大吟醸酒などの試飲があり、お土産として購入することもできました。先ずは、酒造りの基礎の説明部分から紹介します。

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見学した会津若松・末廣酒造の嘉永蔵
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門の「嘉永蔵」プレート
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末廣酒造の嘉永蔵の施設の案内
酒蔵イベントホール、クラシックカメラ博物館、蔵喫茶・杏、直売所
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末廣酒造の嘉永蔵の入口付近の手水所
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末廣酒造の嘉永蔵の入口付近の手水所
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末廣酒造の嘉永蔵の神棚
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末廣酒造の嘉永蔵の神棚下の衝立
明治44年の日付が入っています。
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末廣酒造の嘉永蔵の1階作業所
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女性の方が最初に酒造りの工程を説明してくれました。
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酒造好適米は中心の心白が大きく脂肪やたんぱく質が少ない。
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末廣酒造で使っている米の種類
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酒造好適米の精米歩合の違いのサンプル
虫眼鏡で覗いて確認しました。
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特定名称酒と精米歩合について
大吟醸酒は精米歩合が50%以上と大きい。➡ 高価になる。
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全国新酒鑑評会での数多くの金賞受賞の賞状の額
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 次回は酒蔵の中の見学の予定です。

写真撮影:2019年6月27 
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 会津鶴ヶ城の天守閣の最上層(5層)まで登り、本丸跡を見下し、更に北東方向にある飯盛山の白虎隊十九士が自刃した方向を望みました。ちょうどNTTの白いアンテナが目印になりましたが、観光者用には左右どちらかにずらす配慮が欲しかったです。時間があれば白虎隊の墓まで足を伸ばしたかったです。


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天守閣最上層から見下した南側の表門(鉄門)と走長屋の屋根
写真奥が会津若松市街
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天守閣最上層から見下した東側(本丸跡)
2011年に全面葺き替えられた赤瓦が綺麗です。写真奥が会津若松市街
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天守閣最上層から見下した東南側(本丸跡)
桜の頃は見事でしょうね。写真奥が会津若松市街
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天守閣最上層
飯盛山の方向の案内があります。
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天守閣最上層から見た会津若松市街と飯盛山方向(北東方向)
左側の高い山が磐梯山(1819m)です。
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天守閣最上層の案内写真
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天守閣最上層から見た飯盛山方向
白いポールはNTTのアンテナ(ちょっと邪魔でした)
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天守閣最上層から見た飯盛山方向
白虎隊の墓付近。上の写真の白いポールを消しトリミングしました。
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飯盛山の白虎隊の墓付近(グーグルMAPより)
右側が白虎隊の墓
拡大して見てください。
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ランチを摂った鶴ヶ城公園そばの鶴ヶ城会館
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鶴ヶ城会館で会津わっぱ飯ランチ
蕎麦が付いてました。
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鶴ヶ城会館で会津わっぱ飯ランチ
ご飯の上に肉そぼろ咲、鮭、錦糸玉子、山菜、タケノコ、蒲鉾などが
乗って美味しかったです。
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 次回は会津若松市内の酒蔵見学の予定です。

写真撮影:2019年6月27 
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 鶴ヶ城本丸跡から天守閣を眺めた後、天守閣内部に入場しました。第1層部分は写真撮影可でしたが、第2層〜4層は撮影禁止でした。第1層には幕末の戊辰戦争で会津藩が降伏し、白虎隊が自刃するまで(1862〜1869年)の歴史的な説明が事細かく展示されていました。じっくり読むと歴史の勉強になります。

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鶴ヶ城天守閣第一層内の鶴ヶ城公園のジオラマ
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鶴ヶ城天守閣第一層の塩蔵の再現展示
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天守台にあった塩蔵の説明板
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鶴ヶ城天守閣の瓦
上段:再建時の鬼瓦(黒瓦)1965年(昭和40年)
   中段:再建時の軒丸・軒平瓦(黒瓦)1965年(昭和40年)
下段:現在の軒丸・軒平瓦(赤瓦)2010年(平成22年)
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幕末の動乱と会津についての展示

1862.8 京都守護職を拝命/時の藩主松平容保(かたもり)と
新選組、1863.8.18 8月18日の政変、
1864.7.19 禁門の変(蛤御門の変)、1867.10.13 大政奉還
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1862.8 京都守護職を拝命/松平容保
1867.10.13 大政奉還、1868.1 鳥羽・伏見の戦い
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1867.10.13 大政奉還、1868.1 鳥羽・伏見の戦い、
1868.4 江戸城無血開城、1868.5上野戦争
1868.5〜7 北越戦争
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1868.4.23 奥羽越列藩同盟, 1868.5〜7 北越戦争
1868.8〜9 会津戦争、1869.5函館戦争
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1868.1 鳥羽・伏見の戦い、1868.4.23 奥羽越列藩同盟
1868.5〜7 北越戦争
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会津戦争開戦
1868.8.21 母成峠突破、1868.8.22 十六橋突破
1868.8.23 戸ノ口原の戦い/白虎隊の悲劇/天神口の戦い
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1868.8.25 泪橋の戦い/小松獅子団入場、
1868.8.26 新政府軍城下へ砲撃開始/小田山からの砲撃
1868.8.29 長命寺の戦い、1868.9.14新政府軍総攻撃開始
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会津藩降伏
1868.9.22鶴ヶ城開城、1869年斗南藩成立
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白虎隊十九士のおもかげ
実際には19人以外に生き残った2人がいてその一人・飯沼貞吉は
日清戦争に出征し、77歳で没し、遺骨が飯盛山の同志と同じ場所に
埋葬されているようです。
拡大して見てください。
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錦絵「会津戦争記聞」明治時代初め)
迫る新政府軍に構える松平容保らを描いています。
女性は自衛のために薙刀を持っています。
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錦絵「会津戦争記聞」の説明文
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錦絵「官軍勝利会津落城」
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 次回は天守閣最上層の眺望の予定ですです。

写真撮影:2019年6月27 
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 鶴ヶ城の帯郭を通り表門から本丸跡へ入りました。扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門(くろがねもん)の別名がつけられています。本丸跡から見た走長屋を含む鶴ヶ城天守閣の姿は堂々としていて風格を感じます。
 現在、天守閣は5層白塗りになっていますが、築城当時は7層黒塗りだったと言われています。藩主蒲生氏郷が文禄2年(1593年)、7層の黒い天守閣を築城し鶴ヶ城と命名し、地名も黒川を若松に改め町割りを作りましたが、寛永16年(1639年)、加藤明成のときに現在と同じ白い5層の天守閣へ改装しています。その後、幕末の戊辰戦争後、明治7年(1874年)に政府の命令により取り壊されました。

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南西側(帯郭)から見た鶴ヶ城天守閣
1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建
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南西側帯郭)から見た鶴ヶ城天守閣と走長屋
ボランティアガイドさん(中央の黄緑色Tシャツの女性)が
説明しています。
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鶴ヶ城表門(鉄門・くろがねもん)と走長屋(左側)
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鶴ヶ城表門(鉄門・くろがねもん)と走長屋の繫ぎ部分
瓦には蒲生氏の家紋が付いています。
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鶴ヶ城表門(鉄門・くろがねもん)
石垣の仕法は「切込みハギ」と呼ばれ、代表的な遺構の一つに
なっています。
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南側から見た鶴ヶ城天守閣と走長屋
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鶴ヶ城鉄門・走長屋(内側から)
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南側から見た鶴ヶ城天守閣と走長屋・鉄門
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南側から見た明治5年の鶴ヶ城天守閣と走長屋・鉄門
公園内に展示されていた写真です。
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南側から見た鶴ヶ城天守閣
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鶴ヶ城天守閣南側の井戸
馬術の稽古の後、馬の口洗いのためにこの井戸の水が
用いられたと言われています。
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東側から見た鶴ヶ城天守閣
2011年春に赤瓦への全面葺き替えを行い、
幕末当時の姿に生まれ変わています。
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東側から見た明治5年の鶴ヶ城天守閣
公園内に展示されていた写真です。幕末の戊辰戦争後、明治7年(1874年)
に政府の命令により取り壊されました。
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鶴ヶ城天守閣復元記念の水飲み場
本丸公園の通路脇にありました。
昭和40年9月17日と刻まれていますから50年以上使われています。
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 次回は天守閣の中に入ります。

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