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人はどんなところに惹かれ、心打たれるか。
人生を振り返ってみて、特に忘れられない人って、どういう人だったろうか。 自分や家族のことを親身に考えてくれ、生計を立てるために導いてくれた人ほど、ずっと忘れられないだろう。苦境の中だった尚更だろう。
そんな生きる力になってくれたのが、永井紺周郎・いと夫妻である。紺周郎さんは、天保2(1831)年、針山新田に生まれ、いとさんは、天保7(1836)年、追貝村(今の沼田市利根町)の三浦家に生まれ、やがて相思相愛となった。
慶長閏4(1868)年5月、ある寒い日、蚕屋の永井家に、会津兵士との戸倉戦争に向かう、官軍の沼田藩士25名が泊まったことが、蚕のいぶし飼い育成法を “見出す” きっかけとなった。冷え切った兵士が暖を取るためと、濡れた衣類を乾かすためだったのだろうが、囲炉裏で勢いよく燃える薪の熱と煙が、成長途中の蚕を“殺す”どころか、かえって元気付けたのだった。
「信じられないことが起こった」
と、胸騒ぎがしたに違いない紺周郎。 なぜなら、蚕の近くで大掛かりに火を燃やすのはそれまで厳禁だったからだ。紺周郎は、その年、そして翌年も、なぜだ、どうしてだ_と、納得できるまで検証をして、行き着いたのが、いぶし飼いつまり、永井紺周郎養蚕術だった。
やがて2000名を超える弟子たちが群馬県各地に育ち、根付くようになった。夫妻が命の次に大事な仕事_養蚕の安定的生産と経営のために、馬にまたがるなどして、無償の施しをして回ったからである。そして、“蚕の神様” と解せる顕彰碑が県内に造られるに至った。
数年前。世は、富岡製糸場と関連する蚕関連施設が世界産業遺産群としてユネスコで登録されるかもしれないとの追い風気運の中、しびれを切らした紺周郎・いとさんの直弟子を含めた弟子の子孫たちが立ち上がり、本家本元の片品村の皆さんに熱いエールを送り始めた。
富岡製糸場の興隆の背景には、養蚕の名士が居たことを忘れてはならないだろう。その隊列の中に入ってしかるべきなのが、永井紺周郎だろうという叫びなのである。
地元での盛り上がりがみられるようになって来た。紺周郎・いと夫妻の紙芝居が行われた、恒例の片品村ふれあいバザール(6月6日)。私らがけん引した第一回紺周郎とお蚕さまを語る会(7月25日)もそうだ。そして、きょう、8月26日(火)夜、針山の集会場で、村民有志や組長さんらの呼びかけで永井流伝習所保存を含めた今後の取り組みをみんなで話し合った(添付写真)。
参加者は、意気投合し、協力し合うことに至った。9月に入って、再び集まり、伝習所遺産ともいうべき貴重品の整理・確認に入る。来年には、“紺周郎まつり” なるものも動き出しそうな勢いだ。楽しみだ。
紺周郎・いと夫妻は、生き様を残してくれた。農民のために、人のためにがモットーだったようだ。その為に生きた様が今も我々の心をつかんで離さない。我々の生き方のバロメーターとさえなっているようである。(つづく)
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