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台風一過の今日。台風24号による被害はあったが、めげず前に進みます。ほぼこの上空を通過する日本列島縦断台風だった。
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災害は忘れた頃にやって来る_。その思いを新たにしたのが、3.11東日本大震災をもたらした地震が引き金となった大津波だった。
歴史の教訓は、被災地東北の神社などに残っており、先人の切なる思いが防災教訓として石塔などに刻印されているのである。
その熱い想いの背景には、多くの苦く悔しい経験があったに違いない。今後、地震が誘発するであろうメガトン級の津波が到来し、死者何万人とも予測される災害が、しかも大都市圏を強襲すると予測されるなど、決して災害は過去のものではないのである。その当事者意識を如何に保持するかだが、その意識づけの役に大いに役立ったのが、治水神・禹王研究会であった。
理事の宮田勝さんは、この道のパイオニア。90歳にもう数年でなるのに、その真摯で精力的な歩みは本会では高い評価を受けており、この度の会合でも議事進行の議長を務めていらっしゃる。宮田さんの存在感の大きさを改めて感じているところで有ります。
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終活が叫ばれ、エンディングノートが大幅に好まれる昨今です。新たな動きは、棺敷畳です。誰もが畳の上で(欲を言えば)家族に囲まれて死にたい__という願望はあるものです。その願いに少しでも近づける名案なのでしょう。ウチはフローリングの家だし、最期は病院で看取るしかないという家族に__せめても棺の中に畳を敷いてあげることができますよ__という提案なのです。少子高齢社会を突っ走る日本の今がここにも見える感じがします。画像は読売新聞2015/07/23からです。
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又吉直樹さん、芥川賞受賞、おめでとうございます!
又吉さんは、『火花』の神谷先輩に感謝しないといけないよね。又吉さんと目される文中の語り部・徳永は、神谷さんに刺激されて常識外れの読書家になっているんだから。
「僕は本を積極的に読む習慣がなかったが、無性に読みたくなった。」のは、神谷さんの強い影響力のおかげだ。「この人に褒められたい」がどうも読書にのめり込んだ動機だった。案の定、2000冊だったけ、『火花』の肥やしともなる本を読んだんでしょう。
さらに 褒められるためには、徳水は神谷の伝記を書かねばならなかった。2015年、たどり着いたのが『火花』かもしれない。これ伝記? いや、伝記とは言い難いが、これで伝記作家の足場ができたんでしょうね。
喋りの世界の先輩が徳水に作家の道を酸っぱく説いたのは、その力量があると見抜いたからだろうか。その証拠は見当たらない。漫才師として食べてゆきたい徳水に、喋りの手ほどきをすることのない神谷さんの狙いは何だったのだろう。自分のことをさておいて。
そういえば、「本物の阿呆」になれと、神谷さんは言ってたっけ。「子供も大人も神様も笑わさなあかんねん。」ええ、笑いの矛先は、神様だって⁉
神谷さんの要求は度が過ぎた。伝記は生前に前篇を書いておいてくれだって。
神谷さんは、吉本興業に所属しているかのようだった。また経済的には不自由のない家の出の神谷さん。彼から見て、徳水は貧乏人の子だった。見下してはいなかった。それどころか、「ほんまに羨ましいやん」と言ったほど。どうも、貧しいほうが伸びしろがあるというのだ。飛躍しようと、いやその前に、這い上がろうとするはずだというのだ。
そんな後輩思いの神谷さん、実はしっかり者ではなかった。住まいでも、真樹さんという風俗の女性の家に潜り込んでいたことも。
「神谷 伝記」用の書き込みノートは、この時期、すでに10冊以上になっていた。
徳永は、こうつぶやいた。「僕は面白い芸人になりたかった。」
だが、芸人を辞めて、二つの居酒屋で働き始めた。相方は、大阪の実家に帰り、携帯ショップに勤め始めた。
そのころ、神谷さんの伝記のために書き留めたノートは20冊を超えたようだ。とはいえ、その半分以上が自分や恋愛などのことだった。この中から神谷さんの逸話だけを抜き出せば、伝記ができるかもしれないと思ったようだが、所詮その分野に疎い徳永に現実的な判断ができるはずがなかった。「俺は未だ伝記というものを一冊も読んだことがなかった。」と暴露。
神谷さんには、そうこうするうちに分かったことだが、借金が一千万近く膨れ上がっていた。
徳永は、所属の事務所を辞め、下北沢の不動産屋にて働くことになった。
神谷さんは、行方不明のままだった。借金が大きくなり過ぎたので、どうにもこうにもならなくなったのかもしれない。
そして、一年ぶりに池尻大橋で会った神谷さんは。不思議と精悍な顔つきだった。
神谷さんは、芸能事務所とはうまくいっていないようで、辞めさせられるかもしれないと心配していた。借金は膨れ上がり、自己破産へ。
絶望⁉ 会った神谷さんの両胸が大きく揺れていた。Fカップですと。シリコンをめっちゃ入れていた。ジェンダーフリーなんて。
「これが人間やで。」と神谷さん。
10年ぶりの居酒屋に二人で入った。神谷さんは、一生漫才師であり続けるであろうと、それでも神谷は思ったって。
神谷さん、お風呂はどっち? 「男風呂に決まっている。」
「人に迷惑かける天才でしょう。」
人付き合いの不得手な徳永は、終始、神谷さんの優しい声に弱いのだった。
ハッピーエンドでもないし、一段落もしていない結末⁉ しかし、手厳しい世の中で淡々と生きていそうな徳永に、分かれる時間となった。
先輩神谷さんの伝記を半分書き終わったとの表記がなく、『火花』は終わっている。まーいっか。
これが純文学、そして芥川賞なんだよな。又吉さん、お疲れさまでした。そしておめでとう!
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片品村の6月の恒例行事となっています、片品村文化財めぐりが、今年2015年度も、6月に週に一回全4回、執り行われました。文化財調査委員(宮田勝委員長)4名が各担当地域を案内するものです。
今年も、村の教育委員会が運転するマイクロバスで、各地を回りました。人気のある文化財めぐりですが、参加者の半分が村外の方でした。
私の担当したのは、第4週(最後)の日の23日(火)でして、片品村第一区の文化財めぐりでした。
まず、菅沼西原にある合途原でした。かつての誠道街道 、そこの会津街道と日光街道との分かれ道が合途原の単体道祖神 でした。従って、この道祖神は、道しるべであり、道路標識の役目をも果たしてくれていました。
昭和に入っては、「(若山)牧水古道」とも言われ、親しまれた誠道街道ですが、昭和の初めにその街道に沿った大崖に自動車の往来が可能な国道120号線ができるまでは、まさにこの旧道が本道であったのです。この大崖を通って、昭和2年に自動車が初めて片品村の中心地・鎌田まで入ったのでした。
この単体道祖神には、尾瀬・会津方面に向かう者には「 ひだり つちいで(土出)」の表示と、日光に向かう者には「みぎ おがわ(小川)」の案内が刻印されているのです。かつての三叉路です。なお、ほど近い(今の菅沼西原道路横の)場所に、相対道祖神があり、そこにも、土出方面と小川方面が表示されているのです。
そして、単体道祖神の隣にある、星野塚 。どうげん塚とも言われ、地侍の星野道乾様らを祀ったものでした。
次に、訪問したのが、菅沼の共同墓地。そこにて、高台にそびえ立つ「宝匩印塔」です。村屈指のもでして、仏教信仰を色濃く表したものです。
そして、菅沼の穐葉神社。菅沼三氏の星野家・大竹家・戸丸家の鎮守であり、火伏の神の住むところです。
なお、菅沼は須賀川と杜を一つとしています。理由は、菅沼から移住した星野氏たちが須賀川を作ったとも言われるほど、緊密な両集落だからです。
その名残として、畑も須賀川の人たちの土地が菅沼に多々あります。共存の仕組みと証明なのです。
次に訪れたのが、東田代村 。標高1,000の不思議な村。一説には、1608年に出来たとも言われる。沼田城の真田伊豆守信幸の家臣・大塚与惣右衛門 率いる沼田藩の武士が開村したと菅沼などでは言われているからです。なお、新田開発の代官・大塚与惣兵衛が1672年、田代新田の検地のために来村したとの記録があり、この代官がリーダーだったとの説もあり、確証が和えられないでいる。
南側斜面に東田代村はその集落を形成していたようです。飲み水、耕作の水等が必表だったものがそこにはあるのです。
小さな村落なのに、たくさんの墓群があるのが特徴であり、何を意味するのか興味が尽きない。
高台には、鎮守の森(杜)がある。
そして、別の山上には、 榛名神社=沼田=真田藩 のつながりの証拠とも言える、榛名大権現の石碑が建っている。
東田代村は、戦略的な村として監視の役目があったのではないかと伝えられています。日光への、そして会津への裏街道。高台からののろしは、寄居山城址からあるいは古仲城址から送られて来て、ここからは沼田城に向かってその中継地点に放たれるという具合のようです。
東田代村は、隠れキリシタンの潜伏場所とも言われています。なお、明治初めに廃村、東小川に加わっています。
高野甚五左衛門きよ夫妻の家系。娘たんちょと夫・大塚次郎兵衛家族の東田代村。きよの親・星野右京--星野育雄さんの家系。隠れキリシタンの系譜。イルマン「東庵」(1618年)。
次に訪問したのが、須賀川の三烈士の墓 でした。官軍×会津軍の流血の場所。帰順の意を示したのに、攻めなくてもイイのではないかと訴えに行った反官軍5人(雲井竜雄ら)は逃げた。須賀川に残った三人が捕まえられ殺された。三つのお墓、その右(旧前橋藩士・屋代由平)、中央(日光黄山寺住職・桜正坊隆邦)、左(旧幕臣の羽倉鋼三郎)。悲惨な結末。民衆の思いがお墓に、しかも三烈士として。慶應4年(1868年)8月のこと。
最後に訪れたのが、御座入の湧水 。最高の湧き水との評判の場所だ。そこで、湧き水を用意したペットボトルに詰めた参加者も何人か居たのだった。
来年は、どこを回るのが望ましいか、行くべき場所は多々あるので、正直言って結構悩ましいものである。
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