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片品村も絹産業遺産群への仲間入りに向けて、官民そろって頑張っています。このたび、県の積極指導を受けて、その動きに拍車がかかりました。以下は、良く取材に来て頂いている読売新聞に、関連する片品の最新動向が乗っているので、スクラップ&添付させて頂きました。
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絹遺産登録へ 高まる機運=群馬 2014年10月6日5時0分 読売新聞
「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録を受け、絹産業にかかわる県内の建造物や祭事などを登録する「ぐんま絹遺産」への申請の機運が自治体間で高まっている。13市町村が未登録だが、観光振興や地域活性化につなげようと、各地で申請に向けた準備が進んでいる。
ぐんま絹遺産は、2011年度に始まった制度。各地に残る養蚕や製糸、織物、流通などの絹産業に関係する建造物、施設、民俗芸能について、各市町村が、所有者の同意を得たうえで県に推薦する仕組み。すでに22市町村で84件が登録されている。
県は毎年1〜2回、文書で登録申請を呼びかけてきたが、6月の世界文化遺産登録をきっかけに、追加登録に関心を示す市町村も増えているという。
登録遺産のない片品村では、同村針山の村指定重要文化財「永井流養蚕伝習所実習棟」の登録申請を予定する。実習棟は木造2階、瓦ぶき屋根で、江戸、明治期の農家永井 紺周郎(こんしゅうろう) が建てた。永井は、屋内で火をたき、カイコの病気を克服する養蚕技法「いぶし飼い」を考案し、無償で指導を行ったことで知られる。
同村むらづくり観光課は、「養蚕の普及、振興に大きく貢献した建物。登録で永井の功績を多くの人に知ってもらえるし、地域活性化にもつながる」と話す。
同じく登録遺産のない東吾妻町でも、町指定史跡「 加部安左衛門(かべやすざえもん) 関係遺跡」の申請を検討中だ。生糸などを手がけた商人で、上州随一の富豪として知られた。同町大戸に屋敷跡などが残っており、同町教委教育課は「所有者らと話し合いながら登録を検討したい」と話している。
県は9月末にも各市町村に登録を呼びかけた。県世界遺産課は「市町村と連携し、もっと多くの絹遺産を発掘し、広域の周遊ルートの構築などにつなげたい」と意欲をみせている。
◆ ぐんま絹遺産 遺産としての価値や保存状態、公開の可否などの観点から、民間有識者らでつくる「ぐんま絹遺産推進委員会」の諮問を経て登録する。世界文化遺産の構成4資産のほか、国重要文化財で国内最古級の養蚕農家「富沢家住宅」(中之条町)や、めがね橋として知られる「碓氷峠鉄道施設」の第三橋梁(きょうりょう)(安中市)などが登録されている。
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尾瀬の郷・片品
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「歩いて1時間、車で3時間」のお隣関係。群馬県片品村と福島県桧枝岐村の「近くて遠い」距離感を、実は工夫・努力すればより早く行き会えることが可能という_期待感を込めた地元関係者の表現である。
先週、尾瀬を保護しかつ観光登山地としている両村民の意をくむ村議会議員が、年1回の交流会を行なった。開催当番の片品村のホテルで会合をもった。午後4時からだったが、その前に再会したのが大清水。 桧枝岐村の議員さんの多くは、尾瀬沼を横目に見ながら、三平峠を通って下山して来たのだった。尾瀬へのもう一つの出入口。大清水で合流し、群馬・福島両県(の両村)を結ぶ国道401号線の未通行エリアの入り口を訪れた。 会合では、尾瀬のニッコウキスゲや水芭蕉などの貴重な高原植物を食害するシカの監視・管理について、環境省の担当者より現状説明があった。 なお、大清水には桧枝岐村からの関係車が回り道して到着し、出迎えていた。 |
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これは水戸市の例だが、他人ごとではない。 尾瀬をかかえる片品村でも救急車派遣要請で、理解できないことが起きている。 片品村役場関係者によると、救急車を呼ぶには値しない救急コールが結構あるという。尾瀬に近い住民によると、救急車を含む緊急車両の往来がひんぱんにみられ、サイレンの音に気を取られることが多々あるそうだ。 必要ないのに、安易に救急車を呼ぶことがないようにできないものか、片品村議会でも、言及する者もいます。 こうした救急車コールは、今に始まった事ではないが、あまりにも節度のないケースが最近増えているので、問題にされ始めているのである。 なぜなら、同時期に、救急患者が緊急搬送を願っていないとも限らないからである、とのことである。 個々人の倫理の問題とはいえ、救急車派遣要請に関しては一定のルールがあるべきであり、あまりの違反者には罰金もあっていいのではないかとの声も出てきている。 |
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尾瀬国立公園の南麓に自治を構える片品村。その村名に尾瀬を入れるかどうかの検討を始めたと、きょう9月5日の上毛新聞が一面で報じた。村民意識調査を年内に行うことで、その是非を判断する構えだという。
これは、9月4日(木)、片品村議会初日の一般質問にて千明村長が答えたものとしています。
この報道について、千明村長は5日、全員協議会において、「(報道は)多少ニュアンスが違ってはいるが、いずれしっかりと取り組んでいかないといけないもの」と言及しました。また「議会だよりには(正確なところを)しっかりと出してもらいたい」とも述べました。
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人はどんなところに惹かれ、心打たれるか。
人生を振り返ってみて、特に忘れられない人って、どういう人だったろうか。 自分や家族のことを親身に考えてくれ、生計を立てるために導いてくれた人ほど、ずっと忘れられないだろう。苦境の中だった尚更だろう。
そんな生きる力になってくれたのが、永井紺周郎・いと夫妻である。紺周郎さんは、天保2(1831)年、針山新田に生まれ、いとさんは、天保7(1836)年、追貝村(今の沼田市利根町)の三浦家に生まれ、やがて相思相愛となった。
慶長閏4(1868)年5月、ある寒い日、蚕屋の永井家に、会津兵士との戸倉戦争に向かう、官軍の沼田藩士25名が泊まったことが、蚕のいぶし飼い育成法を “見出す” きっかけとなった。冷え切った兵士が暖を取るためと、濡れた衣類を乾かすためだったのだろうが、囲炉裏で勢いよく燃える薪の熱と煙が、成長途中の蚕を“殺す”どころか、かえって元気付けたのだった。
「信じられないことが起こった」
と、胸騒ぎがしたに違いない紺周郎。 なぜなら、蚕の近くで大掛かりに火を燃やすのはそれまで厳禁だったからだ。紺周郎は、その年、そして翌年も、なぜだ、どうしてだ_と、納得できるまで検証をして、行き着いたのが、いぶし飼いつまり、永井紺周郎養蚕術だった。
やがて2000名を超える弟子たちが群馬県各地に育ち、根付くようになった。夫妻が命の次に大事な仕事_養蚕の安定的生産と経営のために、馬にまたがるなどして、無償の施しをして回ったからである。そして、“蚕の神様” と解せる顕彰碑が県内に造られるに至った。
数年前。世は、富岡製糸場と関連する蚕関連施設が世界産業遺産群としてユネスコで登録されるかもしれないとの追い風気運の中、しびれを切らした紺周郎・いとさんの直弟子を含めた弟子の子孫たちが立ち上がり、本家本元の片品村の皆さんに熱いエールを送り始めた。
富岡製糸場の興隆の背景には、養蚕の名士が居たことを忘れてはならないだろう。その隊列の中に入ってしかるべきなのが、永井紺周郎だろうという叫びなのである。
地元での盛り上がりがみられるようになって来た。紺周郎・いと夫妻の紙芝居が行われた、恒例の片品村ふれあいバザール(6月6日)。私らがけん引した第一回紺周郎とお蚕さまを語る会(7月25日)もそうだ。そして、きょう、8月26日(火)夜、針山の集会場で、村民有志や組長さんらの呼びかけで永井流伝習所保存を含めた今後の取り組みをみんなで話し合った(添付写真)。
参加者は、意気投合し、協力し合うことに至った。9月に入って、再び集まり、伝習所遺産ともいうべき貴重品の整理・確認に入る。来年には、“紺周郎まつり” なるものも動き出しそうな勢いだ。楽しみだ。
紺周郎・いと夫妻は、生き様を残してくれた。農民のために、人のためにがモットーだったようだ。その為に生きた様が今も我々の心をつかんで離さない。我々の生き方のバロメーターとさえなっているようである。(つづく)
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