亡き父は自叙伝を出版したことがあります。「夏山のしずく」という題名、私が編集をしました。数日前、長野県在住の方からメールを戴きました。「太平洋戦争で撃沈された富山丸のことを調べてまして、夏山のしずくを読んでみたく思い、そちらの常陸太田市立図書館と茨城県立図書館に電話しましたら、ないと言われ、検索からご貴殿に辿りつきました。富山丸沈没の部分だけでもコピーしてご送付願えないか」という内容。 終戦まで1年前、戦況危うい昭和19年6月末、兵士5000人弱、車両50台、ドラムカン1000本を積んで、南方へ向かう富山丸に父も通信兵として乗っていたがアメリカ軍の攻撃を受けて奄美大島沖で海の藻屑と消えた。乗組員兵士は大半が死亡、父は火の海を2時間、古式泳法で泳ぎきり奄美大島に辿りつき、奇跡的に火傷も負わずに生還した。自伝では数ページにわたって詳細に書かれています。 帰還して昭和22年に私が産まれましたが、馬鹿がつくほどの正直モノ、曲がったことが大嫌いの父、出征前の教職に戻り、42歳で小学校長になった父、亡くなって20年近く経つが尊敬の念はいまだに消えない。今日、コピーしたので来週には長野のその方のもとへ着くでしょう。 新聞は毎日は見ない。数日溜めておき一気にみる癖だ。今日はその中に琵琶湖畔で東京ドーム17倍の広さの大規模稲作農業をする田中小有里さん、28歳のことが大きく取上げられていました。 ちょっと街にお出かけ風のファッションでコンバインを運転、泥まみれイメージを払拭、研究熱心な可愛らしい彼女の今後が楽しみだ。 農業家・田中小有里さんのブログ 写真は今朝の散歩でみかけたNHKの撮影クルー。板谷坂で小学生の登校風景を撮っていた。
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読み入ってしまいました。亡くなってなお、人に影響を与えることができる人生。。。とても素晴らしいお父様ですね。
あ、カトレアさん、私の母と同じ年生まれです。なんだかうれしいです。
これからも仲良くしてくださいね(*^_^*)
2008/1/10(木) 午後 8:52
おお、すごいお父様ですね。九死に一生を正に身を持って経験されたんですね。それを自叙伝にして残されたのもすごいです。そんな立派な父親を持った息子には、若い時代には複雑な心境かもですね(笑)。
田中小有里さん。若い人も頑張ってますね。ほんと応援したいですね〜
2008/1/11(金) 午前 3:46 [ - ]
素晴らしいお父様で、また貴重な資料ですね・・・
戦争で犠牲になるのは何時も小市民であり、一般の国民なんですよね・・・
戦争の悲惨さを忘れないように語りつづけられると良いですね。。。
2008/1/11(金) 午前 11:27
カエルさん、ピースさん、きよちゃん、こんにちは。昨夜、裁判員制度の勉強会を検察庁の課長を呼んで行いました。そのあと、懇親会をしたので今日は立ち上がりが遅くなりました。
カエルさん:読んで戴き感謝します。お母様と同年代ですか。それはこちらも親しみを感じますね。宜しくお伝えを。
ピースさん:本当に九死に一生でしたね。祖父に感化されたのか父は御岩神社の熱心な信者で、神々の加護を信じてやまない人でした。だからきっと火の海を泳いで無傷で助かったのでしょうね。私もサユリストになるかもです。
きよちゃん:亡くなってから20年近くも経って、本を読みたいなんて言ってくれる方がいたなんて、草葉の陰で父も喜んでるでしょうね。そうですね、戦争は人間を被害者と加害者にさせるものですからね、国際紛争を解決する手段として、軍事を使わない時代に早くしたいですね、。
2008/1/11(金) 午後 2:14
はじめまして、鹿児島県の徳之島で活動している「徳之島混声合唱団」と申します。
「富山丸」について知りたくて検索し、訪問いたしました。
平成20年4月11日、徳之島町にて、富山丸の戦没者慰霊祭をとり行い、
私たちの合唱団では「さとうきび畑」と「千の風になって」の2曲を演奏いたしました。
徳之島の海岸には、亡くなられた大勢の方の遺体が流れ着いたと聞いています。
お父様、無事に生還なさって、何よりでしたね!
2008/4/12(土) 午後 6:56
徳の島混声合唱団さん、ようこそ!
父は、徳の島の方々がいなければ自分は存在しなかったと言っていました、亡き父に代わって御礼を申し上げます。私もいつかは一度お訪ねしたい島です。
慰霊祭での合唱、さぞかし、海の底にも響いたでしょう。
2008/4/13(日) 午後 0:56
亡くなられた方の人数を思うと、ご無事であったこと、何よりです。
せっかくのご縁、ということで、トラックバックさせていただきました。
2008/4/15(火) 午後 6:56
奇跡の生還でしたでしょうね。母も祖母も諦めていたそうです。
徳の島に感謝です!
こういうトラックバックは大歓迎です。
2008/4/15(火) 午後 7:12
太平洋戦争時の1944年(昭和19年)6月29日早朝、奄美大島の大島海峡(古仁屋港)を沖縄へ向けて出港した富山丸を含む13隻の船団は、徳之島亀徳沖で待機していたアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
富山丸には沖縄本島へ応援のための兵員4,600名の他、ガソリン入りのドラム缶1,500本等が搭載されていた。
通常は兵員と大量の燃料とを一緒の船に乗せることはしないが、この時は止むを得ない状況があったものと思われる。
潜水艦から発射された魚雷は、富山丸に命中して船は大爆発を起こして沈没した。搭載していたガソリンに引火して、その後何度も大爆発を繰り返し、海上はまさに地獄絵のような惨事となった。
奄美大島側と徳之島側から多くの人が救出に向かったが、約3,700名が戦死。約600名が救助された。
救助された兵員のうち、健康な者約400名が後に沖縄へ向かった。
当時、富山丸の沈没事故は軍部により緘口令が布かれ、人々の間で語られることは禁止された。
2017/9/17(日) 午前 10:58 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]