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東京大学の景観研究室で、建築家の内藤 廣さんを文字通り若者が囲み、話を聞く会に行った。 言ってた事を思い出してみる。 <自分の枠を越えたとき> 120%の力を出して建築をつくるときは、時間にして半年くらいゆうにかかってしまう。 80%なら2日で終わるのに。 120%でやっているときはいやで仕方がないし、 修了した時自分では説明できないものができる。 宮沢賢治が「詩は裸身にて理論の至り得ぬ境を探り来る そのこと決死のわざなり イデオロギーの下に詩をなすは 直感粗雑の理論に屈したるなり」と言っている。 これとおなじで今の建築と、その外にある新しい可能性のゾーンの崖っぷちを 自分も描き出している。 今の建築を描き出しているストラクチャー(論理)を極めないと、その崖っぷちを描くことはできない。 <誰のために設計するのか> 公共建築でも住宅でも一人のために設計している気がする。 益田のときは自分の母親のため。 京都のとらやのときは社長の黒川さんのため。 しかし益田は多くの人の共感を得ることができている。 自分が益田のホールを見ていて最も感動したのは、観客全員でふるさとを合唱したときだ。 それは自分の母が求めていたものともやはりシンクロしていた。 <スペースをつくる> スペース・雰囲気を作りたいと思っていつもやっている。 同じやわらかいものができるなら、囲みは手段でしかない。その手段をすべて協力させて雰囲気をつくるのは大変だ。 ******** ものづくりについて以上のようなことをいっていた気がする。 建築は一人のためにつくるっていうのは、不思議な感じがした。 パブリックな空間をプライベートにつくる。 プライベートな空間をパブリックにつくる。 今の公共はみんなのためにしようと思って、だれのためにもなっていないのかな。 この人のために空間を作ろうとエネルギーを投下できる相手を 定めることができれば、 この人のためという絶対的評価のもと、空間をつくった方が、沢山の喜びが得られるのかもしれない。 *********
内藤さんのはなしを思い出しながら、ダイガクインの卒業研究をやっている。 この自分の手に負えない感は、自分を超越することから得られているものなのだろうか? 自分の努力に自問自答しながら、キーボードを叩いております。 |

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