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2019年8月18日 故・山崎光夫牧師記念 礼拝
「あなたに隣人はいますか」 ルカによる福音書 10章25〜37節
今日の礼拝は、2014年8月21日木曜日に天に凱旋された山崎光夫牧師を記念する礼拝です。
山崎牧師は亡くなる四日前の日曜日の礼拝で、「愛は勝つ」と題して説教をされました。
説教の中で、奥様と入居された施設での生活を感謝し、主イエスの愛によって守られ導かれた人生を感謝されました。
《記念》とは、「過去の人物を思い起こして心を新たにすること」です。
「山崎光夫牧師記念礼拝」は、山崎光夫牧師とその最後の説教を思い起こして、毎年心を新たにするするために教会行事に定めました。
私たちは、「互いに愛し合うこと」を心に刻み付けたいと思います。(ロマ12:10)
今日の聖書の中で、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」と、イエスは尋ねます。
自分のように隣人を愛するには、まず、自分の隣人を持たなければなりません。
このサマリア人は、追いはぎにあった人を介抱することで、その人の隣人になりました。
イエスは、「人を愛することで自分の隣人を作りなさい」と言われたのです。
祭司とレビ人は、襲われた人を見ると道の向こう側を通っていきましたが、このサマリア人はその人を見て《憐れに思って》《そば》に来ました。
その人に気づかない人も、見ても憐れに思わない人も、その人の隣人でないことにおいては同じです。
追いはぎに襲われて服まで取られ、殴られ半殺しにされた人とは、今の社会の中のどのような人でしょうか。
家に踏み込まれ殺されて財産を奪われた人*生まれ故郷から身一つで逃れて来た難民*家も仕事もなく、ホームレスにならざるを得ない人*いじめや本人の特性が災いして、社会から疎外されて引きこもる人。
虐待を受ける子供*DV被害の女性*心身の不調が続く高齢者*認知症になった人。
誰かの《助けが必要な人々の誰も》が、聖書の追いはぎにあった人なのです。
イエスの時代、律法によると、死体や血に触れることで自分も汚れてしまいます。
祭司やレビ人が汚れては、祭儀をつかさどることが出来ません。
祭司とレビ人には、自分の立場と仕事に忠実であったと言う《言い分》があったかもしれません。
現代の私たちにとっても、困っている人に手を差し出せない《それぞれの理由》があるかもしれません。
しかし、イエスは決してこれを正当化されません。
誰かの《助けが必要な人》に気づいたなら、近づいて手を差し出せばよいのです。
あなたの力が不足していても、神様があなたの差し出す手を支えてくださいます。
あなたが手を差し出した人が《あなたの隣人》です。
あなたが助けを必要とする時、あなたに手を差し出してくれた人が《あなたの隣人》です。
あなたが「哀れに思って」そばに「近づく」なら、その人が《あなたの隣人》です。
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