日本自由メソヂスト葛城キリスト教会

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あなたへのメッセージ

2019年9月1日  主日礼拝
 
「祈りと共に聖書を読む」 ルカによる福音書 13章1〜17節

今日の聖書の1節から5節でイエスは、「被害に遭ったガリラヤ人が他のガリラヤ人と比べて罪深いからではない」と言われ、「過去にシロアムの塔が倒れて死んだ18人も、他のエルサレムの人々と比べて罪深いものではない」といわれました。

ピラトに殺されたガリラヤ人や塔の下敷きになって死んだ18人を、他のガリラヤ人や他のエルサレムに住む者と比べることで、「誰にでも罪がある」とイエスは言われたのです。
ここでイエスが《最も伝えたかったこと》は、「罪があるゆえに何らかの被害に遭うのではない」と言うことです。

6節から9節のたとえ話では、ブドウ園の主人が神様、園丁はイエス、イチジクの木はイスラエルの民、三年は植えて以来ず〜と長い年月です。
当時、イエスが話されたのは、三年間実を付けなかったイチジク《イスラエル》に代えて、他の木《異邦人》を神は選ばれたが、「一年待ってください」と執り成しをしたのが園丁《イエス》だと言うたとえです。

しかし、現代の私たちは、ここからイエスの違った御心を聞き取ります。
木にも人にも命あるものすべてに、神は《それぞれの使命=仕事》を与え、行うことを求められています。
イチジクの木に与えられた使命は、人や野の生き物が食べるための実を付けることです。
《それぞれの使命=仕事》を言い変えれば、《存在の意味」》になります。

実らないイチジクに《存在の意味がない》と考えることが「切り倒す」ことです。
しかし、園丁は、イチジクの木が自分の力で実ることが出来なくても、「木の周囲に肥やしを入れて実るのを待つ」と言います。
何の働きも出来ないあるがままの《私》を《あなた》を、イエスは大切な者として愛して最後の日までそばに付き添ってくださるのです。

11節から17節では、安息日に癒された婦人も腹を立てた会堂長も、この時代の律法を守る人にとっては間違いを犯していません。
しかし、安息日を定めた神の御心は、「すべての人々の解放のため(申命記5:14)」です。
安息日に、家畜でさえ綱を解かれるのに、娘を縛っているサタンの綱を解くのは当然であるとイエスは言われました。

聖書に記された御言葉を律法的に「守り通さなければ」と考えるのは、イエスの考えとは異なり、神の御心でもありません。
聖書は私たちが《生きるための規範》を教えてくれますが、神の御心である「愛すること」は、その規範を超え、時には規範を破ることもあります。

福音書のたとえの解釈は、それぞれの時代・時・状況に応じて解釈することが、イエスの御心です。
そして、杓子定規な解釈は神の御心から外れることがありますが、自分本位な間違った解釈をしてはいけません。
聖書を読んでも理解できない時は《祈り》、また読み直して《祈り》、「祈りながら読む」時、祈りの中で神様が語りかけてくださいます。

礼拝と集会のお知らせ

2019年 9月 1日   主日礼拝 
 
  9月1日(日)午前10時45分から12時00分
     聖書箇所  ルカによる福音書 13章 1〜17節
     説教題   「祈りと共に聖書を読む」
  
    1〜3節と4〜5節でイエスは罪を犯すと罰があると言う考えを正された。
    6〜9節はたとえを用いて、10〜17節は自ら行動しながら私たちに伝えておられる。
    イエスが伝えておられることは?

    一緒に聞いて考えてみませんか。
    ぜひ、教会においでください。
                        待っています。
    

集会のお知らせ    
 
  8月28日(水)午後1時半から「マルコの福音書から学ぶ」は休みです。
   
  9月4日(水)午後1時半から「心と体と子育て相談・喫茶まどか」を行います。

    コーヒーや抹茶を飲みながらゆっくりお話しできます。
    一人の時間を楽しみたい人も自由です。
    飲み物はすべて100円です。 

    お待ちしています。

あなたへのメッセージ

2019年8月25日  主日礼拝

「主人の帰りを待つ」 ルカによる福音書 12章35〜48節

就活、婚活、終活は、われわれに求められている覚悟のようなものです。
その中で終活は、高齢化社会になって出てきた言葉です。
人生の終わりに備えて、「身の回りの品を捨てる」、「葬儀・墓・遺産相続などの遺言を書く」、最後の日までの「資金の準備をする」人もいます。

余命を宣告された重病人を除いて、終活の期限は不明です。
そして終活の最大の目的は、「いかに死ぬか」です。
言い方を変えれば、「痛み苦しみ無く、不安なく、平安の内に死を迎えこの世から消えて行く準備」こそ、《最大最強の終活》です。

「痛み苦しみなく」は医療や介護の範疇で、延命治療の拒否と緩和医療の希望に当たります。
「平安」は心の問題であり、それぞれの人生観とそれぞれの信仰の問題にかかって来ます。

では、私たちクリスチャンにとって、《平安の内に死ぬ》とはどういうことでしょうか。
私たちは、【死んだ後、イエスの下によみがえり、先に召された人々と再会し、残して来た者とも再び会う日が来ると信じる信仰】によって、《平安の内に死を迎える》ことが出来ます。

今日の聖書は、イエスの再臨の時までの弟子の覚悟が語られています。
イエスの再臨は、終末の後に出現しますが、それがいつになるのかは分かりません。
私たちの終活と似ています。

今日の聖書個所では、同じルカの「ムナ」のたとえ(19:11-27)のように、預かった10ムナを自分の裁量で増やした者がほめられるとは書かれていません。

今日のたとえでは、主人の帰りを待つ僕は、「善行を施し、悪行をするな」とは言われていません。
僕は、《なにも特別なことをしなくても良い》のです。
主人が出かける前にそれぞれに《委ねられた仕事》だけを忠実に行い、主人が帰ってくるのを楽しみに待つことが望まれているだけなのです。

イエスが「目を覚まして待ちなさい」と言われているのは、いつ何が起こっても大丈夫なように、今、この瞬間をしっかり生きることです。
《目を覚まして待つ》ことは、決して易しいことではありません。
ついうとうと眠ることもありぐっすり眠ってしまうこともあります。

私たちがこの世に命を与えられた時、神様は、一人一人にそれぞれの仕事を与えられました。
人の目には大きく偉大な仕事から小さくわずかな仕事まで、神様の目には与えた仕事は全て尊く必要な仕事なのです。
生まれてすぐに亡くなる子供にさえ、産んでくれた親に感謝する仕事、親に悲しみ喜びの思い出を残す仕事が与えられています。

「いつ、あなたの命が亡くなっても悔いの残らぬように、今、あなたのするべき仕事をしなさい」とイエスは言われています。
今、この時、自分がしなければならない《一番大切なこと》は何か、何をするべきなのか、神様があなたに与えられた使命を、《しっかり目を覚まして》見極めながら「主の再臨」を待ってください。

礼拝と集会のお知らせ

2019年 8月25日   主日礼拝 

  
  8月25日(日)午前10時45分から12時00分
    聖書箇所  ルカによる福音書 12章 35〜48節
    説教題   「主人の帰りを待つ」

    終末に、主が再臨されるときの裁きをわたしたちは勘違いしているかもしれない。
    閻魔様の持っている「閻魔帖」に書かれているように、善行を行ったか?悪行を行ったかと主人    は尋ねておられない。
    クリスマスに、サンタクロースに会いたいと待つ子供のように、「目を覚ましていなさい」と言    われているだけである。


      礼拝で聞いてみませんか。
      ぜひ、教会においでください。
      待っています。
    

集会のお知らせ   
 
 
  8月21日(水)午後1時半から「心と体と子育て相談・喫茶まどか」を行います。

     コーヒーや抹茶を飲みながらゆっくりお話しできます。
     一人の時間を楽しみたい人も自由です。
     飲み物はすべて100円です。 


     お待ちしています。

あなたへのメッセージ

2019年8月18日   故・山崎光夫牧師記念 礼拝
 
 「あなたに隣人はいますか」  ルカによる福音書 10章25〜37節

今日の礼拝は、2014年8月21日木曜日に天に凱旋された山崎光夫牧師を記念する礼拝です。
山崎牧師は亡くなる四日前の日曜日の礼拝で、「愛は勝つ」と題して説教をされました。
説教の中で、奥様と入居された施設での生活を感謝し、主イエスの愛によって守られ導かれた人生を感謝されました。

《記念》とは、「過去の人物を思い起こして心を新たにすること」です。
「山崎光夫牧師記念礼拝」は、山崎光夫牧師とその最後の説教を思い起こして、毎年心を新たにするするために教会行事に定めました。
私たちは、「互いに愛し合うこと」を心に刻み付けたいと思います。(ロマ12:10)

今日の聖書の中で、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったのか」と、イエスは尋ねます。
自分のように隣人を愛するには、まず、自分の隣人を持たなければなりません。
このサマリア人は、追いはぎにあった人を介抱することで、その人の隣人になりました。
イエスは、「人を愛することで自分の隣人を作りなさい」と言われたのです。

祭司とレビ人は、襲われた人を見ると道の向こう側を通っていきましたが、このサマリア人はその人を見て《憐れに思って》《そば》に来ました。
その人に気づかない人も、見ても憐れに思わない人も、その人の隣人でないことにおいては同じです。

追いはぎに襲われて服まで取られ、殴られ半殺しにされた人とは、今の社会の中のどのような人でしょうか。
家に踏み込まれ殺されて財産を奪われた人*生まれ故郷から身一つで逃れて来た難民*家も仕事もなく、ホームレスにならざるを得ない人*いじめや本人の特性が災いして、社会から疎外されて引きこもる人。
虐待を受ける子供*DV被害の女性*心身の不調が続く高齢者*認知症になった人。
誰かの《助けが必要な人々の誰も》が、聖書の追いはぎにあった人なのです。

イエスの時代、律法によると、死体や血に触れることで自分も汚れてしまいます。
祭司やレビ人が汚れては、祭儀をつかさどることが出来ません。
祭司とレビ人には、自分の立場と仕事に忠実であったと言う《言い分》があったかもしれません。

現代の私たちにとっても、困っている人に手を差し出せない《それぞれの理由》があるかもしれません。
しかし、イエスは決してこれを正当化されません。

誰かの《助けが必要な人》に気づいたなら、近づいて手を差し出せばよいのです。
あなたの力が不足していても、神様があなたの差し出す手を支えてくださいます。
あなたが手を差し出した人が《あなたの隣人》です。
あなたが助けを必要とする時、あなたに手を差し出してくれた人が《あなたの隣人》です。
あなたが「哀れに思って」そばに「近づく」なら、その人が《あなたの隣人》です。

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