かつ爺の「山の歳時記」

ゴミを拾いながら徒然に書いた山日記

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ふゆのさくら(8)

        ふゆのさくら(8)
                          中村ちづ子

佐伯が部屋の照度を下げ、肩に腕を回してきた。一組の男と女がひとつになることに、長い時間を必要としなかった。
「生きていてよかった」
「私も」
淡い灯りの中で、佐伯によって揺り動かされる波を感じながら、詩乃は生きている自分を感じた。生きている実感が還っていた。けれども、今の幸福感はすぐ雪のように消えていきそうな不安もあった。
荒々しかった波が静かに制止した頃、詩乃の目は薄明かりに順応し、佐伯の首筋にある黒子を捉えた。米粒ほどの小さな黒子がいとおしくて、詩乃はそっとそこに唇を添えた。

「罪深い、悪い人間ね。でも言葉で言うほど、不思議と罪の意識を感じないのよ、私。もっと悪いわね」
「必要悪って言葉がある」
佐伯と出会ってからの詩乃は、酒も煙草も必要ではなくなっていた。

佐伯はそれまでと同じように一日も欠かさず妻の入院先に通った。妻の鼻に通された管に、彼の手で夕食の液体を注ぐのが日課になっていた。
「笑うことも泣くこともできないけれどね、僕を見ると妻の目が少し動くんだよ。僕には妻が喜んでいるようで、大きな赦しを授けられているような気がする」
「あなたたちが培ってきた豊穣な夫婦関係が、私には眩しすぎる」

浩太がまだ小学生だった頃、博史とそっくりのくりくり目玉を見開いて言ったことがある。
「ママとパパ、どうして離婚しないの。別れてもぼくたち平気だよ」
三年生にもなっていなかった。夫婦が別れることの意味など分かろうはずのない浩太が、こんな事を言ったのは、表立って夫婦喧嘩をしたわけでもないが、澄んだ子供の心に、両親の亀裂が映っていたに違いない。詩乃に似た、浩太の強すぎる感受性が怖かった。

博史は仕事さえしていれば正しいと考える男であった。
「俺は間違っていない、俺を不満に思うお前が悪い」
この言葉を動かそうとはしなかった。
「俺が嫌ならお前が出て行け。俺は真面目に働いている、何にも悪いことはしていない。文句のある者が、さっさと身ひとつで出て行け。子供は絶対に渡さん」

洗濯や清掃、家事のすべてを詩乃が担うが、夫婦として暮らしている実感はなかった。お互い別の方向を向いており、離婚に費やすエネルギーは無駄だと考えるようになっていた。
家はただ虚しいお城、その思いが高まり、詩乃は宛てもなく家を飛び出たことがある。電車に飛び乗ったものの放心した詩乃の前に、浩太と同じ年頃のランドセルを背負った少年たちがいた。付属小学校の制服を着た利発そうな少年たちだった。

「ある人が自殺をしようとしています。その人は水銀の貯め池に飛び込みました。果たしてその人は死ぬことができるでしょうか」
「死ねません。比重が高いので沈まないからです」
「だけど、水銀が口に入ったら毒で死ぬでしょう」
「おじいちゃんが言っていたけどね、人間は楽には死ねないのだって」

無邪気な少年から自殺という言葉を突きつけられ、我に返った。詩乃の膝を奪い合う子供をしっかりと抱きしめたくなっていた。子供を失ってまで、博史と別れる必要はなかった。
詩乃の膝を奪い合うこともなくなった子供たちだが、忘れた頃に博史が被さってくるのは苦痛の種となった。
「夫婦の営みは、もっと人間らしくあるべきだわ。あなたは妻の体調を気遣うこともなく、これじゃまるで動物と同じよ。私はあなたから人としてあつかわれたい」
日頃から不満の蓄積している詩乃は、猛烈に抵抗した。詩乃の抵抗に博史は反応しない。詩乃から受けた言葉の鬱憤を晴らすかのように、ますます動物的で乱暴になった。後に残るのは悔しさと苦痛ばかりであった。欲望だけを果たせばいい、それが男だと思っていた。

男女の営みが共同参加とは知らなかった。苦痛でしかなかったものが、壊れ物を大切に包みこむように、無理強いすることのない佐伯を知ってより、それが歓びを伴うものであると初めて知った。愛とはもっとプラトニックなものだと確信していた詩乃だが、それは肉欲をも伴うものであり、忌まわしいはずの営みが、人として生きる歓びに変わった。
「性とは、心が生きると書くだろう。尊いもの、聖なるものだと思うよ」
涸れ池で喘いでいた魚は、水を得て生気を取り戻した。

離婚を切り出したところで、博史は絶対に応じない。
「夫婦は別れても別れなくても、どちらを選んでも後悔するだろう。周りのことを思えば、このまま密かにいる方がいい。妻と別れることはできないが、僕たちを不倫などと汚れた言葉でくくりたくない。僕たちは、出会った順番が入れ違っただけ。道を外しているなどと思わない。食事を摂って生きていくのと同じように、今の僕たちは生きていくためにお互いが必要。二人の関係は生きていくための必要悪だよ」
いつでも会えると言うわけにはいかなかった。

製作に打ち込んでいると、時を忘れた。佐伯と出会ってからの詩乃は、それまでとは比較にならないほどの時間をアトリエにこもった。粘土を造形していると、佐伯の匂い、唇の感触、締め木のような腕の力を感じることができた。会わなくてもそれで充たされた。

(続く)

閉じる コメント(3)

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う〜ん、ちょっと刺激的でしたが、男女の仲とは不思議なものだなって感じますね。「性とは、心が生きると書くだろう。尊いもの、聖なるものだと思うよ」・・・わたしも同感です。でもって、何人者のひとと行為してしまうことが不思議な私です。考えられない!!

2006/12/21(木) 午後 6:39 rose

「不倫と言う言葉でくくりたくない」って気持ち、切ないですね。出会う順番さえ狂わずにいたら、幸せになれたのでしょうか。 次がまた楽しみです。(o^∇^o)ノ

2006/12/21(木) 午後 8:46 秋葉 ケイ

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佐伯の心の中には、自分の好きな陶芸が出来たとはいえ、そのせいで、一生償う事が出来ない妻への事故、もう少し、妻の事を思ってあげればよかったという気持ちが、詩乃のすさんだ心をみて、そんな事ではいけないよって思った。その反面、自分と同じ境遇にある詩乃をいとおしく思うようになった。陶芸と彫刻の共通の話題で、益々、二人は深くなっていくようですね〜。

2006/12/22(金) 午後 3:43 [ やぶ こうじ ]


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