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ふゆのさくら(10)
中村ちづ子
携帯電話に佐伯からの着信が入っていた。
終業時間を見計らってかけてきたのだろうが、仕事が定時に終ることはない。佐伯ならそのことが分かっているはずだ。どんな異変が起きたのだろうか。はやる気持ちでリダイアルした。病院での使用は禁じられていたが、佐伯は連絡手段として密かに持ち込んでいた。
何度も呼び出しているが反応がなかった。
毎日でも会い佐伯の無事を確かめたかったが、家族が交代でついていて、足繁く通うのは憚れた。
先日、と言っても四日も前になるが、長く座位をとるのはきつそうだったけれど、ベッドを少しあげた半座位の姿勢で、サイドテーブルの上で柔らかい土に触れていた。
「僕のような病人に一番必要なのは、薬でも何でもない。笑顔だって。一時間でも長く、笑顔でいたいな」
「NK細胞が活発になるってあれね」
「パッチアダムスのような医者、日本にはいないな。どいつも苦虫噛んだような医者ばっかり」
「怒るのがいけないのではありませんか。それより今何をお創りですか」
「これだよ。病院の中は空気が乾燥してね、このとおり、大きなパックに入れておくのだけどね、すぐ乾いてしまう。若い看護師さんだと頼みやすいから、濡れ布巾を時々換えてもらっている」
佐伯は展覧会に出展したいと言う作品を詩乃に差し出した。
「これは目標を置くためにだよ。賞が狙いではない」
その日、土をいじる彼の眼は幸福そうに輝いていた。
佐伯が電話に出たのは、十数回も呼び出した後だった。
「驚いた? 今家だよ」
狐につままれたような詩乃の反応を楽しんでいる。
「外泊? まだ治療の途中でしょ」
「病院なんかにおればかえって命が短くなる。ストレスが貯まるばかりだから」
「でも家では、あれができないでしょ」
あれとは新しい抗癌剤のことだ。
「あんなもの、体を弱らせるばかりだ。始まると吐いてしまう。あれは地獄の責めでしかない」
電話を切って後、詩乃は、家とは反対方向にある佐伯の家に向かった。病院なら帰る方向なので立ち寄りやすいが、彼の家には娘や母親がいて心苦しさもあった。日を改めようとも思ったが、残された日々を思うと会いたさが募った。
交通量の多い幹線道路を避けて、川べりの道を走った。夕映えの空に、雪山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。
日が沈む前の、これほど美しい夕景を、人は生きて何度見ることが出来るだろう。そんなことを考えながら、詩乃はアクセルを知らず知らずに深く踏み込んでいた。一刻も早く会いたかった。先行車に近づき過ぎ、慌ててブレーキに踏み変えた。家を訪れるのは初めてのことだが、佐伯と車で前を通ったことがあるので迷わず辿り着くことができた。
誰が現れるのだろうかと、落ち着きのない気持ちで玄関ブザーを押すと、現れたのは佐伯本人だった。寝巻きから伸びた足が枯れ木のようで、詩乃の心を鋭く突き刺してきた。
「やあ、仕事お疲れ様」
このように家族から快く迎えられられたことが、それまでの詩乃にあっただろうか。
母親が在宅とばかり思っていたが、台所からお茶を運んできたのも佐伯だった。
「体きついでしょ。お願い、動かないで。お母様は?」
「パートに。友達に以前から頼まれていたからって」
さりげない話から、生活の窮状が推し測られた。
日の当たらない部屋で、黙々と仕事をしていた佐伯。初めて仕事場を訪れた時、とっさに詩乃は、佐伯の幸福の量を推し測っていたことをまた思い出した。
「せっかく来てくれたのだから、病気の話は止めだよ」
「病院へはいつ戻るの」
「今日は病気の話はしない、そう言っただろ。戻らない。医者とやってしまった。することは何もない、医者は僕にそう断言したのだよ。そんな医者に体を預けられるかい」
「点滴はどうするの。食べられないもの」
恐る恐る口にした。
「薬剤師だろ、何を言っているの。今は在宅看護ってのがある。家にいても点滴は受けられるよ」
次の言葉を、詩乃は少し引きながら聞いてみた。佐伯の看病を誰がするのか、それが一番気がかりだった。
「お母様やお嬢様たちが、お勤めをしながらあなたのお世話を? 私にできることは・・・」
「交代で。だから心配しないで。病気の話はしない」
佐伯はきっぱり言い放った。
「同情されるのはいやだ。それとがんばれとは決して言わないこと。創作者として接してくれること。望むのはそれだけ。出会った時のように傷を舐めあうのは嫌だ。常に創作者として向き合って欲しい。生活臭は邪魔だ」
「そうね。そうそう、今ね、あなたをイメージしながらマスクを作ろうとしているのよ。『永遠の』は、まもなく仕上がるわ。その次の作よ」
本当は仏像をイメージしてデッサンを試みているところだが、佐伯が仏様になってしまうようで仏像とは言えなかった。
「マスクか、頼もしいな。誰のマスクなの?」
「それはお楽しみに。奇抜なものは作れないけれど」
「斬新さがすべてじゃない。胸を打つものがなければ」
「平凡の中にある普遍性ね」
「プロとアマの差は運さ。我を忘れるほど打ち込んだ魂は、必ず誰かに伝わる。そう信じたい」
隣の部屋で人の動く気配がした。
「お嬢様なのね。ご挨拶をしなきゃ」
いいよ、と佐伯は言ったが、詩乃は襖を開けて挨拶をした。
「こんにちわ。お邪魔しています」
「いらっしゃい」
切れ長の一重の目元は、佐伯には似ていなかった。
「陶芸仲間の大田詩乃さんだよ」
娘はアルバイトにでも出かける様子であった。おそらく母親似なのだろう。その目つきを詩乃が険しいと感じたのは、娘の母親へのやましさが潜んでいるからだろう。
色白の娘には、淡いピンクのワンピースがよく似合った。
病床に伏す娘の母親も、さぞ美しかったことだろう。佐伯の家族への憧憬に継いで、詩乃に罪の意識が広がっていた。
「母さんの病院に立ち寄るけれど、持っていくものある?」
「そこにある洗濯物を」
頼まれた紙袋を手にすると、娘はすぐさま身をひるがえし出て行った。玄関の引き戸を閉める音が乱暴に響いた。
佐伯と会えたのはこの日が最期となった。
佐伯とは何ヵ月も会えないことの方が多かった。時たま会う時間も、夢のように短くすばやく過ぎていった。 (続く)
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佐伯と会えたのはこの日が最期となった。・・・ってことは・・・。
2006/12/26(火) 午前 11:00