愛知県尾張地方に伝わる山姥の話 9
その三の七)山姥の話 福富新造と親友小池与八郎貞好と妻玉の話
その年も暮れようとする年の瀬のある日、長男与九郎(宮丸改め)と次男与四郎(京丸改め)が父与八郎の部屋を尋ねた。「父上ご相談があるのですが、実は母上の事です。私も来年には嫁をとります。その前に母上のお寺を建立したいのです。与四郎とも話をいたしました、与四郎も喜んでくれ二人で寺を作ろうと申してくれました。お父上にもぜひ賛成していただきたいのですが」与九郎の願いに与八郎は大変喜んだ。「二人とも優しい心を持ってくれた。お母さんは今でも村の人たちから慕われている。それは心の美しいお人だったことだ。二人ともよく言ってくれた。父も喜んで賛成させてもらう。」
幸い近くに知証法印と言う評判の僧がおられた。与八郎が相談をすると、知証法印和尚は快く引き受けて頂だけたので、早速一寺を建立した。
山号は母がいないことから空母山と号し、寺名を徳蓮寺と名付けた。やがて、羽黒にあった両福坊(新造の僧名)も羽黒からこの余野村に徳蓮寺塔頭(たっちゅう)として隣に移って来た。そして両方の寺は真言密教の道場として栄えた。
月日の経つのは早いもので、あれから二百年の月日が流れ、世は戦国時代になっている。
徳蓮寺も、両福坊も戦火に焼かれ、あるいは僧侶のおごりなどもあって衰退の一途をたどった。今では住む人もいない荒れ寺となり狐や狸の住居となってしまったのである。
この頃悟渓宗頓(ごけいそうとん)と壽岳宗彭(じゅがくそうほう)という和尚がいた。悟渓和尚はこの衰退を見て嘆き近隣の人達に復興を呼びかけ、復興半ばに弟子の壽岳和尚に譲り自分は美濃に瑞竜寺を建立した。
壽岳和尚は半ばで譲り受けた寺を完成し、山号を大竜山と号し寺名を徳林寺と名付けた「徳林」の寺号は山姥の子与九郎の法号「徳林丸」を請けたものである。
同時に、塔頭として福富新造ゆかりの両福庵も再建された。
その後徳蓮寺は、兵火によって再び廃寺に追い込まれてしまうが、織田遠江守広近を開基として岐阜瑞竜寺の悟渓宗頓和尚と法弟壽岳和尚の手によって再建された。現存する大竜山徳林寺は山姥寺として親しまれている。尚福富新造の作った両福庵は現存しない。
これで、尾張地方に伝わる山姥の話は終わるが、その後山姥の伝説の主人公だった小池与八郎の三代後末裔に松江城主堀尾山代守吉晴の家臣神保清十郎配下で「百五十石・小池与八郎」の書き付けが存在するし、織田信長の家臣であった堀尾吉晴が浮野合戦で「我こそは山姥の子なり」と名乗りをあげていることである。その書物は堀尾と小池は同族なりと記していることから、小池にかかわりがあった事は事実のようだ。何れにしろ、小池も堀尾も同じ村内なのだから。
写真説明
1) 福新山全徳寺 福富新造の弟子が作った寺から隣の徳林禅寺(山姥寺)を見る
2) 山姥寺山門 大竜山徳林禅寺
3) 山姥寺本堂 大竜山徳林禅寺
4) 山姥寺の文字も見える寺門脇の石柱 大竜山徳林禅寺
=終わり=
そもそも、この山姥の話を耳にしたのは、10年ほど前に本宮山を歩いていた時のことである。山頂から凡そ100mほど降った所に、鋭く切れ落ちた岩のテラスがある。とても展望に優れ、名古屋市街も一望できる。このテラスには雨宮神社と、八大竜王の小さな祠が祭られている。(その横に山姥の話3で紹介した山姥の池が現存する)そのテラスで休んでいた時、72才の方と知り合った。その方が語ってくれたのが本宮山と犬山市羽黒町に伝わる昔話だった。
調べを進めてみると、羽黒町周辺には実在する末裔の方もお住まいに成り、巷に伝わる恐ろしい話とも違うのではないかと思い始めたのがきっかけだった。
この山姥の話は、犬山市や小牧市そして岐阜県各務ヶ原市の住民の中で、口伝として伝えられて現在に至っている。その為に、私が読んだ書物のなかにも疑問を持った個所が幾つかあった。それらの個所について自分成りに変更を加えた部分もあるが、伝承そのものの本筋を変えることはしていない。
参考にした文献
入鹿物語・山姥物語(以上名古屋市鶴舞図書館蔵)・武功夜話・篠岡百話・山姥物語実記・歴史読本・新日本伝説100選・十二支の民族伝承・(小牧市図書館蔵)
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