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ふゆのさくら(9)
中村ちづ子
詩乃が病院にかけつけたのは、佐伯が医者から告知を受けた翌日のことだった。メールで知らされ、すぐにでも駆けつけたかったが、彼の娘たちがずっと病室に詰めていて、足を向けるわけにはいかなかった。
ドアを開けてすぐ、白い寝具が目に入った。病院のリネンはどうしてこうも真っ白なのか。父も母も、白い色に包まれ息をひきとった。
詩乃は胸に抱えられないほどの桜の枝を抱えていた。
足音に気付いた佐伯はカーテン越しに声を発した。
「めっぽうに早い時間だね。仕事、早く終ったのかい」
四人部屋なので佐伯はいつもカーテンを下ろしていた。
「誰かさんに会いたいからドラエモンのポケットを借りて、空をタケコプターで飛んできたのよ」
詩乃がおどけながらカーテンを開くと、薄い体が眼に飛び込んだ。顔は透けるように白かった。こんなに痩せていることにも気付けずにいた、詩乃は心で自分を責めていた。
「おっ、桜。花屋には売ってないでしょう」
「今日は思い立って休暇をとったの。小原村まで走ってきたのよ。病室だと温かいからすぐ開いてしまうかしら」
「ええっ、小原村まで。まだ硬い蕾だね。あと何日ぐらいで咲くだろうか」
ここ四年、二人で見てきた四季桜。どれだけ佐伯も見たいことだろう。
この日の詩乃は顔を曇らせないでいるだけが精一杯だった。
工房で気分が悪くなった佐伯は元来病気をしたことのない体、そのまま働いた。午前中で作業を終えたものの、帰途、車の中で多量の血を吐き、意識を失った。意識が戻ったのは、病院で手当てを受けてからのことだった。
「よくぞ事故に結びつかなかったものだ。他人に怪我をさせなくて本当によかった。血だらけになっていたそうで、当初は事件かと大変だったそうだ」
なぜ佐伯にばかり不幸が襲いかかるのか。
昼間さえ薄暗い彼の工房が浮かんだ。詩乃は打ちひしがれる思いを堪え、徹夜で完成させた塑像を床灯台に載せた。
「さて、先生からはなんと評していただけるかしら。タイトルは、『永遠の』と決めたの」
「いいなそのタイトルも、土の匂いも」
輸血を終えたばかりだが、彼の声に力はなかった。
「これは、あなたをイメージして作ったのよ」
「このマスク、詩乃ちゃんにも似ているし、僕にも似ているような気がする」
「この世では生まれることのない私たちの分身かな」
「詩乃ちゃんにこういう作品を作らせたらかなわない。今にも動き出しそうなほどリアルだよ」
「時代遅れと言われても、人の愛は永遠、そんな気持ちがこもっているのかも」
ほんの一瞬、佐伯は小さく笑ったがすぐ険しさが戻った。
「肺が真っ白だった。全身がん細胞に侵されていて、原発巣がどこか分からないそうだ。これまで普通に暮らしていたことが奇跡だと言われた。写真を見せられて、素人目にも病状が分かったよ。あと三ヶ月持てばいいって」
「そんな・・・」
詩乃は二の句が継げなかった。それほど進行していたとは。専門職の端くれとして彼の病気に気付かなかった自身を、詩乃は責めずにはおれなかった。
佐伯が告知を望んだとしても、そこまで告知する医師に憤りすら感じた。これでは絶望しかないないではないか。希望が抱けなくなった時、人は何をすればいいのか。
気がつけば詩乃は唐突に叫び出していた。
「生きて、生きて、生きぬいて。あなたが生きていることは、私が生きていることなの。あなたの生は私の生なの」
「まだ死ぬわけにはいかない。どんなことをしてでも生き抜いてみせる」
「諦めては駄目。病気は文字通り気持ちが負けるから悪くなる。あなたは負けないって信じている」
涙は出なかった。つまらない悲しみには流れる涙が、本当に悲しい時は出なかった。
「今死ねないと思うのは、誰のためでもない。家族や詩乃ちゃんを遺して逝くのは忍びないけれど、それとは別に、自分が生きた本当の証を遺していないからだ」
「違うわ。あなたの作品をどれだけの人が愛しみ使ってくださっていることか。それに愛してやまないお子様がいるわ」
「そうじゃない。子供を遺すことは誰にでもできる。幾枚かの皿も遺したかもしれない。けれど本当に納得のいくものを創りたい。代表作となるものを。昨夜医者から宣告されてね、一睡もできなかった。見えるのは、死ばかりだった。このまま無限に続くと思われた闇だったが、やがて白み、明かりが枕元に差し込んできた。その時、看護師の忙しげな足音が聞こえた。生きている音っていいな。そう思った。先に死しかないとしても生きた証を飾りたいと。名はなくても僕は表現者だから。今まで感じたことのないほど強く芸術家(アーティスト)だって自覚が生まれたよ。この期に及んで、だよ。今は、一時間でも長く体の自由がきく状態でいたい」
「そうよ、そうよね。ベッドの上だってどこでだって、土はいじれるわ。私がここへ運ぶわ。明日にでも持ってくる」
「天井を見て横たわっているだけでは、生きているとはいえない。何もできなくなったら延命はしたくない」
胃癌で亡くなった父を、詩乃は忘れているわけではなかった。佐伯との会話が、所詮実現不可能な、きれいごとだと悟るものもあった。痛みに打ちのめされ、喘ぐ父を見ていて、早く昇天できることを祈った。意志の力だけでは病気に勝てない、そう耳打ちしてくる、もうひとつの声があった。
この時、佐伯の力強い声が詩乃の揺れ惑う心を止めた。
「今、裡から湧き溢れてくるものがある」
「マグマのように溢れ出てくる?」
「そうだよ。力が湧いてくる。ありがとう、詩乃ちゃん」
話していると疲れるのだろう。佐伯は言葉をいくつかに区切りながら話した。しかし、そこが病室であり、佐伯が死期を宣告された病人であることを、しばし忘れるような会話が弾んだ。
それから後、佐伯が召されるまでの、短いが充実した日々を、詩乃は忘れもしない。
(続く)
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