かつ爺の「山の歳時記」

ゴミを拾いながら徒然に書いた山日記

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立石寺の百条の岩に立って
2006年8月16日(水)快晴


今日も朝から暑い日だった。昨日まで山形県の名山を歩いて来たがこのまま愛知県へ、とって帰るのも能がないと帰路山形市にある宝珠山立石寺を拝観することとなった。

立石寺は古くから「山寺」とも呼ばれる。車窓から見上げる立石寺は、濃い緑の中に長年の風雪の跡もそのままに疑灰岩の岩肌を晒していた。切り立った岩肌に張り付く院々が点在している風景は、なにか異国の南画を見ているような感覚、これが、世に云うところの「山寺」かと、その珍しい岩の山を見つめていた。

松尾芭蕉は、奥の細道紀行文の中で
「山形領に立石寺と云山寺あり。滋覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすヽむるに依りて、尾花沢よりとって返し、其。間七里ばかり也。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし松栢年旧土石老いて苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。」

松尾芭蕉が立石寺に訪れた時の紀行文はこのようにしたためられている。芭蕉が山寺を訪れたのは元禄2年5月27日現在の暦では新暦1689年7月13日で夏の盛りだった。

その時芭蕉が読んだ句が
「閑かさや、岩にしみ入る、蝉の声」だった。
この聖地があまりにも静かであったため、蝉のなく声さえ、岩のなかに染み透っていくようである。ここに佇んでいれば、自分の心もまた、大気のなかに溶けこんでしまうようだ。
と、ものの本には書かれていた。

私達の訪れた、8月16日もこの聖地は蝉の声が賑やかだった。山門脇の駐車場は、「帰りに2000円以上の買い物をすれば無料にします」の呼び声が、蝉の声より喧しかった。し、

一歩山門を入ればそこは聖地との期待も破られた。根本中堂こそ仏を拝む雰囲気だったが、そこを過ぎれば、みやげ物を売る店が軒を連ねている。蝉ならぬ、おかみさんの客を呼ぶ声がかしましい。拝観料300円を払い、始めて芭蕉の心境に達しようと努力したが、時は午前8時45分、年間80万人の参拝客を迎える山寺の一日の中で、一番騒然とした時間であったかも知れないが「閑けさや・・・・は期待できなかった。

門前にあった案内板には1015段の石段を登ると書かれていた。欝蒼と茂る杉木立を縫って緩やかに登る石段こそ、セコセコとした我々の世をあざ笑うが如くゆったりと構えて時の過ぎ去るのも忘れさせてしまう、これこそ芭蕉の時代と変わらない空間を作り出しているのではないだろうか。ふと足を停め改めて回りの木立を透かし見た。

周りは、次々と人が息を切らせて登って行く姿があった。今思い出すと、喧騒はまったく耳に残っていない。私の心に残るのは蝉の声、木々を渡る風の声以外殆ど耳になく無我の境地のなかに遊んでいたようだ。

姥堂に参拝する。現世と黄泉の結界が、この姥堂である。奪衣婆(だつえば)と言われるそうだ。死者の衣服を剥ぎ取る役目を持つとされる。奪衣婆は、死者に世俗に残した迷いや恨み、欲望などを綺麗に捨てさせ、穢れのない仏心として三途の川を渡らせると言う役目をつかさどるとされる。ここには小さな橋が掛けられている。三途の川かもしれない。ここで、参詣者は身を清め橋を渡ったに違いない。

やがて石段は勾配を急にして登るようになる。死者も現世の修験者も、一様にこの坂を登った。黙黙と「南無阿弥陀仏」の6文字を唱和しつつ、すでにこの辺りを登るころには、無我の境地を自ら悟りその境地に到達していたであろうか。

欝蒼と茂る樹齢500年とも1000年とも云われる杉の木立は、昼なお暗かった。その木立の片隅にひっそりと立つ石仏は極楽浄土への入り口だろうか、一枚の岩盤がそのまま仏の姿をした阿弥陀洞、ここから見上げる観明院は、山寺のしおりにもなっている。

石段はどんどん勾配を増した。途中百条岩に立つ開山堂五大堂への道を分け妙法堂(奥の院)へ向かった。途中石段脇に卒塔婆に似た後生車が見られた。「南無阿弥陀仏」と念仏が書かれ法名も裏に書かれていた。卒塔婆と違う事はこの板に、丸い車がはめ込まれていたことだ。これは寺を訪れた多くの人達が回す事によって故人は輪廻転生がかない再び生まれ変わることが出来ると伝えられていると云う。

いままで欝蒼と茂った杉の木立は何時の間にか無く、あたり一面夏の明るい太陽が照らしていた。突然石段が切れると目の前に広がった伽藍は荘厳だった。立石寺の奥の院が目の前に聳えていた。あっけない1015段の石段だった。(後で伺った所によると実際には700数十段とか、数は伺ったがメモを執る暇がなかったので忘れてしまった)。

参拝後記念写真を撮り本堂を後にした。

帰路帝釈天祠、納経堂、開山堂、五大堂を順次参拝した。

五大堂からの展望は素晴らしい絶景だった。松尾芭蕉もこの五大堂に立ったに違いない。宿坊から立ち昇る夕餉の煙は、我々が見る眼下の景観とは幾分違いはあるかもしれないが周りを囲む山河の姿は恐らく当時とあまり違いはないであろう。

以前小説奥の細道を読んだ事があるが、芭蕉はこの尾花沢に到達する間で、さまざまな苦労を強いられてきた。元禄ニ年五月十五日、新暦七月一日芭蕉一行は奥羽山脈の口元、鳴子に着き。陸奥と出羽の国境「尿前の関」に差しかかっていた。芭蕉の旅日記には「小黒崎みずの小島を過ぎて、鳴子より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとするこの道、旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、ようようとして関を越す」と書いている。つまり芭蕉一行は散々に調べ上げられ、釈明も殆ど聞かれない状態だったのであろう。人間不審を抱きながら出羽の国に入っていったことは想像できる。

そして、国境を越えた出羽の国の封人の家(役人か庄屋のたぐい)に宿をかりた。この付近の農村は出羽地方でも有数の馬の生産地だった。村人は馬を家族同然に扱い、馬屋は家の中にあった。芭蕉はここで風雨を避け三日間逗留する。国境での役人との確執、風雨でのやむなき滞在、これらの鬱積した気持ちを彼は「蚤虱、馬の尿する、枕もと」と詠っている。

その後芭蕉一行は尾花沢の鈴木清風(芭蕉の俳諧の仲間)宅に滞在する。ここで長期滞在をし、奨められるままに訪れたのが現在私達の立っている立石寺である。

芭蕉はここで有名な「閑かさや、岩にしみ入る、蝉の声」を詠んだ。
芭蕉の心を暗くしていた、出来事もこの鈴木清風の心からのもてなしに、鬱積した心から開放された彼は、清閑とした寺に立ち後世に残る詠を残したのである。

私は、五大堂からの景観を十分堪能した。そして芭蕉が詠んだ句に少しでもあやかろうと頭ので、閑かさや・・・と何度も繰返して見たが石ならぬ岩の頭では、あのしみ入るような蝉の声も雑音としか聞かれなかった。あまりにも雑念が多すぎるのであろう・・・。

写真説明
1) 立石寺根本中堂
2) 蝉の鳴く杉の参道
3) 石仏の立つ浄土への入口
4) 蝉塚
5) 阿弥陀洞から観明院
6) 立石寺奥の院(妙法堂)
7) 左納経堂右開山堂
8) 五大堂からの展望

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