かつ爺の「山の歳時記」

ゴミを拾いながら徒然に書いた山日記

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里山の四季・春・キランソウ 別名 ジゴクノカマノフタ

里山の四季・春・恐ろしい名前を持つ「キランソウ」
2007年4月17日(火)晴れ

ジゴクノカマノフタというイメージとは似つかわしくない名前を持つ「キランソウ」。里山の登山道脇でよく見かけるこの野草は、薄紫色の小さな花をつける。
キランソウの名前はこの可愛い小さな花から名付けられたと思うのだが、別名の「ジゴクノカマノフタ」は、この花にふさわしくない。
図鑑をみると、『根出葉はロゼット状に広がり、茎が四方に延びて広がり地面を覆うので、一見地面に蓋をしているように見えることからジゴクノカマノフタと呼ばれる』と書かれていた。

ジゴクノカマノフタは虫刺されの薬として私は重宝している。キランソウを見つけると必ず、葉を1・2枚ポケットに忍ばせる。この季節、汗に濡れた体に集まる「ブヨ」などの害虫に刺されたときキランソウの葉を揉んで患部に貼れば、毒素を中和し痒みを取り去る効果がある。皆さんもお試しあれ。
一口に雑草として、見過ごされがちなキランソウにも思いがけない効果があると思うと、ウッカリ登山靴で踏みつけてしまうには可哀想でならない可憐な草だ。

万葉の飛鳥を歩くー2

里山の四季・春・万葉の飛鳥を歩く―2

里山の四季・春・時空を越えた恋・「死者の書」の舞台・當麻寺
2007年4月18日(水)曇りから雨

小説・「死者の書」の舞台となった當麻寺
折口信夫著「死者の書」の舞台となった當麻寺(たいまでら)は中将姫の寺ともいわれる。
父親を右大臣藤原豊成の姫君として育った中将姫は、幼くして母親を失い継母に育てられたが継母の虐待から出家の道を選び当麻寺へ入ったとされる伝説の女性。

作家・折口信夫は中将姫が當麻寺へ入山する状況を「死者の書」の中でこんなふうに書いている。
『天武天皇の死後、継母の持統天皇に疎まれ謀反の罪を着せられ殺害された大津皇子が、葬られた二上山(にじょうざん)の墓所で目覚めて、「おれは何処にいるのだ・・・、をを寒い、着物をください。地べたに凍り付いてしまう」と独白する場面から始まる。
そして時代は一挙に百年を飛び越え、奈良時代の後期藤原南家の美しい中将姫が「いい知らぬ胸騒ぎ」を覚え、一夜のうちに奈良の都から二上山の麓の當麻寺に、疲れたように招きよせられる。都では姫が神隠しにあったと騒然とし・・・・・・中略・・・・・。禁制を破った姫は当麻寺にこもり「魂が遊離」したかのように蓮の糸で一心に機を織る。曼荼羅を織りながら、「天井の光の暈(かさ)の中に、冷え冷えとした白い肌で寒さに震える俤人(おもかげびと)」の服を織るような不思議な幻覚を見ている・・・。』この小説はおおむねこのような内容で幕を閉じる。

二人の境遇はあまりにも似ている。折口信夫は、大津皇子の史実と中将姫の伝説とを渾然一体としたミステリアスな世界として書き上げた。

小説の中で中将姫が蓮の糸で織り上げた當麻曼荼羅(国宝)は別の場所に保管されている。展示品は2代目(重文)、3代目は国立博物館に蔵されている。

珍しいことに、当麻寺の本堂の「文亀曼荼羅・重文=室町時代」(絹糸)はこの寺の本尊で蓮糸(はすいと)をつかい織ったものとされているが、真偽のほうは定かではない。そんなことはどうでもよい。問題なのは、本尊となるものが一種の「絵」であり西方浄土の様子を描いたものだということだ。縦横それぞれ4mに近い巨大なものが、きらびやかな須弥檀に安置され厨子の中に懸けられる(国宝・天平、鎌倉)。説明によると「観無量寿経変相図」と呼ぶそうだ。一般的に寺の本尊は仏像である。本尊を絹糸で織った絵はこの寺意外には見られない。

生と死の結界に立つ当麻寺
當麻寺の位置を地図上で確認していて面白いことに気付いた。
二上山を境として西に大阪府河内郡太子町・東に奈良県北葛城郡當麻町がある。太子町には推古天皇・用明天皇・孝徳天皇・敏達天皇・聖徳太子、を祀る御陵が点在する。そして、當麻町と太子町を結ぶ国道166号線は二上山の双子峰、雌岳(474)の南側の鞍部を通り太子町へ繋がっている。都を現在の奈良盆地に作った飛鳥時代の大和人は、金剛山地を結界とみなし西方を極楽浄土、東側を現世と見立てたのではないか。

當麻寺は現世と浄土を結ぶ接点の寺として、本尊に極楽浄土を描いた「観無量寿経変相図」と二上山に沈む夕日に手を合わせたと思うと本堂の立つ位置や、他では見られない本尊を
懸けたことにもうなづくことが出来よう。

フォトアルバムは下記をクリックしてください
http://photos.yahoo.co.jp/ph/katujii_1/lst?.view=t&.dir=/9a94
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万葉の飛鳥を歩くー1

里山の四季・春・万葉の飛鳥を歩く(1)

里山の四季・春・甘樫の丘と飛鳥寺
2007年4月18日(水)曇りのち雨

私が所属する歴史研究セミナーで、奈良県飛鳥の里を訪ねた。
卓上の講義を一通り終了し、実際に現地を訪ね仏像の歴史と変革をこの目で確かめることを目的としている。以下、訪ねた地域と仏像について記録する。

,曽我氏の屋敷跡「甘樫丘」に立って
低い雲が頭上を覆い今にも雨の降り出しそうな空模様だった。
標高148mの山頂から眺める明日香の風景は1400年の時空を考えさせない、瞬く間にその時代にタイムスリップしてくれた。
眼下に広がる緑の中に点在する集落は、1400年前と違うとすれば瓦を載せた家並みが草や板を載せた家並みに変わるだけ。
飛鳥川の流れも当時とほぼ変わらない。変わったとすれば護岸を固めるコンクリートぐらいのものだろうか。

目を凝らしてみれば、飛鳥川の対岸に広がる丘陵の地に飛鳥寺(安居院)「うん・・・あった!!」その右手に飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡もあるはずだが・・と目を凝らす。かすかにその跡らしき場所を確認した。

大和三山として知られる「天香具山・耳成山・畝傍山」。西北には標高600m前後の金剛山地の山並みが続いている。特徴ある美しい双耳峰の二上山を認めるにはさほど苦労はしなかった。
二上山山頂には天津の皇子を祀る。その山麓には午後から尋ねる当麻寺(たいまじ)もある。

甘樫丘は、曽我氏の屋敷があったところ。天皇までも殺害し思うままに権勢を誇った絶頂期から乙巳の変で滅亡するまでの曽我一族の変換をこのわずか148mの丘は見続けてきた。

万葉の歌碑
采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたずらに吹く  (志貴皇子)


仏教伝来によって新しい技術文化が生まれる
欽明七年(538)日本にはじめて仏教が百済から伝来される。
それまでの日本には仏教は無かったかといえば嘘になる。事実奈良県北葛城郡の新山古墳からは、三角縁神獣鏡が出土している。その鏡の面には、獣の変わりに三仏が彫られ連坐に座り、円形の頭光もある。これを仮に仏獣鏡とすれば、これらの出土は奈良県だけに止まらず、千葉、長野、岡山からも出土している。これらの仏獣鏡の流布は、百済から仏教が伝来した(538)より遥かに古い卑弥呼の時代に遡る。

「日本書記」による(538)を仏教伝来としているが、実質的に我が国に寺院や仏像が作られ経典を使う時代はまだ先のことだった。

奉仏派=曽我氏対反仏派=物部氏による争い
曽我氏と物部氏による宗教の争いは、欽明天皇の中立的立場を反映して益々エスカレートしていった。(538年)百済からもたらされた釈迦仏や経典は、天皇から曽我稲目に与えられ物部氏の仏教拒否も認めると云う対立の傍観中立的立場を貫いた。
これには各地に乱立する豪族の力が、天皇の政治統括能力を上回り豪族は各々の支配する領有地において農作の神や病気治癒などの神など種々の神を祀っていたと考えられる。自然界の脅威や、疫病の流行などは神の祟りとして恐れられ神も仏も同一視的に見られたのである。

百済から贈られた金銅の釈迦仏は、曽我稲目に授けられた。稲目は向原の自宅を改修し日本最初の寺として安置したが、国内で疫病が流行した時物部尾興は「疫病の原因は神の祟り」と稲目の祀る寺を焼き払ったが仏像は焼けず、怒った尾輿は仏像を難波の池に投げ込んでしまったが疫病はなお続き天災は静まることはなかったという。

余談だが、長野の善光寺縁紀によると、難波の池に捨てられた金銅仏は後に信州に住む本田善光に拾われ信州に持ち帰ったのが善光寺の創建に繋がると伝えられている。

煮えきらない態度に終始する欽明天皇とその後天皇になった敏達・用明の二人の天皇も疫病が原因で死んでしまう。ここで天皇後継者をめぐって、曽我氏と物部氏との間は険悪となり武力衝突に進んでいった。この決着をつけたのは曽我馬子だった。(587)曽我氏の血を引く厩戸皇子(当時14歳・後の聖徳太子)、を始めとする奉仏派の豪族は物部氏一族を完全に滅ぼした。

我が国最初の本格的仏教寺院「法興寺」のちの飛鳥寺
仏を崇拝する曽我氏と仏を排仏しようとする物部氏との間に、両氏族の消長を賭けた争いが続き曽我氏の勝利に終わったこと、曽我氏が天皇の縁戚として軍事力を掌握した明かしとてして我が国最初の本格的仏教寺院が建立されたのが千四百年前の崇峻1(588)百済から寺工、露盤博士、瓦博士らの技術集団が渡来してここに我が国で始めての本格的な仏教寺院「法興寺」建設が始まった。寺院完成は推古4(596)完成の後蘇我氏の氏寺とされた。
建立当時この寺は「法興寺」「本元興寺」とよばれていた。

昭和三十一年(1956・57)の発掘調査で判明したところによると寺域は一つの塔を三つの金堂が囲む伽藍配置で、東西200m南北300mで現存する寺域の約二十倍もの壮麗な大寺院だったという。

国産第一号となった飛鳥大仏
法興寺の完成には8年の歳月を要したが、
始めて日本に伝来した仏像は、一つの光背で三尊をつつむ一光三尊形式で、現存する東京国立博物館の法隆寺宝物館にある「如来および両脇侍立像」であるとされているが、飛鳥寺にある「釈迦如来立像」には両脇侍がない。
これには、鎌倉時代・建久七年(1196)雷により甚大な被害を受け伽藍を消失したとされ、焼け崩れた伽藍から「釈迦如来」のみが鎮座した形のまま残された。現存する釈迦如来像は「右手と顔面の一部、露座」のみとなってしまい、釈迦如来の両脇に立つ侍立像は焼失したと考えられている。

私の見る限り石の台座に直径30センチほどの竪穴がある。想像するにこの竪穴こそ釈迦如来の両脇に立つ侍立像の固定した穴だと思われるのだが。

後年(江戸時代)になり釈迦如来を安置する本堂が建立されると共に、釈迦如来坐像もそれまで風雪雨の中に捨て置かれていたが、この時大補修が行われた。

写真で見ても分かるように仏のお顔には補修の痕も痛々しく残っている。
しかし、座して仏と対面する私は、総身創痍のお姿のなかにも堂々とした威厳を感じ、大きな衝撃を受けた。半眼を閉じ、瞑想する仏の表情には優しさがこもり、悩める者に語りかけて来るお声が聞こえるのではないかとさえ錯覚した。


写真はYAHOOフォトスライド下記アドレス

http://photos.yahoo.co.jp/bc/katujii_1/lst?.dir=/612a

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里山の四季・春・春蘭

里山の四季・春・子供たちには見せたくないね!恥ずかしい大人の行為(シュンランの盗掘)
2007年4月12日(木)晴れ

野山を歩いて、ほとんど目にすることがなくなった植物にシュンランがある。
私が山を歩き始めた昭和30年代には、シュンランは里山のいたるところに咲いていた。
昭和40年頃から人々の心に豊かさが広がるにつれて、テレビ局の番組の中で特に目を引いたのが「山野草の番組」だった。そして現在に至るまで山野草の番組は続き、野草ブームの犠牲となったのが、シュンランやカタクリ、サギソウなどである。

一ヶ月ほど前のこと、落ち葉に埋もれるように生えるシュンランの株を見付けた。落ち葉を掻き分けソオット覗いてみた。そこには、暖かい苞に包まれた小さな花芽をつけている。
私は辺りを伺った!!ある・ある!!4株のシュンランを数えた。

それから一月後、もう咲いてくれたろう。そう思いシュンランの咲く登山道脇場所を尋ねてみた。一月前に見つけた4株のシュンランは、二株を残し盗掘されていた。残ったものは樹木の陰に身を潜めるように咲く二株だけだった。

自然保護が叫ばれて久しい。自然にある植物を掘り起こし、失敬する大人の常識はあるのでしょうか。恥ずかしと思う気持ちはあるのでしょうか。このような行為を子供たちの目の前で行う勇気があるのでしょうか。
これらの行為をする大人達の大半は「出来心から、誰も見ていないのでちょっと失敬!!」とばかり持って帰ってしまう。豊かな生活の中の心の貧しさというのでしょうか。

昔から日本人の生活習慣にあった「花泥棒は罪にならない」の諺が今も生きているとは考えたくないのだが、山野草のブームを創作したマスコミにも責任の一旦はあるとは思うのだが。皆さんの御意見を伺いたいものだ。

写真説明
1)シュンランは何時までここで咲くのでしょう。

春の女神と春の妖精

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四季の山歩き・春・春の女神と春の妖精

四季の山歩き・春・春の女神と春の妖精
2007年4月9日(月)晴れ

今年になって二度目のマムシ谷へ降った。目的は春の妖精「カタクリ」の花にとまり、春の女神「ギフチョウ」が吸蜜する姿をゲットするため。

4月4日に降ったときには、強風と春の雪に見舞われギフチョウも姿を見せなかった。それでも谷にはカタクリの花も咲き始め、私の歩く足音に驚き、急いで枯葉に隠れるコツバメもゲットできた。

今日は朝から暖かな日差しの中、マムシ谷へ降ってきたが、期待したギフチョウの姿が見られない。日差しは暖かい。必ず姿を見せてくれるに違いない。

彼らは翅が濡れている間、じい〜っと翅の乾くのを待つ習慣がある。私は1時間ほどカタクリの花の撮影に専念した。気付くと私の周りを数頭の蝶が飛んでいる。思わず目を凝らし、目線で追いかける。小さな固体はとても素早い。後ろ翅の中心部に小さな赤い斑を確認した。「ギフチョウに間違いない!!」あとは根気良く自分の回りにとまるのを、ジックリ時間をかけて待つ。

写真のギフチョウとカタクリの花は、私が3年間追い続けた構図である。
カタクリの花の咲く時期と、ギフチョウの飛翔する時期がぴったり一致する幸運はどちらが欠けてもゲットできない。

3年前偶然マムシ谷へ降り、一面に咲くカタクリの花を見た瞬間からこの構図が頭から離れなかった。ギフチョウの餌になるカンアオイを見つけたことも幸運だった。「ひょっとするとギフチョウがいるかも知れない」その思いは益々強くなった。

昨年4月中旬マムシ谷で始めてギフチョウの飛翔を確認し、私の想像が的中していたことに大変驚いたし「うまくいけばゲットの可能性もある」この思いは益々強くなった。

そして今日、始めてギフチョウがカタクリの花から吸蜜する姿を写真に収めることに成功した。上手いとは思えないが、嬉しさから掲載する。

写真説明
1) カタクリから吸蜜するギフチョウ
2) マムシ谷のカタクリの花

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