かつ爺の「山の歳時記」

ゴミを拾いながら徒然に書いた山日記

四季の山歩き

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四季の山歩き・春・弥勒山

四季の山歩き・春・弥勒山に新しい滝を見つける
2007年2月26日(月)晴れ


昨日までの寒波も嘘のような一日だった。いつものようにグリンピア脇の登山者用駐車場から入山。途中春日井市在宅のゴルフ仲間Aさんと出会う。弟さんと弥勒の帰りだとか、最近ほとんどクラブを振らない私に「いちどやろうよ」と誘いを受け別れる。

冬から早春のこの季節出なければ、安心して分け入ることの出来ない沢歩きや藪漕ぎ。仲間のIさんと、以前から目を付けていた細い谷へ足を向ける。落ち葉を踏んで飛び石を渡り、落差7mほどの堰堤を左から大きく巻き堰堤の上に立つと正面に水量の乏しい三段の滝を見る。「ほぅッ・・まさかこんな所に三段の滝があるとは・・・・」。

実は、この三段の滝を詰めること僅か10m弱で、林道の下に突き当たってしまうのだ。意外や意外自分の知らない身近に隠れた自然が残っていようとは。

写真は身近に隠れていた三段の滝(弥勒山にて)

残雪の二つ森山

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四季の山歩き・春・二つ森山(1223m)

四季の山歩き・春・残雪の東濃の山(二つ森山・1223m)
2007年2月24日(土)快晴


二つ森山は、名前の如く二つの峯からなる双耳峰。山頂からの展望は、御嶽山を始めとして、中央アルプス、南アルプス、恵那山と、百名山に名前を連ねる高峰を惜しげもなく展開する展望の山でもある。特に白銀に輝くアルプスの展望を見れば、自宅からのアプローチは遠いものの、急登あり、アップダウンありと山歩きの楽しさを実感して余りある。

自宅を8時に出発、途中仲間との合流、川辺町の道の駅で小休止をし二つ森山登山口切越峠へ着いたのは午前10時を少々過ぎていた。

10:20分切越峠から入山、植林された檜は、細い根を地面からむき出して絡み合っている。その林を急登。登山靴の底ゴムと剥き出しの木の根は、固い氷と同じで、水と油の相対関係よろしく実に良く滑る。少し油断をするものなら、たちまち手痛いシッペ返しを食らうことになる。
実際帰りに、二人の仲間が木の根に乗って尻餅を突いた。

檜と雑木林の入り混じった尾根をひたすら登った。登攀中はほとんど展望は利かない。時々振り返って見る木々の間から、透かして見える御岳の白い輝きが意外に間近いのに驚く。

こうもり岩分岐を11時45分通過、往復約1時間の距離にある蝙蝠の住む洞窟も最近めっきり数が減ったと云う。(地元の人の話)

こうもり岩分岐から最後の急登が始まる。登山道には踏み固められた雪が僅かに残るものの、東濃の山にも春の気配が確実に訪れていた。

二つ森山の山頂は巨大な岩のテラスで出来ている。東南面はスッパッと切れ落ちた絶壁で、遠く下方に中津川市街地を望み背面に恵那山が聳え立っている。「ここから見る恵那山は立派だね」とYさん。

我々がいつも歩く弥勒山の先に名古屋市外のビル群が見えたのには驚きだった。この意外性にしばらく仲間たちの話題が続いた。

南アルプスの白銀も意外に近く、中央アルプスも屏風の如く山系を連ねていた。
「あれが塩見だね」、「北岳はどれだろう」「木曽駒から右に宝剣も見えるね」。仲間たちと展望の素晴らしさに満足し13時5分駐車場を目指し下山した。

切越峠10:20→第一ベンチ10:40 10:45→第二展望台11:05 11:15→コウモリ岩分岐11:45→二つ森山12:05 13:05→切越峠14:20

写真説明
1) 山頂から恵那山
2) 山頂から南アルプス
3) 山頂から中央アルプス
4) 山頂から御岳山

昭和の円空仏に出会う

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四季の山歩き・春・多治見市廿原の里「大龍禅寺」


四季の山歩き・春・昭和の円空作??の仏像に出会う
2007年2月12日(月)快晴


岐阜県多治見市廿原の里に大龍禅寺がある。その寺には、昭和五十九年八十八歳で亡くなった十八世麒山忠麟和尚の彫った仏像が寺を訪れる参詣者に展示されている。

日差しの暖かな連休最後の日は、弥勒山山頂に集まった仲間たちも数えてみると13名にもなった。誰からともなく『大龍寺へ出掛けよう』と話もまとまり、久しぶりに岐阜県多治見市廿原への道を下った。途中、カンアオイの花芽を覗いたり、ツルリンドウの赤い実が残る群生を覗いたりと我々高齢者登山隊は長い隊列を作り、静かな山里を大龍禅寺へ向かった。

冒頭にも書いたように、大龍禅寺の和尚が、長期の病から立ち直り昭和四十一年四国八十八寺を二度目の巡礼をした後、発願し、仏の加護を信じ、十三年間に渡り日夜鑿を振るい八百体余りの仏像を彫り上げたと云う。その後NHKテレビの電波に乗り、全国から仏像を譲り受けたいとの申し込みが殺到したと云う。現在寺に保管されている仏像は約3百体とのことである。(多治見市観光協会調べ)
拝観した仏像は、和尚の人柄のなせる業かどの顔も柔和な笑みをたたえていた。

十三年間に渡り八百体余りの仏像を精魂こめて彫続けた作品だが、帰宅してネット検索をしてこれまた驚きだった。まったく見当たらないのだ。このブログを見た皆さんの中で興味をもたれた方はぜひ訪れて欲しい。東濃の静かな片田舎に埋もれる寺は、きっと皆さんの心を癒してくれることであろう。

一部多治見市観光協会の御協力を経て文章を作成した。

写真説明
1) 弥勒山麓の村に向かう仲間たち
2) 大龍寺全景
3) 神明山・大龍禅寺の瓦
4) 十八世麒山忠麟和尚の残した仏像
5) 上に同じ
6) 上に同じ
7) 上に同じ
8) 寺内にあった石仏

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四季の山歩き・冬・暖冬の御在所岳

四季の山歩き・冬・御在所岳・中道登山道を歩く
2007年1月30日(水)快晴

まだ一月だと云うのに、春を思わせる暖かな陽気に包まれた御在所山頂だった。
積雪も例年の半分以下、山頂のあちらこちらでは黒い土も露出していた。
アカヤシオやベニドウランツツジの花芽も大きく膨らみ、春の足音はそこまで来ているようだ。

10時20分閉鎖されている鈴鹿スカイラインゲート前を出発した。行き交う車もない広い道路を中道登山口へ向かう。車なら僅か2分少々を、40分かけて11時中道登山口から入山した。見上げる空の高みには、紺碧の空を背景に赤いゴンドラがゆっくり動いていた。例年1月下旬の鈴鹿では登山口付近から積雪を見る。勿論アイゼン着用は当然のことだが、今年は何と黒い土を踏んでの登攀となった。

中道登山道は、いきなりの急登から始まる。御在所岳特有の花崗岩砂礫の溝道をひたすら登る。雑木の樹林が突然なくなると、目の前が急に明るくなり巨大な花崗岩の累積する台地に着いた。この岩上からの展望は最大級の賛辞を送っても余りある。鎌ヶ岳の鋭い三角錐が天突く。ゴンドラの赤い箱が点々と繋がり山頂へ向かっている。四日市市の石油コンビナート、名古屋港から遠く伊勢湾まで、対岸の知多半島は霞の中に煙る。我々はここで小休止をした。

中道登山道は、自然石が長年の風雨にさらされて出来た岩の造詣の多い事でも良く知られている。三段に積み重なった台座に立つ「地蔵岩」遠くから見れば袈裟を着た地蔵尊が直立しているように見える。他にも長方形の二枚の岩が重なり合って天を突く「負レ岩(おばれいわ)」を見上げ感嘆の声を上げる。

12時10分キレット着、標高920mのキレットまでは残雪程度、労せずして、アイゼンも使わずここまで登ってきた私だが、このように積雪期である1月・2月に早春を体験したことは今まで経験がない。驚きの異常気象である。

12時20分キレットをクサリで下降する。いよいよ鞍部から山頂へ向けて、標高差290mの本格的な急登が始まる。この登山道は鈴鹿山脈を日本中に知らしめた「藤内壁」を上部から俯瞰する登山道でもある。
鞍部からおよそ20分、岩上の平坦地でアイゼンを着用する。

ここで御在所岳中道ルートの概要を記して置く。
中道ルートは御在所岳東山頂(ロープウエー駅)から東面に派生する一本の支稜線尾根に過ぎないが、歩いてみて満足のいくコースである。山頂から山麓への距離も他のルートに比較して極端に短いが、半面急峻な登攀を強いられる。そしてこの尾根の特徴でもある先にも記した、藤内壁を北面に落としているのである。眼下に藤内壁を登攀するクライマーの掛け声や姿さえ見るのもこの尾根の特徴である。
展望も素晴らしい。北面に国見尾根その先に釈迦が岳を見、南面には深く切れ込む本谷をへだて三角錐の鎌ヶ岳が天を突く。東面振り返れば、四日市市の石油コンビナート、伊勢湾のかなたには名古屋市街地が広がり、青空のかなたに中ア・御岳の姿も見られる。
今日も、我々が登攀するあいだ、振り返れば必ず積雪の御岳を望むことが出来た。

アイゼンの爪が硬い雪面に食い込む音になれた頃、巨大な岩を抜けると支陵の北面に出る。夏場は岩を伝う水に絶えず濡れているが、冬の季節は青い氷に覆われる。クサリとフイクションロープの助けを借りて、藤内壁上部の悪場をトラバース気味に通過した。後は体力に物を言わせ木の根や岩角を掴みながらしゃにむに体を持ち上げ13時35分御在所岳山上公園の一角にある富士見台の岩上に立った。

帰路は、国見峠から裏道コースを経由しスカイライン冬季ゲート脇に駐車した車へ戻った。


コースタイム
鈴鹿スカイライン冬季ゲート 10:20
中道登山口 11:00
キレット  12:10 12:20
藤内壁上部(アイゼン着用)12:40 12:55
富士見台  13:35 13:40
御在所岳(旭陽台)13:50 14:40
国見峠   14:50
藤内壁出合 (アイゼン脱着)15:25
藤内小屋  15:48
日向小屋  16:05 16:17
裏道登山口 16:30
スカイライン冬季ゲート 16:40

写真説明
1) 地蔵岩
2) 御在所岳山頂とスキー場
3) 山頂からイブネ遠望

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四季の山歩き・冬・八鬼山(628m)

四季の山歩き・冬・熊野古道九木峠(くきとうげ)から八鬼山越え
2007年1月20日(土)曇り


♪♪ままになるなら あの八鬼山を 鍬でならして 通わせる♪♪
民謡「尾鷲節」の一節である。
矢浜村(やのはまむら)に住む十八歳の大工見習い喜久八と、三木里村(みきさとむら)の十七歳の庄屋の娘お柳の悲恋を唄った尾鷲節の一節が書かれた碑の前が、これから向かう八鬼山越えの出発点でもある。地図で調べてみると、碑の立てられている地点が昔の矢浜村で現在でもその地名は残っている。

私たちグループ53名は、ここで四班に別れ熊野古道伊勢路の難所「八鬼山越え」に向かった。9時50分。

道案内をお願いした「語り部」氏の話では、熊野古道伊勢路は、平安時代の頃より参詣道として使われていたが、後に中辺路が正式なルートになったことから衰退したと云う。しかし、まったく消滅し使われなくなった訳でもなかった。聖や行者あるいは海路を使っての参拝など、細々と少数の人によって伊勢路は保たれてきた。

伊勢路が参詣道として再び活況を作り出したのは、正式ルートとして独占していた「聖護院系」の山伏の力が失われ始めたことと、室町時代に入り民衆の伊勢神宮参拝熱の高まりから熊野三山詣(蟻の熊野詣)でと、伊勢神宮参拝を兼ねた大衆の大移動が復活への大きな原動力になっていった。

大衆の大移動が始まったことによって、年間降雨量4000ミリを越す豪雨で道路の決壊や土砂崩れによる崩壊は旅をする人たちに大きな犠牲を負わせた。このような事情から伊勢路の道は石畳の街道が作られたと云う。

一般的に、現存する石畳で有名な木曽路などと比較すると、平面に敷き詰めた技法とは明らかに違う。自然石を巧みに組み合わせ、歩幅にあわせ少しずつ勾配を作ってゆく構造には、足に優しい心配りがされている。そして石畳の積層は最大で約三段ないし四段にも重ねられ、雨量の多い南紀にあって、滝の如く流れ下る水量を積層した岩の間へ巧みに浸透させる構造は、豪雨による石畳の崩壊を防いでいたのである。

私たちは、八鬼山への緩やかな道を歩いた。この付近の石畳は昨年12月に歩いた馬越峠越えの石畳とは趣も違う。まばらに点在するぐり石の道だった。

突然林の中に時ならぬ紅葉を見る。赤色があり、黄色もある。青色もあり、白色もある。
近付くにしたがって、紅葉だと見間違えた色彩の氾濫は、地権者による世界遺産への反対スローガンだと分かった。

歩道の左右50mの森林伐採を禁じ、木材搬出にも古道の使用は禁止されていると云うのだが地権者への保障など、国の対応はどのようになっているのであろうか。
語り部氏の歯切れの悪い説明から想像するに、現存する熊野古道伊勢路はかっての土地開発ブームからも取り残された僻地であり、すでに忘れられていた過去の遺産であって石畳も深く土に埋まっていたと云う。

市街地に近い街道などは、開発の名の下にブルトーザーでズタズタに削り取られてしまったり、「石畳では車の通行に不便をきたす」を理由にコンクリート舗装の下に埋没されてしまった。
いまさら眠っている僻地の石畳を掘り起こし、市民の財産を守る立場にある行政及び執政者がなりふりかまわず、しゃにむに世界遺産への登録を急ぎ市民の利益の犠牲の上にあったとしたら、地権者の怒りも当然だと理解できる。

失政が反対を生み、世界遺産の名に恥ずかしいペンキのスローガンの落書きが、古道を歩く私たちに不快感を与えていることを執政を執り行っている者たちは御存じないのかもしれない。この反対スローガンは三木里海岸まで続いていた。

古道の石畳は、麓茶屋跡、駕籠立場の遺跡を通る。その間に、旅人の供養碑もあった。説明板を見ると八鬼山の急登で、病を発し病死し、地元の負担で葬儀、仮埋葬、初七日を行ったと書かれていたが誤りであると思う。地元の負担とは、山賊に身ぐるみ略奪されなお且つ殺されてしまった旅人であったと思う。なぜならば、旅に出る場合には宿泊費など一切の費用を持ち歩いていたのであって、病気で亡くなった旅人の場合には懐に路銀を持って歩いていたからだ。

戦国時代の永禄年間伊勢神宮の遷宮も滞り、荒廃を続けていた神宮を新しく建て替えた清順上人供養碑がある。ここを過ぎると、「鍬でならして通わせる」の歌にもある八鬼山越えの急登が始まる。足に優しい石畳も、七曲の急登は優しい石畳とはとても思われなかった。果たして当時の旅人は駕籠や馬を使ったのだろうか。この疑問は八鬼山山頂から三木里海岸への下り道で益々強く感じた。

九木峠、11時55分。小休止、峠から真下に下ると九鬼集落への道を分ける。我々は右折、緩やかな登りが続き荒神堂と廃屋がある。廃屋はかっての茶屋跡と云い、以前は老婆が一人住んでいたそうだ。テレビアンテナが屋根にあることから最近まで人の棲家であつたに違いない。語り部氏の話を聞くと、「荒神堂には修験者が住み、街道を通る旅人の警護に当たっていたと云う」付近には小さな墓石が幾つか認められる。荒神堂に住処を持っていた修験者のものであろうか。私は合唱しこの場を離れた。

荒神堂から一投足で、三木峠へ着いた。案内板には右折明治の道とある。我々は江戸の道を歩いた。分岐から20mも歩いたであろうか、語り部氏の説明では街道から僅かな高みが八鬼山だと云うが標識もなくウッカリすればその先にある展望広場が八鬼山山頂と信じる登山者もいることだろう。

展望広場(さくらの森エリア)着12時30分。熊野灘が眼下に広がっていたが、生憎の曇り空の下今にも降りそうな空を見上げ、ゆっくり展望を楽しむ余裕はなかった。

14時10分展望広場を後に、三木里海岸への下山を開始。八鬼山越えの江戸道は「上がり50町、下り三十八町」(一町は約110m)といわれるように、三木海岸への下りは段差も大きくフイクションロープを頼りの下降を強いられた。
この道が古来からの巡礼道であるならば、我々登山者が歩く登山道と代わりはなく二本の足と手によって上り下りをする以外にはとても乗り物を使うことは出来なかったに違いない。この急登は(下降は)十五朗茶屋跡を過ぎ明治の道合流点付近まで続いた。

細い流れを丸木橋で渡り林道へ合流する。程なく名柄一里塚、小休止の後14時20分三木里の古い民家の立ち並ぶ部落を通り三木里海岸へ着いたのは14時30分を過ぎていた。

三木里町は行頭に紹介した、尾鷲節の♪♪ままになるなら あの八鬼山を 鍬でならして 通わせる♪♪三木里村である。以下に尾鷲市役所広報係から連絡いただいた尾鷲節で歌われている悲恋物語を記録しておく。

先日は当市を訪れていただき、ありがとうございました。
 さて、ご質問のありました「尾鷲節の中に秘められた悲恋物語の解説」についてですが、つたないものですが、ご説明申し上げます。


この悲恋の物語は、今から百数十年前の話とされています。

八鬼山は、熊野街道のなかでも一番の難所といわれた険しい山でした。その八鬼山を挟んで、北に矢浜(はのはま)村、南に三木里(みきさと)村がありました。ある時、三木里村で、貴船神社の普請を行うこととなりました。

当時、八鬼山から南の地域の神社は、熊野三山の勢力下にありました。そのため神社の普請は、新宮の宮大工に頼むことがしきたりでした。しかし矢浜村には腕が良い宮大工、高芝佐衛門之丞(たかしばさえもんのじょう)がおりました。そこで三木里村の庄屋は、これまでしきたりを破って、高芝佐衛門之丞に頼むこととしました。

こうして高芝棟梁は、十人の弟子を連れて、八鬼山を越えて三木里村にやってきました。そして、三木里村がしきたりを破ってまで頼んでくれた仕事だけに、毎朝、冷水で身を清め、精魂こめて仕事に励みました。

ところがそんな中、弟子の1人である喜久八(きくはち)が、普請の仕事を頼んでくれた三木里村の庄屋の娘、お柳(りゅう)と恋仲になってしまいました。喜久八はまだ修行中の身で18歳、お柳は17歳でした。修行中の色恋はご法度であり、まして神聖な宮普請のあいだのことです。それなのに2人は、棟梁や兄弟子の眼をかすめては、あいびきを重ねました。

しかし、あと1カ月で宮普請が完成するというある晩のことでした。喜久八があいびきから大工小屋に帰ってくると、そこには激怒した棟梁が待っていました。

「大事な宮普請だから、みんな女房とも別居して身を清めて務めているのに、お前はなにをしている!しかもよりにもよって、わしらを見こ込んで声をかけてくださった庄屋さまの娘に手を出すとは!!」

事の重大さを知った喜久八は真っ青になり、手をついてわび続けました。しかし棟梁は許さず、けじめとして喜久八の左手の小指を切り落とし、庄屋のもとへ行って、弟子の不義理をわびました。

翌朝、喜久八は大工小屋を追い出され、1人で八鬼山を越えて矢浜村へ帰ることになりました。棟梁は、去っていく喜久八の後姿を見送りながら、険しい八鬼山を見すえ、「ままになるならあの八鬼山を鍬(くわ)でならして通わせる」と歌ったそうです。

この歌の意味は、「もしも思い通り自由になるのなら、あの険しい八鬼山を鍬で平にならして2人を通わせ、添いとげさせるものを」というもので、喜久八に厳しいけじめをつけさせた棟梁の、2人を思った本心が込められた歌です。険しい八鬼山のように自由にならないこの世の義理によって引きさかれた恋を嘆き悲しんだ歌として、今日まで尾鷲節のなかで歌いつがれています。

八鬼山越え写真説明
1) 世界遺産に指定された石畳
2) 八鬼山を目指す登山者
3) 急峻な山中で亡くなった旅人を供養する巡礼碑
4) 巡礼碑の説明を受ける仲間たち
5) ボタンの掛け違い(ペンキのスローガン)
6) 七曲の急登を登る
7) 一町ごとに置かれているお地蔵さん(町石)
8) 展望広場からの熊野灘展望
9) 展望広場から九鬼町展望(九鬼水軍)の村


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