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四季の山歩き・秋・弥勒山 四季の山歩き・弥勒山 立冬にあわせて木枯らし一番 2006年11月7日(火)雲一時にわか雨・午後晴れ ※1立冬と書いて(りっとう)と読む。新暦の11月7日は暦の上で立冬、この日は旧暦9月17日に当たりまだまだ冬の気配は一ヶ月以上先のこと。里への紅葉前線もまだ到達していない。 処が、今朝から日本列島は低気圧の通過と共に北西の風が強くなり、寒冷前線が南下し一時的ではあるが冬型の気圧配置となった。これで紅葉前線も一気に南下を始めるであろう。 午後3日ぶりの弥勒山を歩いてきた。山頂までの最短コースで挨拶を交わした登山者は五人、弥勒山へのメインルートもこの日は殆ど人に会うことがなかった。 山頂休憩舎から逆光に白く輝く名古屋港、鈴鹿の山、多度の山、伊吹山と久しぶりの展望に満足、強風に追い立てられるように山を下った。 ※1) 冬の気立ち初めていよいよ冷ゆれば也(暦便覧) この日から立春の前日までが冬。日は短くなり時雨が降る季節。 写真説明 1) 弥勒山から西方の展望(白く輝くのが名古屋港)
四季の山歩き・ヤマガラ 四季の山歩き・秋・仲間たちのアイドル「ヤマガラ」 野生でも人になつくと言われているヤマガラ、今では登山者のアイドル的存在になった。 一昨年、ふとした機会でこの山に住むヤマガラを見た登山者の一人が(この人の名前を仮にHさんとしておこう)、殆ど毎日ピーナッツを持って山へ登ってくると所定の位置に置いてやる。Hさんとヤマガラの気の長くなるような、根気比べがこの日から始まった。 初めのころは警戒し高い梢にとまっていたヤマガラも、少しづつ近くへ来てはHさんの帰るのを待つようになった。帰る振りをして遠くからうかがうと餌場に決めてある場所へ素早くきては口に咥えて飛び去ってゆく。 今年になって、Hさんが近くにいても隙をうかがい何度も何度も繰り返しピーナッツを運ぶようになった。 時々、Hさんが意地悪をして、餌場に餌を置かない日があった。ヤマガラは梢から梢を飛び回り、しきりとジージー鳴き声を発て、しきりと餌をせがむ振りをする。Hさんとやまガラのコミニュケーションが完全に一致した瞬間だった。 夏も終わりに近付いたある日のことだった。その日はHさんは山へ登ってこなかった。私を含め数人の仲間たちが展望の利くベンチに腰を下ろし弁当を食べていた。その時梢の上でヤマガラの鳴き声がした。「今日はHさんが来ていないから餌はないよ」と誰かが言い「煎餅の中にピーナッツがあるからこれでもやったら」と一人の仲間が煎餅をつぶしピーナッツを餌場に置いた。 すると梢に来てないていたヤマガラは、ピーナッツをめがけて飛んできた。 それがきっかけとなって、Hさん以外の誰彼となくピーナッツを所定の位置へ置いてやると次々と運んでゆく。まだ警戒心は持っているようだが、カメラを構えるレンズの先0.5mぐらいまで近付いて素早くピーナッツを咥えると一目散に自分の巣へ飛んでゆく。 Hさんの話では、餌を食べにくるヤマガラは4羽、夫婦なのか兄妹なのかは判らない。 いつかは手から餌を食べるようになることだろう。 写真説明 1)餌を咥えて巣へ運ぶヤマガラ 2)餌場にきたヤマガラ/font>
四季の山歩き・鳩吹山 四季の山歩き・鳩吹山 2006年10月26日(木)快晴 真禅寺駐車場から西山登山口へ向かう。陽だまりでは盛んにキチョウがアキノノゲシの間を飛び回っている。登山口から、急な階段を登り西山から派生する尾根に取り付く。鳩吹山山系の地質の特徴でもある、泥岩の堆積した古生層の急登をおよそ15分、西山と鳩吹山の分岐に着いた。右折し鳩吹山へ向かう。足元には赤紫色のママコナ(飯子菜)が見られる。 ママコナの語源は、唇形の長い花弁の奥(喉)に米粒を2個並べたような隆起を持つからとか、継母が継子にご飯を食べさせないため、継子が盗み食いをしたとかの説がある。 昨年までは、コウヤボウキも群生していたが、今年は刈り取られてしまったか花は僅かに咲いている程度。 今月始めに初冠雪を確認した御嶽山の雪はこのところの暖かさで溶けてしまったのか雪は確認できなかった。 平日でもあり登山道で出会う人も殆ど顔馴染み、注意書の配布は無かった。 写真説明 1)鳩吹山から恵那山 2)鳩吹山から御嶽山
四季の山歩き・秋・同行二人、遍路の旅 四季の山歩き・秋 四国遍路・駆け歩き 2006年10月24日(火) 10月24日四国遍路をかいま歩いてきた。歩くと言ってもバスでの移動、寺から寺の山門前までの移動だけのこと、歩く距離から考えれば毎度歩く山歩きの1/100にも満たない距離なのだが、正直疲れた。 乳白色の空の色をそのまま写した鳴門海峡、白い波頭を立てているのは鳴門の渦潮だと説明を受けたが、想像したほどにスケールが小さかった。そのうず潮の上を大鳴門橋の太い鋼鉄のワイヤーが美しい曲線を描き4キロに及ぶ長大な橋を吊り下げている。日本が誇る橋梁技術の優秀さをまざまざと見せ付けられた。 対岸の徳島県がぐんぐん迫る。小高い丘の上に、小さく岡崎城も見える。かっては四国の玄関口とされた撫養港(むやこう)はどの辺りか、中京や関西方面からのお遍路もこの港から四国の第一歩を印したに違いない。私たちは、現代の武器で何の苦労もなく四国の地を踏んだ。 四国八十八箇所遍路の旅とは、空海上人が修行した八十八の霊場を順次尋ねめぐる旅を「お遍路」と言う。近年旅ブームの人気の凄さは並みの域をはるかに抜け出している。道も無いような秘境への温泉の旅とか、地底への旅、南極大陸や北極圏への旅、究極は月旅行である。これらは旅ではなく生死をかけた冒険である。 この生死をかけた冒険の旅がすでに平安時代にあった。国語辞典で【遍路】を検索すると祈願のため四国の弘法大師の修行した八十八個所の霊場を巡り歩くこと、またその人、巡礼。とあり【遍路の起源】で検索してみると「今昔物語集」と「梁塵秘抄」に「仏の道を行ける僧」「四国の辺地」「海辺の廻地」「海辺の辺地」などの部分を認める。 これらの史料から、すでに平安時代の末期には四国の海辺を巡礼する道があり、修行僧らしき人々が何らかの目的を持って長期間歩いていたことが伺える。 四国巡礼の遍路の旅を垣間見て思ったことだが、一番札所霊山寺には、これから巡礼に向かう、お遍路さんの「遍路グッス」が売られていた。つまりお遍路さんの正装と言うべきか。 このグッスの中で最も重要なものが、白木で作られた金剛杖。この杖を持ち杖を突き巡礼の旅をすることにより、弘法大師の分身と共に旅をすることになる。つまり「同行二人」である。 私たちと同行した先達氏の話では、杖の減り具合でこの巡礼の苦労がわかったと言う。 八十八箇所巡礼の旅は、1450キロ(362里)現在でも距離だけは昔のままである。この362里は、東京を基点にして、鹿児島あたりまで。ほぼ日本の半分を歩くのである。並みの覚悟ではとても難しい、生死を賭けた旅と考えても過言ではなかろう。 次に白装束(白衣)。白衣の背中には「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)という八文字が墨筆太く書かれている。先達氏の説明によると、「南無大師遍照金剛を唱えながら寺を回れば必ず大師の加護がある」と説明していた。また、「彼岸の旅に出るときにはこの白衣を着せかける」とも。こうしてみると、八十八個所巡礼の旅は死出(彼岸)への旅に他ならなかった。 私は、こうしてバスによる八十八個所の巡礼の旅の内わずか、六寺を巡ったのだが、彼岸への旅は敬遠するものの、バスの旅の何と味気ないことか。昔からの遍路街道を歩きながら、四国の人たちがお遍路さんに接する優しさにも出会うことがなかった。お遍路さんを「接待」する気持ち、これは、遠く昔から四国に住む人たちの遺伝子として今に繋がっているのだろう。 話は横道に逸れるが、私の山仲間でYさんが居る。このYさんが、今年2月四国八十八箇所巡礼の旅を37日間通しで歩き続けた。彼の話を聞く機会があって、お遍路の旅の幾つかの話を伺ったことがあったが、一番心に残ったことは「お接待」と言われる慈悲の心だったそうだ。歩いていると突然呼び止められ「お接待です」とお金や食べ物などの接待を受けたという。「この接待は、お年寄りから若い人まで男女に差はまったくなかった。お四国の人すべてと言っても良い」と彼は話した。そして、彼は「お四国」といゆう敬語を使って話している。私は「お四国とは・・・」と質問した。「別に意味はないが、敬語を付けたくなるような、四国の人はとても親切だった」と、感激して言う。 【物を施す】を国語辞典で検索すると、「恵み与える」と書かれている。また、【接待】では「人をもてなすこと・人に金品を施すこと・馳走すること・昔、往来の人に茶を施したこと」と書かれている。 四国の人達が、お遍路さんを遍路と呼ばず、敬称を付けて呼ぶ意味も、優しさだけではなく、「あの世の・彼岸の」人と考え「聖」として厚い持て成しをする意味があるのではないか、そこが「恵み与える」のではなく「お接待」として現世の自分達が接すること、と解釈すると自ずから理解できる。 私が四国の地に居たのは、僅か四時間ほどだった。全体像はまったくつかめない。もし今後八十八個所の旅をするとしたら、いや!!すべてを歩けなかったとしても、やはり歩いて遺伝子に接してみたいと心から思った。 写真説明 1)一番札所 霊山寺山門 2)霊山寺本堂 3)本堂天井画 4)弘法大師を祭る大師堂
四季の山歩き・倶留尊山(くろそやま)(1038m) 四季の山歩き・倶留尊山 2006年10月21日(土)曇りのち晴れ 秋たけなわの土曜日、行楽の家族連れで賑わう奈良県曾爾村と三重県美杉村の県境稜線にある倶留尊山を歩いてきた。 倶留尊山の標高690m付近一帯は青年自然の家を中心とした曾爾高原(そにこうげん)で、お亀池の湿原や、笹とススキの原が広がり若者から家族連れ、青少年自然の家を利用する学童たちで賑わっていた。近頃の傾向として、各地の山は中高齢の登山者が一般的で若い人の姿は概して少ない傾向にある。処が、ここ曾爾高原一帯では、若い男女の姿が実に多い。 嬉しい限りだ。 若い人たちの人気の秘密は、関西から比較的簡単にこられるアクセスの良さ、一帯が※1)室生火山群で、火山地帯特有の、複雑な地形、湖・沼などを作りそれらがうまく調和した景観を作っていることなどである。 人気の秘密の一端を見たのは、ススキの原一帯で三脚をつけた若者から老人までおよそ100人ほどのカメラマンで賑わいを見せていたことだ。これは、上高地の河童橋以上の数である。 今回の倶留尊山登山は、登山案内書にある「くろそ山荘」の少し先の駐車可能地(標高620m)を出発点とした。9時10分準備体操の後亀山峠へ向けて出発。3ピッチ(1ピッチ75m)で林道と別れ深い杉の植林帯に入る。古くから伊勢神宮参拝の旅人に利用された、奈良の曾爾村と伊勢の美杉村を結ぶ石畳の街道は、平成の今も尚登山者や自然歩道を歩くハイカーたちに受け継がれている。 深い杉林の山腹をジグザグに登る。道端に咲く「ツリフネソウ」「ヨメナ」「ゲンノショウコウ」「ミズヒキ」などに立ち止まりシャッターを切る。歩き始めて30分突然目の前が明るくなり、県境稜線に休む大勢の登山者の中へ飛び出した。目の下に広がるパノラマに目を見張る。ススキの原、青年自然の家の赤い屋根、国見山、墨塚山、兜岳、鎧岳の室生火山群が黝い稜線を広げていた。 小休止の後、稜線を右へ進む。標高差140mの二本ボソ(996m)への急登が始まる。時々小学生が元気に追い越してゆく。観光地化された曾爾高原、若者の姿の多いことに嬉しく思う反面ペットボトル、ビール缶、お菓子の包みと塵の多いのにはいささか吃驚、マナーの悪さと人の多さは比例するのだろう悲しいことだ。稜線は「スズカアザミ」「コウヤボウキ」「リュウノウギク」がとくに目立った。 二本ボソで、入山料を払う。民間所有の倶留尊山、登山道整備を兼ねた500円の入山料は、高いと思う人もいると思うのだが、気持ちよく歩くためには致し方ないだろう。不思議と有料区間では、ペットボトルや空き缶も目立たずハイカーの姿もぐんと減った。 ニホンボソから一旦標高差40mを下り、最後の倶留尊山山頂への急登が始まる。何箇所かにつけられたフイクションロープを掴み一気に高度を稼ぐ。料金所から約30分1038m山頂へはあっけなく着いてしまった。 ※ 1)室生火山群は、地質時代第三紀末頃(6500〜2400万年前)の火山活動により、東西25km、南北16kmにわたり複数の噴出口をもつ。死火山となって河川や雨水による侵食を受けて現在のような地形となった。特徴としては、随所で柱状節理や板状節理の壮観な断崖に見られること。 コースタイムと(歩行距離)(1/25000国土地理院地形図参考) 自宅10月21日 午前5:40→春日井市合流地点5:55→高速・勝川〜亀山経由美杉村登山口着8:50 発9:10→亀山峠着9:40 発9:55(1275m)→二本ボソ着10:20(900m)→倶留尊山着10:50 発11:30(825m)→二本ボソ着11:45 発12:00(825m)→亀山峠着12:20 発13:00(900m)→亀山経由曾爾高原売店着13:36 発13:40(1050m)→青年自然の家着14:05 発14:25(975m)→亀山峠着14:45 発14:50(900m)→登山口駐車場着15:10 発15:30(1275m)→自宅着18:50 写真説明 1)二本ボソから倶留尊山 2)稜線の銃走路 3)銃走路から見た中央ピラミットは亀山後方に古光山(こごやま) 4)曾爾高原から左・後古光山と右・古光山 5)池の平から倶留尊山
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