|
愛知県尾張地方に伝わる山姥の話
愛知県犬山市に本宮山という名の山があります。隣接する尾張富士とは山の高さを争ったことで県内では良く知られています。その本宮山の山麓にある村に昔から伝えられている山姥伝説についてお話しましょう。
山姥の話は、口伝で伝えられて来た(文字として残っていない)ことによる弊害と言いますか、数多くの山姥伝説が語り残されていますが、その話もすべて梶原景時の子孫で終わっています。
この物語は下記の順序で物語を書き進めて行きたいと思います。
1)源平の合戦で活躍した梶原景時と子孫
2)子孫が尾張に落ちついた理由
3)山姥の話
4)その後の梶原一族
5)その他に語り継がれている山姥の話
その一)梶原景時と源頼朝の関係
平清盛は、平治の乱での目覚ましい勲功により乱から僅か八年で、十一位、太政大臣という最高の位に昇った。同時に一族の多くの者たちも高位高官に就き、武力をもって専横に振る舞うものも少なくなかった。大納言・平時忠などは、「此の一門にあらざむ人は皆人非人なるべし」と高言しはばからなかったほどである。
この横暴さに見かね、治承四年(1180)後白河法皇が全国の武家に発した平家討伐の院宣により、それまで清盛から伊豆に幽閉されていた平治の乱の敗者源義朝の長男頼朝が院宣を受けて平家追討の白旗を伊豆で立上げた。
治承四年(1180)石橋山の合戦で梶原景時は、平家軍の大将大庭景親に属し合戦に参加した。戦いは平家軍の圧勝となり源頼朝は僅か10騎の家来と伊豆へ落ちていった。
平家の大将大庭景親は、逃げる頼朝を追討する兵を出し頼朝を追わせた。その追手の中に梶原景時がいた。頼朝以下10騎は伊豆の”トビ岩”と呼ばれる山峡に逃れ追っ手をやり過ごそうとしたが、探索をしていた景時に見付けられてしまう。
その時梶原景時の機転が頼朝を救い、平家滅亡・鎌倉幕府樹立へと時代が動いて行くとは当の景時も夢にも思わなかったことだろ。そして、将来自分が頼朝の騎下に名を連ね鎌倉幕府の有力御家人として各地に領土を持つことも・・・。
梶原景時はその後平家を見捨て源氏に走る。当治の武家社会においては主君への裏切りは、日常茶飯事で武士の掟が確立された時代はずっと後の江戸時代になってからのことだった。梶原景時が平家を裏切り源氏に味方したのは、背景がわからないからコメントできないが武門派の景時にすれば、平清盛の孫維盛までが、(24才のとき)、従二位右近衛の中将になったことに我慢がならなかったことも一因ではなかろうか。
梶原景時は源頼朝の家臣になり、頼朝の信任も厚かった。
平家滅亡の後、源頼朝は鎌倉で武家社会の棟梁を宣言し、鎌倉幕府を樹立した。梶原景時も鎌倉幕府初期の有力御家人に列記された。
写真説明
1)伊豆に逃れた頼朝主従・切手「岩窟の頼朝」
=続く=
|