かつ爺の「山の歳時記」

ゴミを拾いながら徒然に書いた山日記

山仲間が書いた随筆

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ふゆのさくら(12)

ふゆのさくら(12)

展示館入り口の銀杏は、初めて小原村を訪れた日と同じように、染み入るほど鮮やかだった。銀杏の落ち葉で舗道はさながら黄色い海だった。鮮やか過ぎる黄色の海が、詩乃の喪失感をいっそう深くした。

見て欲しい
搾りきった
いのちの輝きを

入り口のボードにポスターが貼ってあった。

受付では、友禅染の着物を着た女性が、さわやかな笑顔を振り撒いていた。佐伯に最期に会った日、ピンクのワンピースを着ていた娘だとは、すぐには気付かなかった。
時を経て、娘は一段と落ち着いた美しさを匂わせていた。
詩乃が記名すると、彼女は一瞬目元に険しさを走らせた。
「母は父を追うように亡くなりました」
詩乃が問うたわけではない。次の句を告げないでいると、それではごゆっくり、と言い、次の記名者に新しい笑顔をふりまいていた。

遺作展は娘の力で実現したことだと分かった。
「ふゆのさくら」と題した大皿があった。
完成をあと一歩待てずに旅立った佐伯の、最期の作品だということを詩乃は忘れもしない。
全体は枯れた黄緑色に焼きあがっていたが、桜と紅葉が散りばめられていた。目を凝らしてみると模様は描かれたものではなく、丹念に彫り刻んである。目を瞠る焼き上がりだ。
誰がここまで焼きあげたものか。義兄が陶器屋をしていた。その人が彼の遺志を継ぎ、ここまで仕上げたに違いない。

小さな館内の照明が落とされ、客は詩乃一人になっていた。
会釈して近付いて来た娘は、眼を詩乃から放さず言った。
「作品は私が守ります。多くの方に見ていただき父も本望でしょう。これらはすべて両親の生きた証です。一作とて売れません」
外に出ると木枯らしがいっそう強く吹いていた。銀杏が黄金色の蝶のように碧空に舞っていた。
佐伯の遺作は手元にひとつもないけれど、「ふゆのさくら」が、心にいつまでも咲いている。そう思うだけで、詩乃の心は潤うのだった。
               (完)

ふゆのさきら(11)

ふゆのさくら(11)
中村ちづ子


まもなく、久方に見る四季桜が姿を現わしてきた。春の桜ほど重たげではなく、ささやかに慎ましく咲き競う四季桜。
詩乃は晩秋に咲く桜を二人の出会いに重ねていた。春咲きの桜と違い、晩秋に咲く桜は分別をわきまえる年齢を迎えた自分たちの姿ではなかっただろうか。
車窓から風景を追いながら、詩乃は長い時間、遠い追憶に浸っていた。
碧空を背にした山肌、初めて訪れた日に交わした会話のいくつかが甦ってきた。

「似合わない煙草を燻らしていたあなたが、今日のあなたとは一見信じ難いですよ。ただ、あなたはどこか醒めていて、そのくせ孤独で、愛に渇いているようだった。したたかそうだけど、とても脆くて危うそうで」
佐伯はあの世へ駆け急いでしまったが、今の詩乃は、彼と出会った頃の自分ではないと言う自負があった。

遺作展は誰の力で実現したのだろう。詩乃は誰よりも本当は自分が開きたかった。最期まで病床で土をいじっていた姿が熱く瞼に焼き付いているからだった。
会えなくてもつらいと思わなかったのは、佐伯との時間が永遠に続く確信があったからだ。

詩乃が落ち着くと、可奈も浩太も落ち着いた。詩乃にあれほど反抗的だった浩太も、詩乃の血を多く受け継いだのか、目標の美術関係の仕事に進んだ。

浩太が美大を目指すと言った時、博史は浩太を殴った。子育ては詩乃任せだった博史にしては珍しいことだった。
「そんなに殴ることはないだろう。あんたは母さんの気持ちを覗こうとしたことがあるのか。仕事さえしていればいいなんてロボットだ。僕はあんたのようにはなりたくない」
「親に向かって何を言う。絵で飯が喰えるか。男はな、女房子供を喰わしていかなきゃならん。絶対許さん」
「浩太が本当にしたいと思うことをすればいい。若いのだもの。やり直しもきくもの。若い日の失敗は、母さんはお金を出してでもするべきだと思っているわ」
博史の拳が詩乃の顔をめざして何回飛んできただろう。
痛みから逃れようとしなかった詩乃の裡に、博史への詫びの気持ちがないとは言えなかった。
気が付けば、いつからか浩太の表情が柔らかく解けていた。

博史は定年まで五年を残し、会社を辞めた。
突如、博史から伝えられた話に、詩乃は驚きもしなかった。
「ジャイカの仕事でペルーに行くことになった。俺の技術が必要とされる場所があるようだから」
博史からは何の相談もなかったが、詩乃は博史の選択に拍手を送りたい気持ちになっていた。夫婦の形を維持してきた二人にとって、それが最良の選択だと思われた。

博史が空港を飛び立つ朝がきた。
若い頃の博史は、出張や旅行と言っても自分で荷物を整えることはなかったが、ペルーに向かう荷物は全部自分で整えた。
博史が、家族が揃った古い写真を一葉、アルバムから抜き取ったことを、詩乃は知っていた。
空港での別れ際、博史はぽつりと言った。
「子供たちを守ってくれてありがとう」
ペルーでの仕事は二年では終らなかったが、正月には戻ると連絡があった。

佐伯と詩乃の関係を、佐伯は必要悪だと言いきった。
(続く)

ふゆのさくら (10)

ふゆのさくら(10)
中村ちづ子


携帯電話に佐伯からの着信が入っていた。
終業時間を見計らってかけてきたのだろうが、仕事が定時に終ることはない。佐伯ならそのことが分かっているはずだ。どんな異変が起きたのだろうか。はやる気持ちでリダイアルした。病院での使用は禁じられていたが、佐伯は連絡手段として密かに持ち込んでいた。
何度も呼び出しているが反応がなかった。

毎日でも会い佐伯の無事を確かめたかったが、家族が交代でついていて、足繁く通うのは憚れた。
先日、と言っても四日も前になるが、長く座位をとるのはきつそうだったけれど、ベッドを少しあげた半座位の姿勢で、サイドテーブルの上で柔らかい土に触れていた。

「僕のような病人に一番必要なのは、薬でも何でもない。笑顔だって。一時間でも長く、笑顔でいたいな」
「NK細胞が活発になるってあれね」
「パッチアダムスのような医者、日本にはいないな。どいつも苦虫噛んだような医者ばっかり」
「怒るのがいけないのではありませんか。それより今何をお創りですか」
「これだよ。病院の中は空気が乾燥してね、このとおり、大きなパックに入れておくのだけどね、すぐ乾いてしまう。若い看護師さんだと頼みやすいから、濡れ布巾を時々換えてもらっている」
佐伯は展覧会に出展したいと言う作品を詩乃に差し出した。

「これは目標を置くためにだよ。賞が狙いではない」
その日、土をいじる彼の眼は幸福そうに輝いていた。
佐伯が電話に出たのは、十数回も呼び出した後だった。
「驚いた? 今家だよ」
狐につままれたような詩乃の反応を楽しんでいる。
「外泊? まだ治療の途中でしょ」
「病院なんかにおればかえって命が短くなる。ストレスが貯まるばかりだから」
「でも家では、あれができないでしょ」

あれとは新しい抗癌剤のことだ。
「あんなもの、体を弱らせるばかりだ。始まると吐いてしまう。あれは地獄の責めでしかない」
電話を切って後、詩乃は、家とは反対方向にある佐伯の家に向かった。病院なら帰る方向なので立ち寄りやすいが、彼の家には娘や母親がいて心苦しさもあった。日を改めようとも思ったが、残された日々を思うと会いたさが募った。
交通量の多い幹線道路を避けて、川べりの道を走った。夕映えの空に、雪山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。
日が沈む前の、これほど美しい夕景を、人は生きて何度見ることが出来るだろう。そんなことを考えながら、詩乃はアクセルを知らず知らずに深く踏み込んでいた。一刻も早く会いたかった。先行車に近づき過ぎ、慌ててブレーキに踏み変えた。家を訪れるのは初めてのことだが、佐伯と車で前を通ったことがあるので迷わず辿り着くことができた。

誰が現れるのだろうかと、落ち着きのない気持ちで玄関ブザーを押すと、現れたのは佐伯本人だった。寝巻きから伸びた足が枯れ木のようで、詩乃の心を鋭く突き刺してきた。

「やあ、仕事お疲れ様」
このように家族から快く迎えられられたことが、それまでの詩乃にあっただろうか。
母親が在宅とばかり思っていたが、台所からお茶を運んできたのも佐伯だった。
「体きついでしょ。お願い、動かないで。お母様は?」
「パートに。友達に以前から頼まれていたからって」
さりげない話から、生活の窮状が推し測られた。

日の当たらない部屋で、黙々と仕事をしていた佐伯。初めて仕事場を訪れた時、とっさに詩乃は、佐伯の幸福の量を推し測っていたことをまた思い出した。

「せっかく来てくれたのだから、病気の話は止めだよ」
「病院へはいつ戻るの」
「今日は病気の話はしない、そう言っただろ。戻らない。医者とやってしまった。することは何もない、医者は僕にそう断言したのだよ。そんな医者に体を預けられるかい」
「点滴はどうするの。食べられないもの」
恐る恐る口にした。
「薬剤師だろ、何を言っているの。今は在宅看護ってのがある。家にいても点滴は受けられるよ」

次の言葉を、詩乃は少し引きながら聞いてみた。佐伯の看病を誰がするのか、それが一番気がかりだった。
「お母様やお嬢様たちが、お勤めをしながらあなたのお世話を? 私にできることは・・・」
「交代で。だから心配しないで。病気の話はしない」
佐伯はきっぱり言い放った。
「同情されるのはいやだ。それとがんばれとは決して言わないこと。創作者として接してくれること。望むのはそれだけ。出会った時のように傷を舐めあうのは嫌だ。常に創作者として向き合って欲しい。生活臭は邪魔だ」
「そうね。そうそう、今ね、あなたをイメージしながらマスクを作ろうとしているのよ。『永遠の』は、まもなく仕上がるわ。その次の作よ」
本当は仏像をイメージしてデッサンを試みているところだが、佐伯が仏様になってしまうようで仏像とは言えなかった。
「マスクか、頼もしいな。誰のマスクなの?」
「それはお楽しみに。奇抜なものは作れないけれど」
「斬新さがすべてじゃない。胸を打つものがなければ」
「平凡の中にある普遍性ね」
「プロとアマの差は運さ。我を忘れるほど打ち込んだ魂は、必ず誰かに伝わる。そう信じたい」
隣の部屋で人の動く気配がした。

「お嬢様なのね。ご挨拶をしなきゃ」
いいよ、と佐伯は言ったが、詩乃は襖を開けて挨拶をした。
「こんにちわ。お邪魔しています」
「いらっしゃい」
切れ長の一重の目元は、佐伯には似ていなかった。
「陶芸仲間の大田詩乃さんだよ」

娘はアルバイトにでも出かける様子であった。おそらく母親似なのだろう。その目つきを詩乃が険しいと感じたのは、娘の母親へのやましさが潜んでいるからだろう。
色白の娘には、淡いピンクのワンピースがよく似合った。
病床に伏す娘の母親も、さぞ美しかったことだろう。佐伯の家族への憧憬に継いで、詩乃に罪の意識が広がっていた。

「母さんの病院に立ち寄るけれど、持っていくものある?」
「そこにある洗濯物を」
頼まれた紙袋を手にすると、娘はすぐさま身をひるがえし出て行った。玄関の引き戸を閉める音が乱暴に響いた。

佐伯と会えたのはこの日が最期となった。
佐伯とは何ヵ月も会えないことの方が多かった。時たま会う時間も、夢のように短くすばやく過ぎていった。 (続く)

ふゆのさくら (9)

             ふゆのさくら(9)
                               中村ちづ子

     

詩乃が病院にかけつけたのは、佐伯が医者から告知を受けた翌日のことだった。メールで知らされ、すぐにでも駆けつけたかったが、彼の娘たちがずっと病室に詰めていて、足を向けるわけにはいかなかった。

ドアを開けてすぐ、白い寝具が目に入った。病院のリネンはどうしてこうも真っ白なのか。父も母も、白い色に包まれ息をひきとった。

詩乃は胸に抱えられないほどの桜の枝を抱えていた。
足音に気付いた佐伯はカーテン越しに声を発した。
「めっぽうに早い時間だね。仕事、早く終ったのかい」
四人部屋なので佐伯はいつもカーテンを下ろしていた。
「誰かさんに会いたいからドラエモンのポケットを借りて、空をタケコプターで飛んできたのよ」

詩乃がおどけながらカーテンを開くと、薄い体が眼に飛び込んだ。顔は透けるように白かった。こんなに痩せていることにも気付けずにいた、詩乃は心で自分を責めていた。

「おっ、桜。花屋には売ってないでしょう」
「今日は思い立って休暇をとったの。小原村まで走ってきたのよ。病室だと温かいからすぐ開いてしまうかしら」
「ええっ、小原村まで。まだ硬い蕾だね。あと何日ぐらいで咲くだろうか」

ここ四年、二人で見てきた四季桜。どれだけ佐伯も見たいことだろう。
この日の詩乃は顔を曇らせないでいるだけが精一杯だった。

工房で気分が悪くなった佐伯は元来病気をしたことのない体、そのまま働いた。午前中で作業を終えたものの、帰途、車の中で多量の血を吐き、意識を失った。意識が戻ったのは、病院で手当てを受けてからのことだった。
「よくぞ事故に結びつかなかったものだ。他人に怪我をさせなくて本当によかった。血だらけになっていたそうで、当初は事件かと大変だったそうだ」

なぜ佐伯にばかり不幸が襲いかかるのか。
昼間さえ薄暗い彼の工房が浮かんだ。詩乃は打ちひしがれる思いを堪え、徹夜で完成させた塑像を床灯台に載せた。

「さて、先生からはなんと評していただけるかしら。タイトルは、『永遠の』と決めたの」
「いいなそのタイトルも、土の匂いも」
輸血を終えたばかりだが、彼の声に力はなかった。

「これは、あなたをイメージして作ったのよ」
「このマスク、詩乃ちゃんにも似ているし、僕にも似ているような気がする」
「この世では生まれることのない私たちの分身かな」
「詩乃ちゃんにこういう作品を作らせたらかなわない。今にも動き出しそうなほどリアルだよ」
「時代遅れと言われても、人の愛は永遠、そんな気持ちがこもっているのかも」
ほんの一瞬、佐伯は小さく笑ったがすぐ険しさが戻った。

「肺が真っ白だった。全身がん細胞に侵されていて、原発巣がどこか分からないそうだ。これまで普通に暮らしていたことが奇跡だと言われた。写真を見せられて、素人目にも病状が分かったよ。あと三ヶ月持てばいいって」
「そんな・・・」

詩乃は二の句が継げなかった。それほど進行していたとは。専門職の端くれとして彼の病気に気付かなかった自身を、詩乃は責めずにはおれなかった。
佐伯が告知を望んだとしても、そこまで告知する医師に憤りすら感じた。これでは絶望しかないないではないか。希望が抱けなくなった時、人は何をすればいいのか。
気がつけば詩乃は唐突に叫び出していた。

「生きて、生きて、生きぬいて。あなたが生きていることは、私が生きていることなの。あなたの生は私の生なの」
「まだ死ぬわけにはいかない。どんなことをしてでも生き抜いてみせる」
「諦めては駄目。病気は文字通り気持ちが負けるから悪くなる。あなたは負けないって信じている」
涙は出なかった。つまらない悲しみには流れる涙が、本当に悲しい時は出なかった。
「今死ねないと思うのは、誰のためでもない。家族や詩乃ちゃんを遺して逝くのは忍びないけれど、それとは別に、自分が生きた本当の証を遺していないからだ」
「違うわ。あなたの作品をどれだけの人が愛しみ使ってくださっていることか。それに愛してやまないお子様がいるわ」
「そうじゃない。子供を遺すことは誰にでもできる。幾枚かの皿も遺したかもしれない。けれど本当に納得のいくものを創りたい。代表作となるものを。昨夜医者から宣告されてね、一睡もできなかった。見えるのは、死ばかりだった。このまま無限に続くと思われた闇だったが、やがて白み、明かりが枕元に差し込んできた。その時、看護師の忙しげな足音が聞こえた。生きている音っていいな。そう思った。先に死しかないとしても生きた証を飾りたいと。名はなくても僕は表現者だから。今まで感じたことのないほど強く芸術家(アーティスト)だって自覚が生まれたよ。この期に及んで、だよ。今は、一時間でも長く体の自由がきく状態でいたい」
「そうよ、そうよね。ベッドの上だってどこでだって、土はいじれるわ。私がここへ運ぶわ。明日にでも持ってくる」
「天井を見て横たわっているだけでは、生きているとはいえない。何もできなくなったら延命はしたくない」

胃癌で亡くなった父を、詩乃は忘れているわけではなかった。佐伯との会話が、所詮実現不可能な、きれいごとだと悟るものもあった。痛みに打ちのめされ、喘ぐ父を見ていて、早く昇天できることを祈った。意志の力だけでは病気に勝てない、そう耳打ちしてくる、もうひとつの声があった。
この時、佐伯の力強い声が詩乃の揺れ惑う心を止めた。

「今、裡から湧き溢れてくるものがある」
「マグマのように溢れ出てくる?」
「そうだよ。力が湧いてくる。ありがとう、詩乃ちゃん」

話していると疲れるのだろう。佐伯は言葉をいくつかに区切りながら話した。しかし、そこが病室であり、佐伯が死期を宣告された病人であることを、しばし忘れるような会話が弾んだ。
それから後、佐伯が召されるまでの、短いが充実した日々を、詩乃は忘れもしない。

(続く)

ふゆのさくら(8)

        ふゆのさくら(8)
                          中村ちづ子

佐伯が部屋の照度を下げ、肩に腕を回してきた。一組の男と女がひとつになることに、長い時間を必要としなかった。
「生きていてよかった」
「私も」
淡い灯りの中で、佐伯によって揺り動かされる波を感じながら、詩乃は生きている自分を感じた。生きている実感が還っていた。けれども、今の幸福感はすぐ雪のように消えていきそうな不安もあった。
荒々しかった波が静かに制止した頃、詩乃の目は薄明かりに順応し、佐伯の首筋にある黒子を捉えた。米粒ほどの小さな黒子がいとおしくて、詩乃はそっとそこに唇を添えた。

「罪深い、悪い人間ね。でも言葉で言うほど、不思議と罪の意識を感じないのよ、私。もっと悪いわね」
「必要悪って言葉がある」
佐伯と出会ってからの詩乃は、酒も煙草も必要ではなくなっていた。

佐伯はそれまでと同じように一日も欠かさず妻の入院先に通った。妻の鼻に通された管に、彼の手で夕食の液体を注ぐのが日課になっていた。
「笑うことも泣くこともできないけれどね、僕を見ると妻の目が少し動くんだよ。僕には妻が喜んでいるようで、大きな赦しを授けられているような気がする」
「あなたたちが培ってきた豊穣な夫婦関係が、私には眩しすぎる」

浩太がまだ小学生だった頃、博史とそっくりのくりくり目玉を見開いて言ったことがある。
「ママとパパ、どうして離婚しないの。別れてもぼくたち平気だよ」
三年生にもなっていなかった。夫婦が別れることの意味など分かろうはずのない浩太が、こんな事を言ったのは、表立って夫婦喧嘩をしたわけでもないが、澄んだ子供の心に、両親の亀裂が映っていたに違いない。詩乃に似た、浩太の強すぎる感受性が怖かった。

博史は仕事さえしていれば正しいと考える男であった。
「俺は間違っていない、俺を不満に思うお前が悪い」
この言葉を動かそうとはしなかった。
「俺が嫌ならお前が出て行け。俺は真面目に働いている、何にも悪いことはしていない。文句のある者が、さっさと身ひとつで出て行け。子供は絶対に渡さん」

洗濯や清掃、家事のすべてを詩乃が担うが、夫婦として暮らしている実感はなかった。お互い別の方向を向いており、離婚に費やすエネルギーは無駄だと考えるようになっていた。
家はただ虚しいお城、その思いが高まり、詩乃は宛てもなく家を飛び出たことがある。電車に飛び乗ったものの放心した詩乃の前に、浩太と同じ年頃のランドセルを背負った少年たちがいた。付属小学校の制服を着た利発そうな少年たちだった。

「ある人が自殺をしようとしています。その人は水銀の貯め池に飛び込みました。果たしてその人は死ぬことができるでしょうか」
「死ねません。比重が高いので沈まないからです」
「だけど、水銀が口に入ったら毒で死ぬでしょう」
「おじいちゃんが言っていたけどね、人間は楽には死ねないのだって」

無邪気な少年から自殺という言葉を突きつけられ、我に返った。詩乃の膝を奪い合う子供をしっかりと抱きしめたくなっていた。子供を失ってまで、博史と別れる必要はなかった。
詩乃の膝を奪い合うこともなくなった子供たちだが、忘れた頃に博史が被さってくるのは苦痛の種となった。
「夫婦の営みは、もっと人間らしくあるべきだわ。あなたは妻の体調を気遣うこともなく、これじゃまるで動物と同じよ。私はあなたから人としてあつかわれたい」
日頃から不満の蓄積している詩乃は、猛烈に抵抗した。詩乃の抵抗に博史は反応しない。詩乃から受けた言葉の鬱憤を晴らすかのように、ますます動物的で乱暴になった。後に残るのは悔しさと苦痛ばかりであった。欲望だけを果たせばいい、それが男だと思っていた。

男女の営みが共同参加とは知らなかった。苦痛でしかなかったものが、壊れ物を大切に包みこむように、無理強いすることのない佐伯を知ってより、それが歓びを伴うものであると初めて知った。愛とはもっとプラトニックなものだと確信していた詩乃だが、それは肉欲をも伴うものであり、忌まわしいはずの営みが、人として生きる歓びに変わった。
「性とは、心が生きると書くだろう。尊いもの、聖なるものだと思うよ」
涸れ池で喘いでいた魚は、水を得て生気を取り戻した。

離婚を切り出したところで、博史は絶対に応じない。
「夫婦は別れても別れなくても、どちらを選んでも後悔するだろう。周りのことを思えば、このまま密かにいる方がいい。妻と別れることはできないが、僕たちを不倫などと汚れた言葉でくくりたくない。僕たちは、出会った順番が入れ違っただけ。道を外しているなどと思わない。食事を摂って生きていくのと同じように、今の僕たちは生きていくためにお互いが必要。二人の関係は生きていくための必要悪だよ」
いつでも会えると言うわけにはいかなかった。

製作に打ち込んでいると、時を忘れた。佐伯と出会ってからの詩乃は、それまでとは比較にならないほどの時間をアトリエにこもった。粘土を造形していると、佐伯の匂い、唇の感触、締め木のような腕の力を感じることができた。会わなくてもそれで充たされた。

(続く)

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