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それでは女王の居城についてお話ししましょう(^^♪
邪馬台国宇佐説の多くの方が宇佐神宮の存在を根拠の一つにしています。宇佐神宮は日本全国で最も多い4万4百社以上の八幡様を祭神とする神社の総本社で、伊勢神宮と並ぶ皇室とつながりの深い格式を誇る、日本で最も有名な神社のひとつですね。ご祭神である八幡神は第15代応神天皇で、生母神功皇后ともう一方、比売大神を祀っています。創建は725年ですが、比売大神は記紀神話のアマテラスとスサノヲの誓約(うけい)で生まれた宗像三女神であり(実は三人でひとり)、宇佐嶋に降臨された地主神として、731年に二之御殿が建てられ、祀られています(神宮の由緒書きでは、南側にある御許山に降臨)。第14代仲哀天皇の皇后で生母神功皇后は三之御殿ですから皇后よりも格が上と言うことになりますね。http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html 以前に日記刮目天の古代史だ^^;で書いたとおり神功皇后は卑弥呼の宗女台与(トヨ)だと関裕二さんは見抜いていますが、卑弥呼を八女の女酋長田油津姫(たぶらつひめ)だとして、邪馬台国山門説です。しかし宇佐神宮の伝承や卑弥呼が倭国大乱の結果共立された旧奴国王族の姫だと考えれば、卑弥呼=比売大神=宗像三女神だと推理できます。 女王卑弥呼の居城は宗像三女神が降臨した宇佐嶋ですが、宇佐神宮ではなく、刮目天が宇佐市安心院(あじむ)町だとつきとめました。 http://www.ajimu-machikyo.com/ 安心院町は司馬遼太郎が日本で一番美しい盆地と絶賛していたようですが、その西側に流れる深見川の横の、盆地を見渡す台地に三女(さんみょう)神社という古い社があり、そこに卑弥呼が居たものと考えています。安心院盆地は、宇佐平野を流れる駅館(やっかん)川を逆上って妙見山(246m)と和尚山(327m)の間を入ったところにある、海に近い、平野部から約8キロの山間部の盆地です。ですから、二つの山が門のようになっていますので山門(やまと)と呼ばれたのかもしれません。海への入り口は湊(みなと)ですが、山門は山が多くある場所への入り口という意味の普通名詞だったようです。 http://www.ne.jp/asahi/usakotan/as/sanzyozinziya.htm 三女神社の社殿西側の丘陵に家族旅行村の施設が作られていますが、天然温泉が湧き出ています。川に近い方ではスッポンの養殖が行われ、社殿の北側のブドウ農園でワインが作られています。当時はブドウは有りませんが、酒は造っていたようです。実は三女神社の境内から北側に、弥生時代後期から古墳時代初期の宮ノ原(みやのはる)遺跡が発掘されています。そこで濁り酒を飲むためのおちょこのような土器が発見されています。この遺跡のさらに北側や境内の中にいくつもの石棺が発見されています。その中に銅鏡や鉄剣・鉄刀や勾玉が多数発見され、三角縁神獣鏡の破片も見つかっています。宇佐市の赤塚古墳のような前方後円墳は安心院盆地周辺では見つかっておらず、円墳だけですからヤマト王権が成立する前の集落だったと言えます。 安心院(あじむ)の名称はいろいろと説があるようですが、この地は海人族安曇氏の拓いたクニであると考えられ、アズミが訛ったものだと言う説もあります。山陰地方に残っている東北弁のような感じの響きですから、出雲(イズモ)を連想します。そう、出雲をはじめとして日本列島の多くの場所が、弥生時代前期から古墳時代にかけて活躍した安曇氏によって拓かれたようです。平安時代に書かれた和名類聚抄にある筑前糟屋郡安曇郷・志珂郷(漢委奴国王の金印が発見された志賀島)は安曇氏の本拠地です。さらに、滋賀県高島市安曇川(あどがわ)、渥美半島、丹後半島、若狭湾、長野県の安曇野などで、綿津見命(わたつみ、別名豊玉彦、海神龍王)や穂高見命(綿津見の子)を祀る神社が安曇氏ゆかりの地です。福岡県福津市の志賀海神社が全国の総本社になっています。http://www.sikanosima.jp/shrine-shikaumi/ 宇佐市史(上巻P.324)によれば、和妙類聚集の宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されており、当時から「やまと」国と呼ばれていたのかもしれませんね。奴国王が伊都国王に追放されて王族の一部が逃げ込んだ場所ではないかと推理しています。奴国王族の姫オオヒルメノムチ=日巫女=卑弥呼が伊都国王との和睦のために女王に推戴されたのでしょう。 ですから、ここが魏志倭人伝にあるように千人の侍女・婢にかしずかれて卑弥呼が居た場所でしょう(実際はもっと少ないかも)。昼夜の寒暖差は大きいようですが、暖かく、先ほどの温泉や遺跡の中からは湧き水も出ており女王の宮殿としては申し分のない絶好の場所でしょう。東に足を伸ばせば別府温泉にも簡単に行けますよ(^^♪ そして地政学的最重要拠点が日田盆地だと関さんが指摘しており、筑後川を下って筑紫平野に容易に行けますが、筑紫平野側からは日田を固められると邪馬台国を攻めることができません。江戸時代は幕府の天領とされた要衝です。ただし、海からの攻撃には安心院と同時に別府の北側の豊後豊岡を固めて玖珠盆地から日田盆地への攻撃や安心院盆地の搦め手への攻撃を防ぐ必要があります。だから北九州を平定した伊都国王も邪馬台国を中心とする旧奴国勢力には手を焼いたので、戦乱が長引き、和平を考えたのだと思われます。 宮ノ原遺跡の発掘は神社の北側の一部だけで終わっていますが、魏志倭人伝に書かれた城柵の跡と思われるV字溝の一部が社殿近くの北西部で見つかっています。また、楼観を置くには絶好の、盆地一体を見渡せる場所はまだ未発掘のようですので、太い柱跡が見つかるかもしれません。現在は発見された古墳群などは史跡公園とされているようです。 なお、卑弥呼の死亡は、一説では247年と248年に二度もあった皆既日食と関係があると言われていますが、社殿の南西部の河原の安心院町下毛字ヒカケと呼ばれる場所があり、横穴群が見つかっています。アマテラスの岩戸隠れを連想します。ヤマト王権=狗奴国が強勢になり邪馬台国陥落が間近に迫った時期に、日食があったので卑弥呼の神通力が衰えたと見て伊都国勢に殺されたのかもしれません。 そして驚くのは、その北側に「血野」と呼ばれるおどろおどろしい地名が残っています。16世紀の戦国時代に一帯を治めていた安心院氏一族が殺された場所という伝承がありますが、卑弥呼の死に合わせて約百名の婢が殺されたところではないかと想像してしまいます。そう、卑弥呼の墓はその横にある直径百メートルほどの小山ではないかと考えています。裾に石棺が見つかっていますが、盗掘されたのか残念ながら遺物は分かりません。 なお、卑弥呼の居城と反対側の、盆地の南側に龍王山(315m)が聳え、更にその南側は崖になっていて耶馬溪と呼ばれています。そして龍王山の北側に妻垣神社があり、これも古い社です。http://tumagakijinjya.com/index.html 想像ですが、スサノヲと女王トヨが邪馬台国を平定した後に居城にしていた場所ではないかと考えています。関裕二さんによれば日本書紀で描かれた神功皇后と忠臣武内宿禰がトヨとスサノヲです。関さんは二人を日本書紀ではいくつもの人物に別けて描いていると、トリックを解明しています(スサノヲ=浦島太郎=アメノヒボコ=塩土老翁=住吉大神など)。そして冨来隆さんは宇佐神宮のふたつの末社(古要宮と古表宮)の伝承などから虚空津姫(くくつひめ)が豊姫(日本書紀では神功皇后の妹)で、武内宿禰が久々遅命(くくちのみこと)=細男(サイノヲ)=狗奴国の官「狗古智卑狗」であることを突き止めています。祭りなどでセイノーという掛け声はスサノヲを称えるものかもしれません。 つまり、狗奴国は従来言われてきた熊本県菊池ではなく、那(奴)国王族が巻向に作ったヤマト王権の前身だと言うことです。ですから、狗奴国王「卑弥弓呼」がヤマトの大王でしょう。纏向遺跡の古墳から吉備地方の埴輪が見つかっており、東国各地の王を代表して祭祀を司った大王が吉備の王なのでしょう。ヤマト王権の支配を表す前方後円墳は倉敷の楯築墳丘墓が原形ではないかと考えられています。 「卑弥弓呼」(ひみひこ、日御彦)が那国の王位を継承するヤマトの大王「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」でしょう。伊都国王が、東国への鉄の供給を阻むので、饒速日はかつての仇を追討するためにスサノヲ軍(丹後・但馬・丹波の王)と近江・越軍(豊姫=神功皇后)と尾張・伊勢軍(第十四代仲哀天皇)を送りました。魏志倭人伝では卑弥呼の死後男王が立つも、国中が服さず、互いに殺し合い、千人が殺されたとあります。邪馬台国を攻めた仲哀天皇が女王の後釜に就こうとしたので、スサノヲやトヨの勢力と争いになり、結局スサノヲたちが仲哀天皇を殺し、卑弥呼の代わりにトヨを女王として、魏の後を継いだ西晋との交易権を手に入れたようです。そのためにトヨは大きな青いヒスイや多数の真珠や倭錦を西晋の皇帝に贈っています。そのために日本列島は珍しい宝の山という評判がシナ人に行き渡ったようです。青いヒスイの産地は富山県の糸魚川付近ですから、トヨは越を支配する女王、つまり神功皇后であることも分かります。 そこで、ヤマトの大王はスサノヲとトヨを魏に寝返った裏切り者として再び追討軍を送り、二人を殺して北九州を平定したのでしょう。この時に活躍した吉備の物部氏がその後北九州に勢力を張ったようです。 実は倭人、つまり那国王族であるヤマトの大王一族は呉(春秋)の太伯の末裔としていたので、魏・西晋と同盟した邪馬台国女王との対抗上、呉の孫権と同盟していたのかもしれません。あるいは逆に、ヤマトが先に呉と組んだので、伊都国王が魏と同盟したのかも知れませんが、二枚の呉の鏡が兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳と山梨県三珠町の鳥居原狐塚古墳で発見されていますので何らかの交渉はあったはずですね。 ちなみに、漢字の発音に呉音と言うのがありますが、漢音や唐音よりも古いものです。三国志の呉よりも前の春秋時代に日本列島の倭人が話していた発音でしょう。また、宇佐神宮の境内にも創建は不詳ですが、呉の人が作ったと言われる屋根付きで朱塗りの立派な橋が架かっており、朝廷からの勅使が渡るそうです。その他にも、日本には呉の地名や呉服などもあり、大和朝廷と中国の呉との繋がりは古く深いものがあるようですので、大和朝廷の前身だという仮説を支持しているようです。 さて、280年に呉は西晋に滅ぼされてしまいます。そこでヤマトの大王「饒速日」の後を継いだ宇摩志麻治命(うましまじのみこと、物部氏の祖、第十代崇神天皇)は、西晋との争いを避けるために西晋に朝貢していた倭の女王トヨ(神功皇后)の子供で、ヤマトの大王に追討されて日向に逼塞していた誉田別命(ほんだわけのみこと、第十五代応神天皇)を大和に呼び寄せ、娘と結婚させてヤマトの祭祀王に即位させたということです。これに反対した大王の叔父の長髄彦(ながすねひこ)が大王に殺されますが、スサノヲとトヨに殺された第十四代仲哀天皇の一族(尾張・伊勢勢)でしょう。これが、紀元前660年に即位したとする初代神武天皇の話で、本当は呉の滅亡直後の応神天皇のことです。日本書紀が隠し続けた千七百年前の出来事だと考えています。以前に日記に揚げさせていただいたとおり、人気作家関裕二さんの推理をベースにしたこのストーリーが日本書紀で曖昧にされたヤマト王権成立の謎をかなりよく解明してくれています(これについてはまたブログにする予定です)。 最後までお読みいただき心より感謝致します。 なお、まだ書き足らないものがありますので次回その6に【おまけ】を 付けますね(*⌒▽⌒*)
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