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iRONNA 邪馬台国「九州説」に徹底反論!
桑原久男(天理大学教授)
この論文は拙ブログ「日本は古の倭の奴国だ(^^♪」で示した安本美典さんの【iRONNA】邪馬台国は「99・9%」九州にあった(2016年11月20日14:57)に反論するために起こされたものであると思われるが、考古学的事実から得られる推論と結論には賛成できない!そこで、その事実を刮目天の説ではどのように説明できるかを示すために、写真を除き全文を掲載させていただく!少し冗長であるが、ご興味があれば是非ご覧頂き、ご意見を頂けると有り難いです!よろしくお願い致します(*⌒▽⌒*)
奈良県天理市には、全国的に著名な金象嵌(きんぞうがん)銘文資料が二つある。その一つは、1962年、市内北部の櫟本(いちのもと)に所在する東大寺山古墳で発見された鉄刀で、 100m前後の中規模の古墳を見ても、三角縁神獣鏡など多量の銅鏡が出土した黒塚古墳や天神山古墳、船の埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘された下池山古墳や中山大塚古墳など、他の地域ならトップクラスになる規模と内容を持っている。
3世紀の半ばから4世紀にかけての古い古墳がこれほど集中する地域は他になく、大王墓クラスの前方後円墳を核として、同じ形をした大小の前方後円(方)墳形が累々と階層的に営まれるさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという初期王権の連合的な性格を表しているように思われる。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡33面は、魏志倭人伝が伝える3世紀における倭と中国の政治的交渉を背景にしなければ理解ができない。オオヤマト古墳群は、魏との外交をおこなった3世紀の倭政権を構成した王侯集団の奥津城と考えて差し支えないと思われる。
奈良・黒塚古墳から出土した卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡
世界遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代(5世紀)の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い3〜4世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。
ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された4世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。
また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。
卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。を高度な技術を用いた金象嵌で刻んでいる。福岡の志賀島で江戸時代に見つかった国宝の「漢委奴国王」金印は、年号を刻んでいないから、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、日本最古の紀年銘資料ということになる。
残念ながら鉄刀の実物は天理市にはなく、重要文化財として東京国立博物館に収蔵されている。近年、念入りな修復作業が施され、報告書も出版されたから、いずれ、埼玉稲荷古墳の鉄剣など、他の紀年銘資料と同じように、国宝に指定されて然るべきだろう。
『漢書』地理志は、「楽浪海中に倭人あり。百余国に別れ、歳時をもって来たりて献見す」と、紀元前108年に設置された楽浪郡と倭人社会の交渉を記録する。また、『後漢書』東夷伝は、紀元後57年、朝貢を行った倭の奴国に対して、光武帝が印綬を賜与したことを伝えている。志賀島出土の「漢委奴国王」金印は、年号がないが、この奴国王朝貢の際に授けられたと見るのが定説だ。
これに対して、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、2世紀末の倭と中国の政治的交渉を通してもたらされたと考えられる。ただし、こちらの場合、中国の混乱期だったためか、逆に中国の正史には倭の入朝の記録がなく、倭に「中平」銘鉄刀を贈ったのは、遼東太守として、当時、中国と東夷諸国の交渉窓口だった楽浪郡を実質的に支配した公孫氏の政権だった可能性が指摘されている。
また、当時の日本列島は、魏志倭人伝などの文献によれば、倭国乱が収束した直後の時期で、「中平」銘鉄刀を贈られたのは、邪馬台国を都として、倭国の女王に共立されて間もない卑弥呼だった可能性がある。
それでは、2世紀末の中国で製作された鉄刀は、どのようなルートを経て、奈良盆地に運ばれてきたのだろうか。魏志倭人伝が記す倭国への交通ルートは、帯方郡から海岸に沿って水行し、狗邪韓国から海を渡り、対馬国、一大国を経て、末盧国から陸行し、伊都国に至るというものだ。伊都国から東南の奴国に至るには百里で、邪馬台国の女王の都に至るには、解釈が難しいが、南に水行十日、陸行一月だとされる。
100m前後の中規模の古墳を見ても、三角縁神獣鏡など多量の銅鏡が出土した黒塚古墳や天神山古墳、船の埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘された下池山古墳や中山大塚古墳など、他の地域ならトップクラスになる規模と内容を持っている。
3世紀の半ばから4世紀にかけての古い古墳がこれほど集中する地域は他になく、大王墓クラスの前方後円墳を核として、同じ形をした大小の前方後円(方)墳形が累々と階層的に営まれるさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという初期王権の連合的な性格を表しているように思われる。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡33面は、魏志倭人伝が伝える3世紀における倭と中国の政治的交渉を背景にしなければ理解ができない。オオヤマト古墳群は、魏との外交をおこなった3世紀の倭政権を構成した王侯集団の奥津城と考えて差し支えないと思われる。
世界遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代(5世紀)の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い3〜4世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。
ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された4世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。
また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。
卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。
3〜4世紀に造成されたオオヤマト古墳群が3世紀半ばの「邪馬台国」と時代が重なるからといってそこが邪馬台国だなどと云うのは如何なものか。
刮目天の説では纏向に九州の倭国=邪馬台国連合と敵対する2世紀初頭に帥升王に追放され、狗奴国と言う名前で貶められた旧奴国王族の出雲・但馬・丹後・丹波・吉備・尾張などの国々が結集したので、この時代に畿内に古墳群が多数造成されたと説明できる!
また中平銘鉄刀は後漢皇帝が楽浪郡太守に命じて東夷に賜与したものであるとも推測できるが、だからと言って卑弥呼がもらったものという証拠はない!
「中平」年間が第一次倭国大乱の時期であればむしろ倭国の男王が貰った可能性が高い!卑弥呼は伊都国に居た帥升王の後継者と敵対関係であった勢力が和解した結果、女王に共立されたので、そのタイミングは公孫氏が204年に帯方郡を設置して半島南部の治安が回復した時期と考えるのが合理的だ!
たとえ卑弥呼が貰った刀であったとしても、貴重な威信財であるので東大寺山古墳の被葬者が最終的な所有者であると判るだけで、時代も3世紀中頃の卑弥呼の後の4世紀の古墳であるので、それがどういう経緯で所有者が変わったのかは解らない!
従って、この古墳の地が邪馬台国であるとも断定できないのは当然のこと!
古代の倭人社会は北九州か
金印がもたらされた紀元後1世紀の頃、北部九州では、須玖岡本、三雲南小路など、弥生時代中期後半から後期初頭の甕棺墓に、漢鏡をはじめとする中国系の文物が数多く副葬されている。これに対して、近畿地方の弥生時代中期の遺跡では、中国系の文物は極めて乏しく、この時代、倭人社会の外交的な中心は明らかに北部九州にあったのだ。
ところが、古墳時代の前期(3世紀後半〜4世紀)になると、三角縁神獣鏡など、中国系の文物は一転して近畿地方に集中するようになり、対外交渉の中心が北部九州から移動する。
三角縁神獣鏡は文様が魏の鏡ではなく南方系の職人によるものと云われている。
そこに魏の景初銘を刻んでいるのは不審だ!しかも景初は3年までであるにも関わらず4年という鏡も出土しており、魏の洛陽にも中国では一枚も出土していないことから、日本に渡来していた呉の職人に日本で作らせたとわかる。
魏から卑弥呼に贈られた100枚の鏡であることを主張する為であることは明らかなので、誰かを騙す目的であろう。
つまり呉の孫権と同盟していたヤマト王権が、280年に西晋によって呉が滅ぼされ、西晋に追討されるのを怖れ、ヤマト王権が卑弥呼の王権を継承したものとしたかったのだと推理出来る!
卑弥呼の宗女台与(トヨ)=神功皇后の子ホンダワケ=応神天皇=神武天皇を祭祀王としてヤマトに迎えたと言う関裕二さんの説を採用すれば、これが280年の直後の出来事だと推理できる!日本書紀ではもう一人のハツクニシラススメラミコト崇神天皇がオオタタネコを三輪山の大物主を祀るために呼んだ話と符合する。
古代の中国では、今の日本人の住む地域を「倭」と称し、日本人を倭人と呼んだ。この「倭」を日本ではヤマトと読んだが、ヤマトというのは、もともとは、奈良盆地東南部の狭い地域を指す言葉だった。それが大和の字を用いて、奈良盆地全体を指すようになり、ついには日本全体を意味することになった。
ヤマトという言葉は山戸、山門のことで、海への入り口であるミナト(湊、港)と同様に、平地から山地への入り口を指す普通名詞だ。
奈良盆地を倭と書きヤマトと呼ぶのは前述の通り倭国が東に遷ったもので、つまり邪馬台国の後継であると主張するためだ。そして纏向の地で東西の勢力が和平することにより従来の倭国と大和が合体して大倭国となったと云う意味を表すために大和と書き改めてヤマト=邪馬台と呼ばせたものと考えられる。
纏向遺跡は3世紀半ばに突如登場した、倭国=邪馬台国に敵対する反倭国勢力が結集した政治都市だから100パーセント邪馬台国ではない!
一方、のちに外国全般を指すことに意味が広がる「カラ」という言葉は、もとは、「加羅」と書き、朝鮮半島南部の狭い地域を指す言葉だった。それに「韓」の字を当て、さらには、「唐」の字を用いるようになる。
興味深いのは、この「加羅」、今の金海市を中心とした地域において、弥生時代〜古墳時代に並行する時期の遺跡から、日本列島との交渉を示す「倭系」の文物が数多く見つかることだ。しかも、金海貝塚など、弥生時代に並行する時期の遺跡では、見つかる倭系遺物は、弥生土器など、北部九州系のものばかりなのが、大成洞古墳群など、古墳時代並行期になると、近畿の古墳副葬品と共通する文物が数多く見つかるように変化する。
つまり、朝鮮半島の側から見ても、弥生時代から古墳時代にかけて、倭人社会の中心が北部九州から近畿へと移り変わったことが明らかなのだ。
280年ころにヤマト王権が纏向に成立した後、ヤマト王権に恭順する国々の首長はヤマト王権と同じ前方後円墳の祭祀形式を採用したと考えられる(恭順の証し)。ヤマト王権が三角縁神獣鏡も与えたと考えられる!
ヤマト王権成立以前の古墳や祭祀器の形式は様々で、北九州地方の倭国では円墳と銅剣・銅鏡、出雲・丹後・但馬・丹波では方墳と銅鐸、近江・尾張・駿河などは前方後方墳と銅鐸が用いられた。なので、祭祀形式はどこの派閥かを示すものだったのだろう。
しかしヤマト王権が成立しても各地が一斉にヤマト王権に従ったのではないはずない!そのために列島内で活躍したのが崇神天皇の四道将軍であり九州各地に遠征した景行天皇である。その皇子ヤマトタケルの事績はそれらのシンボルであったと言うのが関裕二さんの説だ!
また半島へは4世紀末の好太王碑の内容に符合する神功皇后の三韓征伐や5世紀の倭の五王だった!日本書紀で同一時代に活躍した神の名の付く神武・崇神・応神・神功皇后を時代を別々に分けて描いたので、このことの矛盾から、この時代の天皇系譜は完全に切り刻まれていると関裕二さんは指摘している!
さらには中国の朝貢国だったことを隠す目的もあったはずだ!つまり日本書紀や古事記はそのような政治目的で作られた歴史書であることを押さえておく必要がある!
今度は、奈良盆地の状況を見てみよう。盆地中央部の唐古・鍵遺跡では、西日本の各地から持ち運ばれた外来系土器が、弥生時代を通して数多く見つかっている。この外来系土器の動向から読み取れるのは、奈良盆地の地域社会と他地域との関係がどうだったか、あるいは、地域間の交流ルートがどのように変化したかということだ。
すなわち、弥生時代中期前半は伊勢湾岸方面の土器が多く、中期後半には瀬戸内系の土器が急速に増加する。北部九州の土器も1点だけだが見つかっていて、この時期には、瀬戸内海を通る交流ルートが存在したことを明確に示している。
大和に邪馬台国があったならば半島との交易拠点の伊都国など先進文物の集積地である北九州地方の人々が大和に着ていないはずはない!
纏向遺跡に北九州地方の外来土器が発掘されないのは、大和が邪馬台国でない決定的な証拠といえる!
だから九州の邪馬台国に対抗する勢力が政治都市の纏向に結集したと見るべきで、人数的には尾張・近江などの東国勢が有力だが、祭祀の形態を見ると吉備の主導が伺われる!
つまり吉備の王が旧奴国王の正統な後継者であると推理できる!
そして、九州の旧奴国王族が裏切って卑弥呼を倭王に共立し、東国勢とを分断し半島南部の鉄の供給を断った。そこで奴国王の正統な後継者ニギハヤヒ=狗奴国王の卑弥弓呼が吉備から纏向に移動し、各地の勢力を糾合したものと考えられる。
そして出雲・但馬・丹後・丹波の王(スサノヲ=武内宿禰)、近江の王女(卑弥呼の宗女台与=神功皇后)と尾張・伊勢の王(仲哀天皇)を九州征伐に派遣したと考えられる。これが第二次倭国大乱だろう!
韓国の遺跡で多数見つかる畿内の土器片
これに関連して注目されるのは、最近、韓国の金海貝塚で弥生時代後期の近江系土器がはじめて出土したことだ。金海貝塚では、ほかに、近畿地方の弥生時代後期の特徴を備える土器片の存在も認められた。
先述の通り神功皇后の三韓征伐を意味し、神功皇后が近江・越の勢力であることを示している!
この事実は、朝鮮半島南部の倭系文物が弥生時代中期には北部九州系中心だったのが、古墳前期には近畿系の遺物が主流を占めるようになる、その変化の起点が弥生後期の段階(紀元後1〜2世紀)にあることを示唆している。
弥生後期は紀元後1〜2世紀ではなく2世紀から3世紀前半までと見るべき!(注)安本美典さんは古墳時代は4世紀からとみているが、刮目天説では280年の呉の滅亡後に応神天皇の即位で近畿を中心とする大倭国が成立した後、近畿勢が半島に進出したことを示している!
こうしてみると、弥生時代後期、唐古・鍵遺跡で近江系土器が急増するのは、高地性集落が示す緊張状態のなか、瀬戸内海の交通ルートが遮断され、逼迫した奈良盆地の弥生社会が、必需品となりつつあった鉄資源などの物資を求めて、やむなく、近江を経由する日本海ルートに活路を見いだしたことによると考えられるのではないだろうか。
ヤマト王権が成立する前には北九州の倭国によって東の旧奴国王族の国々への鉄の供給が制限されたが、邪馬台国の女王が共立されるまでは出雲・丹後・但馬などは北九州の同族で倭国に抵抗していた邪馬台国勢の力を借りて神湊から大島、沖ノ島経由で半島南部の鉄を細々と入手していた模様だ(倭王が支配していた今津湾・呼子・壱岐・対馬のメイン・ルートに比べるとかなり危険で厳しいルートだったと思われる)。だから近畿地方へは丹波から播磨経由で、また敦賀から近江・尾張などへ細々と供給されていた。
同時に奥出雲や但馬で砂鉄を採取して蹈鞴製鉄により鉄の供給も行われていたが、九州の邪馬台国勢が倭国勢力と組んで半島との交易を独占して東国への供給を遮断したので、鉄不足に陥った出雲から東の勢力が纏向に結集して九州の邪馬台国・倭国の追討を行ったと推理した!
交通ルートが政治情勢に左右されるのは、何もこの時代に限らない。7〜8世紀、遣唐使のルートは、朝鮮半島との政治的関係から、伝統的な北路に代わり、途中から危険な南路を取らざるを得なかったし、米ソ冷戦の時代には、日本からヨーロッパ各国への空路は、シベリア上空を避けて、アンカレッジを経由した。
さて、2世紀末に始まる纒向遺跡の時代には、各地の高地性集落も終焉を迎え、地域間の緊張状態(=倭国乱?)も収束したことが窺われる。纒向遺跡から出土する外来系土器の豊富さは、かねて指摘されるように、西日本を中心とした各地に及び、この時期の奈良盆地と各地域との全方位的な交流の存在を示している。
西日本における吉備系土器の分布を見ると、弥生時代後期には閉塞状態だった瀬戸内ルートもすっかり回復し、北部九州と近畿をつなぐ浦々に拠点的な集落が発達した様子が読み取れる。これが、すわなち、魏志倭人伝が伝える邪馬台国への道筋で、2世紀末に製作された東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀も、おそらくこの瀬戸内ルートを通して、奈良盆地にもたらされたのであろう。
ここで問題になるのは、鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造されたのが、埴輪や副葬品、埋葬施設の特徴から見ると、古墳時代前期末、4世紀後半だということだ。銘文に従えば、「中平」銘鉄刀が製作されたのは2世紀末だから、製作後、150年以上の「伝世」を経て、古墳の副葬品として納められたことになる。
今に伝わる二つの鉄刀
奇しくも、天理市にあるもう一つの著名な記念銘資料、石上神宮の七支刀が伝えるのが、まさに4世紀後半、東大寺山古墳が築造された時代の国際情勢だ。伝世品として永く神宮に伝わり、国宝に指定されているこの鉄刀は、金象嵌の銘文から、泰和4年(369年)、百済王が倭王に贈るために特別に製作したことがわかる。
4世紀の後半は、291年に始まる八王の乱によって華北が混乱状態となり、313年には高句麗の南下によって楽浪郡や帯方郡も滅亡するという東アジアの情勢を背景に、朝鮮半島の南部と日本列島で、それぞれ国家形成に向けた社会統合のプロセスが急速に進展した時代だ。369年、百済王が倭国に七支刀を贈ったのは、同じ新興国の百済と倭が相互の外交関係を重視した事情があったと推察される。
このように、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀と石上神宮の七支刀は、魏志倭人伝が詳しく記す3世紀の倭と魏の交渉の時代をはさんで、その前後の時期、2世紀末と4世紀後半の国際情勢の一端を銘文資料として今に伝えているということになる。どちらの時期も中国本土は混乱期で、倭に関わる文献資料が残っていない空白の時期なので、その資料的価値は極めて大きい。
2世紀末から4世紀にかけて、日本列島で進展した初期王権形成の過程を考えるうえで重要な遺跡が密集するのが、奈良盆地の東縁、天理市から桜井市の山麓に広がる山の辺地域だ。この地域は、唐古・鍵遺跡など、拠点的な大規模集落が盆地内部に展開する弥生時代中期には顕著な遺跡が見られず、空白地域だったのが、弥生時代の後期末(2世紀末)になると、一転して、纒向遺跡やオオヤマト古墳群など、数多くの遺跡が濃密に形成される地域へと変貌する。
纒向遺跡やオオヤマト古墳群は、日本列島における弥生時代から古墳時代への変化を象徴する遺跡と見ることができ、近年は、纒向遺跡を「王都」として、その出現をもって古墳時代の始まりとする意見も有力だ。纒向遺跡では、これまでの調査で、矢板で護岸をした人工水路や導水施設、祭祀土坑、方位をそろえた掘立柱建物群など、注目すべき遺構・遺物が見つかり、この時代の中心的な役割を果たした拠点的な遺跡だと考えられている。
山の辺地域では、纒向遺跡の形成に続いて、3世紀中頃から4世紀にかけて、オオヤマト古墳群が集中的に造営される。春日断層崖に添う段丘面に広がる南北4km、東西約1.5kmの範囲に、大王墓クラスの大形前方後円墳4基を核にして、大小40数基の前方後円(方)墳がひしめくように密集する。
定型的な最古の前方後円墳として評価される箸墓古墳は、卑弥呼の墓と考える説も有力で、天理市の西殿塚古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳といった全長200mを超える巨大古墳は、卑弥呼の後に続く歴代の倭王の墓と考えられる。
邪馬台国と重なるオオヤマト古墳群
100m前後の中規模の古墳を見ても、三角縁神獣鏡など多量の銅鏡が出土した黒塚古墳や天神山古墳、船の埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘された下池山古墳や中山大塚古墳など、他の地域ならトップクラスになる規模と内容を持っている。
3世紀の半ばから4世紀にかけての古い古墳がこれほど集中する地域は他になく、大王墓クラスの前方後円墳を核として、同じ形をした大小の前方後円(方)墳形が累々と階層的に営まれるさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという初期王権の連合的な性格を表しているように思われる。
黒塚古墳の三角縁神獣鏡33面は、魏志倭人伝が伝える3世紀における倭と中国の政治的交渉を背景にしなければ理解ができない。オオヤマト古墳群は、魏との外交をおこなった3世紀の倭政権を構成した王侯集団の奥津城と考えて差し支えないと思われる。
世界遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代(5世紀)の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い3〜4世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。
ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された4世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。
また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。
卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。
上で説明したとおり、2世紀後半の「中平」銘の鉄刀が4世紀造成された古墳から発掘された事実や有力な首長たちの古墳群造成の時代が邪馬台国の時代と重なるから大和が邪馬台国だというのは大間違いだ!
大和が邪馬台国でない決定的な証拠は、政治都市の纏向遺跡で発見された外来土器に邪馬台国の大卒が置かれたという当時の先進地域の北九州の土器が纏向遺跡に見られないと言うことだ!
その他、三角縁神獣鏡が魏鏡ではないと言う事実も重要であるし、魏志倭人伝にある鉄鏃は発見されるのは九州ばかりで、「棺有って槨無し」とある墓の形式も大和のものは適合しないことが大和に邪馬台国が100パーセント無かったと結論づける根拠だ!
大和説ではこれらの反証となるものに合理的な説明が出来ないので邪馬台国は大和に無かったと結論づけざる得ないのだ!
最後までお読みいただき感謝します(●^o^●)
(注)弥生時代から古墳時代への移行の起点になるのが、2世紀末から3世紀初頭頃の女王卑弥呼の共立だ。半島から鉄輸入のメインルートを伊都国に住む倭王が抑えていたが、倭王と敵対する北九州周辺の勢力(宗像氏とその配下の安曇氏)が、宗像の大島から沖ノ島・対馬の海北ルートを使って半島の鉄を入手し、瀬戸内海沿岸(吉備)から畿内へ、そして日本海沿岸(出雲・丹後・越)から近江経由で東海・関東へ細々と流していた。彼らが伊都国の倭王と和解し邪馬台国の卑弥呼を女王に共立したたために、九州以東の鉄の流入が止められた。そこで吉備・出雲・丹後などの旧奴国王族が東国を糾合し、纒向にできた政治都市の誕生によって時代は大きく動いた。纏向を倭国側は狗奴国という蔑称で呼んだ。だから、狗奴国によって北部九州の倭国が占領された248年頃(卑弥呼の死の頃)から弥生時代後期終末期が始まるとみている。<2017.1.13>
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