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〇57年、北九州博多の奴国 が後漢に朝貢し、紐(つまみの部分)が蛇の形の「漢委奴国王」の金印を贈られた。紐の形はそれぞれの国のシンボルを表すものだから、倭人が自ら太伯の後と言っていたことを裏付けるものと言える。
倭人が中国江南の呉の人々と同じ蛇神を祀る農耕・漁労民族の集団だったことを示している。古来、江南の海洋民を倭人と呼んでいたようだ。 春秋の呉が越に滅ぼされた紀元前473年に列島や半島南部に逃亡した王族の末裔が奴国を作ったと考えられる。 奴国には列島各地の産品が集まりシナの商人との交易で賑わった。奴国は後漢王朝が東夷の国を蔑んで那国を卑字で書いたものだろう。那は物が豊かにあるという意味であるし、王の耳が飾り物で垂れ下がる様子を表す漢字だ。那国の最盛期は南は筑後川まで達する筑紫平野の穀倉地帯を抑えた模様だ。後に那国王の後継者が大和に移ってその故地に因む地名を大和の地で付けて、繁栄を偲んだのではないだろうか。神話の高天原が那国とみて間違いない。国産みを行った伊弉諾尊が、配下の海人族安曇氏などを供にして列島各地に珍しい産品を求めて探検した最初の那国王ではないだろうか。宗像氏を母とする次の那国王素戔烏尊は鉄を求めて半島南部に渡った!
〇107年、倭王帥升(すいしょう)らが後漢に朝貢した。約百余りある倭人国の代表として交易権を引き継いだことを認めてもらうための朝貢だったようだ。つまり奴国王族が北九州の奴国の領土から駆逐された可能性がある。壱岐に出土しない広型銅矛が対馬の海神神社(祭神は豊玉姫、配神に宗像大神、神功皇后の三韓征伐に由来)から出土しているので(安本美典 「奴国滅亡」より)、安曇氏が手引きして奴国王族が逃亡したか。その途中で金印を志賀島に埋めた。血統ある奴国王族を排除するにはそれなりの理由と力が必要だろう。 紀元前200年ころ多数の男女の若者と五穀百工(稲や植物の種と稲作・機織・医薬・冶金・大工)を引き連れて来日した徐福の系統が考えら れる。医術は神仙方士徐福の重要な仕事で、秦の始皇帝は不老長寿の薬を手に入れるために徐福を夷州(日本列島)に派遣した。当時シナ大陸 で最も文化の進んだ山東半島の斉人の徐福は、「斉の八神」を列島に持ち込み治世の具とした(祭政一致)。「民を治めるには鬼神を明らかに し、山川を祭り、宗廟を敬い、祖旧を礼す」(「管子」牧民)のがよいとして、祭祀を行った(羽田武栄ら、真説「徐福伝説」三五館、 p.93)。つまり奴国の王位継承の儀式や祖霊祭祀を指導する役割を徐福の系統の人間が担い、王室内で力を蓄えたのではないだろうか。伊都国の伊は神の意志を伝える聖職者のことで、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因むものだ。そして那国王の横暴が帥升にクーデターを決断させたのかもしれない。或いは列島各地や半島を旅する王の留守を狙ったのかも知れない。だとすると高天原を追放された那国王はあの乱暴者の神しか居ないo(^o^)o 〇178〜184年 第一次倭国大乱。シナ大陸で流行した道教の一派、河北方面の張角による太平道と四川方面の五斗米道の勢力が大きくなり後漢王朝の力が衰退したことにより、楽浪郡との交易権を握る倭王の権威も失墜した。恐らく、半島のワイ人や韓人の盗賊が頻発して治安が乱れ たのだろう。そのため、倭人の国々でも倭王に怨みを抱き、反発する旧奴国の勢力が徐々に盛り返しつつあった。後漢に朝貢して交易権を得た倭王帥升の跡を継いだ男王が伊都国を居城とし約80年が経過した時期だ(遠山美都男、「卑弥呼誕生」洋泉社、2011, p.146)。 〇184年、シナ大陸は張角が黄巾の乱を起こし、群雄割拠の状態となり本格的な戦乱に突入。曹操(魏)・孫権(呉)・劉備(蜀)の三国志の 時代の始まり。 後漢王朝の衰退によって遼東太守であった公孫氏が独立し、半島に勢力を伸ばした。 〇204年、半島では公孫氏が帯方郡を設置し、半島の治安が落ち着き、郡と倭国間の交易が再開した。 そこで、倭国王は北九州方面で郡との交易を妨害していた旧奴国勢力の懐柔を考え、邪馬台国に匿われていた旧奴国王族に繋がる宗像氏の女卑弥呼を女王として共立し、第一次倭国大乱が終焉した(鬼神を祀る鬼道で国々を治めるやり方は徐福かその子孫たちがもたらしたのか)。 伊都国から壱 岐・対馬経由で半島南部に渡るメインの航海ルートのためのロジスティクスを仕切っていたのが、倭国王だった。各地からの産品(南九州の真珠や阿蘇山等で採集された宝石・倭錦など)と半島南部から仕入れた鉄てい(板状の不純物入りの鉄の塊、農耕具や武器を鋳造・鍛造で製造するための材料)との交易が行 われていた。伊都国今津湾辺りは楽浪郡などから遣って来た華僑や南九州の縄文人(熊襲か?)たちの宿や交易の市があって賑わったと思われる。 卑弥呼を擁立したのは神湊から大島、沖ノ島経由の海北ルートで対馬から半島に渡り倭国王の交易を邪魔していた宗像氏とそれに従う安曇氏の一部だった。 長野正孝氏によれば宗像大社付近は「西は糸島半島から東は遠く日本海沿岸、周防灘から小さな船で集まり、季節を選んで工夫することで大陸に 人々が渡ることのできる場所のひとつであった。」とあるが(長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」PHP新書、pp.19-23)、 伊都国の倭王とは敵対していたので、そこには出雲・丹後・越などの日本海沿岸や中国・四国地方や更には東海・関東辺りに展開していた旧奴国王族とその配下の安曇氏などが各地の産品を宗像に集め、海北ルートで半島南部の鉄を仕入れて東国に流していたと考えられる。 〇220年、曹操の子曹丕が魏(265年まで)を起こし、皇帝となる。 〇229年、孫権が呉の初代皇帝となり、元号を黄龍と改める。翌年、1万の兵力で、夷州と亶州の捜査を行わせた。夷州(列島でなく台湾か 沖縄か)から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、責任者を処刑した。列島まで到達せず、倭人勢力との同盟という目的を 達成できなかったためと思われる。 〇233年3月、孫権は公孫淵の内通を真実と信じ、張彌らに九錫の礼物と策命書を携え兵1万を動員した。しかし、公孫淵は孫権が派遣した 使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、側近達の諫止により思いとどまっ た。 〇237年、魏は毌丘倹(かんきゅうけん)を派遣し遼東に駐屯させ、公孫淵に出頭命令を出した。しかしそれに従わずに迎撃の構えを見せて、一戦に及んだ毌丘倹を撃退した。一方、孫権は高句麗と通じ、公孫氏の遼東へ親征を行おうとしたが、取り止めた。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕 王を称し、年号を紹漢元年とした。領土は帯方郡と楽浪郡であった。 〇238年、魏は司馬懿に命じてこれを討たせ(遼隧の戦い)公孫氏が滅亡した。戦後、司馬懿はこの地に魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよ う、当地の15歳以上の男子を皆殺しにし、夥しい数の亡骸で京観(古代シナの戦争で討ち取った敵兵を積み上げるなどして埋葬し塚を作り、 戦勝の記念碑とする風習)を作ったことが後世に伝わる(シナ人らしい)。三国時代の戦乱で人口の9割がシナ大陸から消えたという記録があ る。そのために、曹操が北の異民族を呼び込んだので、以後のシナは民族的には多様化したとのこと。それでも現在の華北漢民族の父系(Y染色体)遺伝子 の分布を見ると、66%くらいはシナ人のO2ハプロタイプで北方系C2が5%だから、シナ人の繁殖力は旺盛だ(Wiki「日本人」参照)。 〇239年(景初三年)、倭女王(卑弥呼)が魏に朝貢し(帯方郡、その翌年正始元年洛陽で皇帝に謁見)、親魏倭王の称号が賜られ、魏・半 島との交易権を手に入れた。魏の銅鏡百枚などが送られた。 〇243年(正始四年)、倭の女王が二度目の朝貢。魏の皇帝は難升米に黄幢(魏の皇帝が部下に軍を動かす命令を示す黄色の旗)を与えるた め帯方郡に仮に授けた。狗奴国が魏にとっても敵対勢力であることを示している。 そのような中で呉の元号の入った銅鏡が二枚発見されている。238年銘のものは山梨県鳥居原狐塚古墳から、244年銘のものは宝塚市安倉 高塚古墳からだから、近畿から東は呉と同盟関係であったことの傍証になる。
〇245年、韓の反乱により帯方郡太守が戦死、楽浪郡太守が討った。 〇247年、帯方郡の太守が着任し、卑弥呼が使者を派遣。狗奴国との戦いを報告。魏は帯方郡の国境守備の属官張政を派遣し、詔書と黄幢を難升米に渡し、檄文を作って 告諭した。通説では邪馬台国を筑紫平野にあったとみてその南 の熊本県菊池あたりの熊襲ということになっているが(男王の名は卑弥弓呼(ヒミココ)、官が狗古智卑狗(クコチヒコー>きくちひ こ))、魏にとって脅威となる列島の一大勢力とみていることが分かり、通説では説明できない。 ここからも狗奴国は旧奴国王の勢力と推理できる。 そして、3世紀末のヤマト王権成立時から、三輪山麓の纏向の地において御神体が蛇との伝承のある出雲神「大物主大神」を祀ることからもヤマト王権は呉の太伯の後裔の可能性がある奴国の流れを汲むと考えられる。 |
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