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刮目天(かつもくてん)の古代史ブログだ!
古代史の謎を話題にしてブログ書きます(^^♪!邪馬台国問題は解決か?(*⌒▽⌒*)

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 前回のとおり、ヒスイの産地を押さえたということで台与(トヨ)が日本海を支配していることが分かる。だから未婚だといわれる卑弥呼の娘(宗女)であるはずなく、ヤマトの指令で敵対する邪馬台国征伐に向かい、卑弥呼が亡くなって、その跡を継いだ越の女王神功皇后だったということだ。そして、神功皇后は祟る人物なので女王台与の運命を暗示している。

話は前後するが、狗奴国(ヤマト)が邪馬台国を追討する第二次倭国大乱によって、台与(神功皇后)が女王になる前に倭王になろうとした尾張の王(仲哀天皇)の勢力を討った。そのために、ヤマト(狗奴国)の大王(卑弥弓呼=物部の祖ニギハヤヒ)との関係をどうするか出雲王スサノヲ(武内宿禰)と相談して決めたのだろう。前述のとおり卑弥呼の応援のために魏の正規軍の軍旗を持って派遣された張政に説得されたのかも知れないが、結局親魏倭王を継ぐことにした。もしもヤマトの大王に状況報告し、張政の処分を相談したら恐らくヤマトは呉の孫権と同盟していた関係で、張政を殺す命令を受け、大国の魏を敵にすることになる。そればかりか有力者の尾張王殺害の罰を受けることになるかも知れないので、張政を生かして帯方郡に帰還させ、魏の力で呉の同盟国ヤマトに対抗しようと決断したのだろう。

台与とスサノヲの倭国は元々の領地である出雲から越の日本海沿岸の国々まで支配下に入れ、魏の後ろ盾もありヤマトを圧迫する大勢力となってヤマト勢と対立し、抗争を続けることになった。スサノヲは四国や紀伊半島から東海・関東地方の国々を味方に引き入れようと活発に活動したのではないだろうか。各地で争いが頻発し、第3次倭国大乱となった模様だ。

ミイラ採りがミイラになってしまったと、ヤマトの大王は怒りに打ち震えただろう。倭国に圧倒されそうな状況のヤマトの大王としては吉備と尾張を中心に東海・関東の国々を糾合して裏切り者のスサノヲ・台与の倭国を攻める計画を纏向で練ったに違いない。

ヤマト勢は大軍勢を集め、吉備の物部氏を先頭に一気に瀬戸内海を渡って九州に侵攻した模様。まず豊前を攻め、その後二手に分かれ、一方は宇佐に南下し安心院の女王の居城を攻略、もう一方は博多から筑紫平野になだれ込み北九州を制圧した模様だ。地政学的な重要拠点の日田を奪われたスサノヲ軍は高良山に立て籠もって抵抗し、その間に台与とスサノヲの子(ホムダワケ)を有明海に逃がした。台与らは南下して野間岬を回って霧島周辺に落ち着いたのではないかと関裕二さんは推理している。

霧島市隼人町には神武天皇年間の創建と伝えられる鹿児島神宮(大隅正八幡宮)がある。神武天皇と応神天皇は同一人物だとしているので、丁度そのころ台与とホンダワケが宮殿としたということだろう。社伝では主祭神は山幸彦と豊玉姫夫妻だが、後の時代に八幡神を合祀したので相殿神に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・中比売命(応神帝の皇后)に加えて、何とあの呉の太伯が日本では唯一祀られているのには驚いた。やはり奴国の初代王天御中主(記紀に現れる天地開闢の神、中国の正史「宋史」の「王年代記」にある)は呉王夫差の一族ということか。

815年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」には松野連(まつののむらじ)の出自が呉王夫差と記されている。しかしその後呉王夫差から後の松野連系図が発見されるが、その出所が明らかでなく、卑弥呼や台与や倭の五王などが記されているとのことだがその信憑性については疑問だ。江戸時代に系図作りが流行したようだ。しかし、皇室に纏わる大隅正八幡宮に太伯が日本で唯一祀られていることは重要な事実だと思う(^O^)/

さて、ヤマトの倭国再追討は大成功だったが、台与が逃げ込んだ南九州は隼人や熊襲(くまそ)の勢力範囲なので、九州掃討のために新たに軍が送られたのではないだろうか。それが景行天皇の九州巡幸として、あるいはヤマトタケルの熊襲の首長の川上梟帥退治の話として日本書紀に記されたようだ。前にも述べたが日本書紀ではこのあたりの大和王権成立の事情を何とか隠したい理由があり、4人の神の名の付く時代の異なる天皇と皇后や景行天皇や仲哀天皇などを配置したのだから、素直に記紀の話を信じると真相にたどり着けない仕組みになっているのだ。これについては次回の話としよう。

そうこうしている間に中国大陸では大事件が起った。280年、呉が晋によって滅ぼされてしまった。多分、呉も必至で倭国と同盟しようと動いていたが、卑弥呼は魏と同盟したので、その敵対勢力の狗奴国=ヤマトと同盟したのだろう。だからその後ろ盾が消えてしまったらヤマトの大王としてはどうしたらいいのか慌てたことだろう。

そこで、グッド・アイデアが浮かんだ!

そうだ、魏の跡を継いだ晋に朝貢していた台与に子供がいたな(^O^)/
しかもその子供はヤマトの大王と同じ血筋の奴国王スサノヲの子供だ。
台与の子供を至急探し出し、娘と結婚させて先祖を祀る祭祀王にして、実権は今までどおりヤマトの大王が握れば良いと判断した。

多分それ以後の日本の外戚政治のはじまりといえるものだ。

この話が、崇神天皇五年から六年にかけて疫病やら流民や反逆が発生し、七年二月十五日大物主が祟っているからその神の子オオタタネコに祀らせよとのお告げがあったので、探し出して祭主としたら疫病も収まり、国内はようやく静まったという話だと関裕二さんが見抜いた。神武天皇の東征の話ではナガスネヒコが饒速日(ニギハヤヒ)に逆らったので殺された。神功皇后は仲哀天皇の二人の皇子が応神天皇の大和入りに抵抗するので排除した。神武天皇も神功皇后も武力で制圧したというよりも、呪術で目的を果たした。これらは全て一つの話だった。記紀では時代を分けて話を作った。

これがヤマト王権成立の真相ではないかと思う。今までの話を整理すると図のようになる。
イメージ 1
従来、邪馬台国九州説では邪馬台国東遷説というのが結構人気があって九州から大和に王権が遷りヤマト王権が生まれたという神武天皇の話に重点を置いたものだったが、真相は北九州を中心とする倭国が大和に吸収されたということだ。

この後にスサノヲや台与が支配していた出雲から越までの日本海沿岸の国々などがヤマト王権によって懐柔されていく。崇神天皇の四道将軍の話でありヤマトタケルの東国遠征の話だ。その後に起こるヤマト王権の半島経営の話が倭の五王の話だ。シナを宗主国とするのを嫌い、それを隠すために神功皇后の三韓征伐の話が作られたと考えられる。日本書紀が日本のアイデンティティを主張するためのものであると考えれば理解できるが、その点については次の話にしようね。またよろしくお願いします(^^♪

【参考文献】
関 祐二「天孫降臨の謎」PHP文庫

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