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刮目天(かつもくてん)の古代史ブログだ!
古代史の謎を話題にしてブログ書きます(^^♪!邪馬台国問題は解決か?(*⌒▽⌒*)

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日本建国についてはいろいろな考え方があると思うが、国家の要件が領域・住民・実効支配の三つだというのは、今の国際社会でも変わらないから、その三要件が確立された時点で建国と見ることができるのではないかな。そういう観点から見ていこうか。

まず、国号はともあれ日本が最初に歴史に登場するのは西暦57年に後漢の冊封体制に組み込まれ金印をもらった倭の奴国だ。岡田英弘さんは、この段階の奴国は後漢帝国の倭国における領事館というような役割だとしている。後漢の皇帝は貿易商社の社長という表現をしていたから、奴国王はさしずめ倭国支店長かな。でもシナとの交易権を認める替わりにシナ商人の取引を確保する義務を負うということのようだ。

その後107年に倭王帥升らがまた後漢に朝貢。「後漢書」に「倭王帥升等云々」とあるから倭の中の国々の代表者であるという意味で倭王と認められたようだ。倭王が交易を支配する領域が倭国の国々であって、その国々の筆頭代表者ということのようだから、シナの子会社か系列会社の社長ということかな。

そして3世紀後半に倭女王卑弥呼の跡を継いだ台与が晋に朝貢した後、シナ大陸が内乱(五胡十六国時代)で倭のことを記録する暇がなかったようだ。しかし、4世紀末の様子がようやく高句麗の広開土王碑文に「そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。」と記録された(Wiki「好太王碑」より)。

その後、倭の五王(賛・珍・斉・興・武)が半島に進出して、宋の皇帝から官位を任命されていたことが『宋書』「倭国」に書かれている。476年、「この年、倭王武、上表して自ら開府儀同三司を称す。使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命さる」。次の王朝の史書「南斉書」によれば、倭王武はさらに479年「鎮東大将軍」、更に次の「梁書」によれば502年「征東将軍」に進められるとある。シナ皇帝の権威を利用して半島支配を行ったことを示すものだが、シナの状況は支配者がコロコロ変わるから、実質的には余り意味がなかったのかも知れない。

600年、「隋書」によれば倭王阿毎多利思比孤(アメノタリシヒコ)が第一次遣隋使を送る。前回述べたように、日本書紀では推古八年に当たるが、推古十五年第二回の遣隋使で阿毎多利思比孤(通説では聖徳太子)が「日出ずるところの天子云々」と書を送り、煬帝が激怒?した記事が「隋書」にある。女帝推古と記した日本書紀を疑わざる得ないが、聖徳太子の時代は隋と対等の大倭(大和)国だ。ということは、やはりその前の倭の五王の武王(雄略天皇)の時代には精神的にすでにシナの属国からは独立していたということだろう。つまりシナの官位要請は半島経営の方便ということだ。

少し話は戻るが、3世紀後半に狗奴国ヤマトが二度にわたって倭国の本拠地である豊前・豊後・筑前・筑後を攻撃し、占領して版図を拡げている。前に述べた通り、さらに出雲から越までの日本海沿岸部、四国・中国地方、紀伊半島南部から東海・関東までスサノヲ(武内宿禰)と台与が手を拡げていたので、ヤマトの大王はそれらの地方を平定する必要があった。それが崇神紀にある四道将軍や景行天皇の九州遠征の話であり、その総集編として日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の武勇伝が再度「日本書紀」に記された。ヤマト王権に従わない「まつろわぬ者」はクマソタケルやイズモタケルのように騙し討ちにあったが、大方は「言向け和平(ことむけやわ)」してヤマト王権の傘下にして行った。
イメージ 1

ヤマトに恭順する証しとして祭祀方式を変更させたのだろう。つまり、この時期に各地の銅鐸・前方後方墳などの祭祀方式から三角縁神獣鏡・前方後円墳への移行が急速に日本全土に広がったようだ。戦いで滅ぼして征服していったわけではないので、それまで行われた古墳だけは尊重され、その地方の墓域に共存している。つまり古墳は破壊されることなく、首長の交代などもなく移行がスムーズにできた。やはり、スサノヲ(武内宿禰)の子を大倭国王=ヤマトの大王にしたことによる効果ではないかな(^_-)-☆。

これも前に述べたが、ヤマトという言葉は山戸、山門のことで、海への入り口であるミナト(湊、港)と同様に、海に面した平地から山地への入り口を指す普通名詞だ。

奈良盆地のヤマトを大倭国と書くのは、前述の通り政治の中心が九州の倭国から東に遷ったもの、つまり邪馬台国の後継、あるいはそのものだとシナに主張するためだ。そして纏向の地で東西の勢力が和平することにより安心院盆地のヤマトを中心とする倭国と奈良盆地のヤマトが大いなる和平・合体して大倭国となったと云う意味を表すために大和と書き改めてヤマトと呼ばせたものと考えられる。

欠史八代の5天皇の和風諡号あるいは日本武尊の名として、「日本」と書いてヤマトとよばせているが、日本書紀編纂の時代「日本」が国号だが、「日本」をヤマトと呼ばせて古来の倭国を継承した国家と主張するためのようだ。ただし、シナ人は「日本」「大和」「大倭」と書いてヤマトとは絶対に発音しないからその意味が解らなかったようだ。それが「旧唐書」の撰者が日本人を訝しく思った原因ではないだろうか(「倭国自らその名の雅やかならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」と。或いは云う、「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。其の人、[唐の]朝[廷]に入る者、多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以って対(こたえ)えず。故に中国はこれを[どこまで真なりやと]疑う)(藤堂明保他「倭国伝」講談社学術文庫 p.208)

倭人が発音したヤマトの音(ヤバド、ヤマド)を聞いて漢字で「邪馬台」・「邪摩堆」としてシナの正史に記述されたのではなかろうか。『後漢書』「倭」では大倭王の都が邪馬台国、「魏志倭人伝」では「女王の都のある邪馬壹(臺)国」、「隋書」では「邪靡(摩)堆に都す。即ち、『魏志』に謂う所の邪馬台なる者也」。ただし、「魏志倭人伝」では邪馬臺国の「臺」は皇帝の居所を意味するのでそれを避ける意味で似た字「壹」を用いたが、「後漢書」撰者の范曄が391年に倭の遣使が奈良盆地のヤマトからあったことを知ったので「臺」が適切と考えて「邪馬台国」と記述し、それが受け継がれていると考える塚田敬章さんの説が妥当だ。

「日本」と言う国号が使われたのは7世紀後半の天武天皇か、8世紀初頭の持統天皇の頃というのが通説のようだが、推古朝というのが正しいのではないだろうか(「倭国を日本と改めたのは誰か」 )。

天智天皇の時代670年に初めて戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が作られ、671年近江律令が施行され(正確には令だけで、律令は701年「大宝律令」が最初)、次の天武天皇により新生日本国のアイデンティティのために「日本書紀」の編纂が始まり、日本語が作られるのもその頃のようだ。岡田英弘さんは663年の白村江で唐・新羅に負けてから日本が建国されたと述べているが、ここまで見た通り倭の五王の時代、あるいはその前、つまり応神天皇即位でいいのではないだろうか。前に述べた通り応神天皇と神武天皇は同一だから、280年の直後にはヤマトの大王として即位したわけで、それが7世紀初頭に「日本」と国名を替えただけと考えれば、日本の建国は神武天皇即位としていいのではないかな。ただし、紀元前660年ではないが。

一応これでシリーズは終わりです。最後まで読んでいただき感謝します。今後もよろしくお願いしますね(●^o^●)
 【参考文献】
岡田英弘「日本史の誕生」ちくま文庫
塚田敬章「邪馬壹国か、邪馬臺国か? 「邪馬壱国説」を支持する史料とその解説」http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/yamai_yamatai/yamai_yamatai.htm 
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