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刮目天(かつもくてん)の古代史ブログだ!
古代史の謎を話題にしてブログ書きます(^^♪!邪馬台国問題は解決か?(*⌒▽⌒*)

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弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」
 
 吉野ケ里遺跡(神埼市郡)で出土した「外来系土器」のルーツの解明が進んでいる。他地域から持ち込まれた土器は「畿内系」などと推定していたが、地域が具体的に絞られてきた。同遺跡は、九州では珍しい「前方後方墳」も存在するなど、弥生終末期には他地域の政治・文化の影響を強く受けていたとみられる。県文化財課は「交流を調べることで、弥生から古墳時代へ移り変わる動乱期の実態や前方後方墳の謎に迫れるかもしれない」と期待している。
 7月下旬に吉野ケ里歴史公園で開かれた考古学者約70人の研究会で、複数の学者が型や文様、発色などから外来系土器の具体的な地域を判定した。同遺跡で出土した外来系土器は約190点。これまでは畿内系、西部瀬戸内系など幅を持たせて呼んでいたが、今回の研究会で十数点の出自が特定された。
 県文化財課が「畿内系」としていた「手あぶり型土器」は、滋賀県守山市周辺で出土した土器と同型であることが判明。県文化財課は「土器に使われた土が吉野ケ里とは異なる。何らかの交流があったのは間違いない」とする。
イメージ 1
手あぶり型土器(同記事より)

 吉野ケ里の南内郭で見つかった4基の前方後方墳は、弥生終末期に出現。甕棺(かめかん)や石棺(せっかん)で埋葬していた吉野ケ里で、なぜ近畿でよく見られる前方後方墳が造られたのかは明らかになっていない。県文化財課は「『墓制』が変わるということは、集落にとって非常に大きな変化。当時の守山市の集落との関係を調べることで、何か分かるかもしれない」と解明に期待を寄せる。
 守山市文化財保護課によると、吉野ケ里の手あぶり型土器は弥生終末期から古墳時代初頭に作られたとみられる。「関東では、前方後方墳の発生とともに手あぶり型土器が流入している。両者は文化的にセット関係にある」と説明。「九州北部でも、近畿の文化要素が波及したのでは」とみる。

 このほか、奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定。瀬戸内地域産とみられていた加飾つぼは、岡山市付近の土器と同型であることも判明した。吉野ケ里遺跡にさまざまな地域の土器が持ち込まれているが、吉野ケ里から何が見返りとして持ち出されたのかは分かっていない。
 県文化財課は「弥生から古墳時代に移り変わる当時の状況はよく分かっていない。外来系土器のルーツを手がかりに、交流があった地域との関係を詳しく調べたい」としている。

 ■外来系土器 他地域で作られたものが持ち込まれたり、それを模倣して作られた土器。他地域の年代を並行的に調べることができるほか、物資や人々の往来を知る手がかりとして注目される。吉野ケ里遺跡では朝鮮半島や北九州、近畿などさまざまな地域の土器が出土しているが、これまで詳細な絞り込みはできていなかった。 
 (2013年08月26日更新 佐賀新聞
 
外来土器が古代史解明に大きな役割を果たすことは前に述べたとおりだ。

3世紀初頭に突然奈良盆地の三輪山麓に出現した政治都市の纏向遺跡に、北九州から来た土器が見つからないのは邪馬台国大和説が間違いである端的な証拠だった。魏志倭人伝では大率伊都国(福岡県糸島市)に置いて、女王国より北の諸国の検察させたとあり、もしも邪馬台国が纏向にあったというなら、この時期に北九州の土器が纏向遺跡で大量に見つからねばならないからだ

同様に、この記事の外来土器などの情報はかなり有用だ。近江の手あぶり用土器が見つかったということは、近江の人々が佐賀までやってきたと考えていい前方後方墳は近江から主として東国に波及・分布しているから近江勢の勢力範囲ということだ。古墳の形式は、その地方がどの勢力圏にあるかを示すものだと言える。初期の古墳は首長祭祀が目的だから、同じ形式ならば同じ血族関係、つまり先祖を同じくする同族と考えられるね。

東近江市の神郷亀塚古墳の前方後方墳が最古のものだと言われているが(3世紀前半)、佐賀県鳥栖市にある赤坂古墳が九州最古級(3世紀後半)の前方後方墳と言われている

「第2話 神功皇后は邪馬台国の女王?」で述べたように卑弥呼の宗女台与は近江と越の女王だから、台与が九州遠征に連れてきた同族の将軍らの墓ではないだろうか。

台与と言う名前だが、「魏志倭人伝」によれば「邪馬壹国」と同様「壹与」と記されている。しかし、前回述べた通り邪馬壹国は邪馬臺国の「」の字を避けて、似た漢字「」と書いたのと同じ理由だ。意味的にも東夷の女王に「臺を与える」などと書けば皇帝が激怒して、報告者のクビが飛ぶ。司馬懿のクビも怪しくなるはずだから絶対にこの字は書けない!

臺与」はトヨの発音から書いたのは明らかだが、後に「(とよ)」という字が女王台与を意味するものとして使われたのだろう。

刮目天は投馬国を遠賀川流域と下関を含み企救郡から京都郡を含む行橋平野がその領域だと考えている。そして邪馬台国だが、豊前市から中津・宇佐までの豊前平野は豊前、豊後高田から国東半島とその南の大分平野などは豊後と呼ばれている。つまり(トヨ)の国=邪馬台国を意味している。やはり中心は豊前と豊後の境の宇佐の安心院盆地だったと分かる。

トヨが女王になった当時(248年頃)はまだ、戦乱が続いていた訳だから防衛上女王の宮殿は安心院盆地のヤマトに置いたが、266年に魏から帝位を禅譲された晋に素早く朝貢したその時期は非常に落ち着いていたのだろう。だからこそ前に述べた青大勾玉を糸魚川から手に入れて晋に貢物として贈れたと云える。そのころ奈良盆地の狗奴国はトヨ(神功皇后)とスサノヲ(武内宿禰)の倭国に圧倒されて、必死で対応策を練っていたのだろうね(^_-)-☆

だから、この平和な時期には投馬国の周防灘に面した京都平野は半島南部の倭人や辰韓のシナ人などや日本列島各地の珍しい産物を持ってくる倭人や縄文人などで賑わったのではないだろうか。豊津という地名が現代に残っているのは、女王トヨに因む地名だから、女王トヨは何度か滞在したのだろうね【注1】。

勿論、九州の穀倉地帯の筑紫平野にも度々訪れたはずだ。神功皇后に因む地名などが北九州各地に残されている。そういえば、宇佐神宮名物の「宇佐飴(うさあめ)」も神功皇后に因むものだったね。

なお、上の佐賀新聞の記事の最後の方にあった、奈良盆地の庄内甕が福岡付近で作られたものだという発見だが【注2】、古墳時代に入る直前の弥生時代終末期180〜300±20年)ということだ(石野博信討論集「倭国乱とは何か」新泉社,p.83)。だが「第3話 ヤマト王権成立の謎?」で述べたように、既に卑弥呼が女王に共立された後の第二次倭国大乱で狗奴国ヤマト勢が北九州の倭国を討伐した248年ころからヤマト王権が成立する280年ころまでの話だ。この時代、北九州と奈良盆地の人的・物的交流が盛んになったことを示している。だとすれば仮説が正しいという証拠のひとつだね(●^o^●)

今後は、「第3話 ヤマト王権成立の謎?」で図示したヤマト王権成立過程の仮説の考古学による検証について、もう少し詳しく述べるつもりだ。また、お付き合いくださいね(^O^)/


【注1】7世紀初頭に隋の煬帝のヤマト王権への使者が、竹斯国(筑紫国)から東へ向かい、この京都郡(みやこぐん)の辺りで、陝西方言のシナ語を話す人間が多く集まっているのを見て秦王国と呼んだと考えている。新羅の前身の辰韓は秦の始皇帝の圧政を逃れたシナ人が集まって村を作ったようだ。倭人も混ざって盛んに鉄を採ったところだ。倭国東北1千里にある多婆那(タバナ)国から来た倭人の脱解王伝説もあるね。多婆那国が「丹波の那国」だとすれば奴国を追放された第18代国王スサノヲ(初代)のことかも知れないね(^^)/

【注2】2007年9月4日 矢塚古墳の前方部を確認(桜井市広報「わかざくら」)なのか確認できていない。しかし福岡の庄内甕については、福岡市博物館のアーカイブNo.305[平成19年9月4日(火)〜平成20年1月14日(月祝)]に以下の記事が載っていた。どうも、最初の佐賀新聞の記事と見解が少し異なるようだ。

人が集い モノが集う
(途中省略)
奈良盆地では庄内式土器とよばれる、非常に薄手で軽い甕が作られました。この奈良盆地産の庄内甕は単に福岡平野に持ち込まれただけでなく、在地の土器作りにも影響を与え、庄内甕とよく似た甕が作られるようになりました。
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