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			<title>刮目天（かつもくてん）の古代史ブログだ！</title>
			<description>どうも！名前は刮目天　一（かつもくてん　はじめ）です。
古代史の謎の解明をライフワークにする理系おやじです。古代史を勉強するうちに日本と日本人のことが解り、日本が大好きになりました。今みんなが植え付けられている自虐史観は何とかしないと日本は存続できないと確信しています。なので日本を愛する仲間のＳＮＳ「ｍｙ日本」でも活動しています。そこでたまに古代史の記事を書いてましたが、古代史好きの人たちとも交流したくてこちらに古代史専門のブログをアップします。どうぞよろしくお願いします(^_-)-☆</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>刮目天（かつもくてん）の古代史ブログだ！</title>
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			<description>どうも！名前は刮目天　一（かつもくてん　はじめ）です。
古代史の謎の解明をライフワークにする理系おやじです。古代史を勉強するうちに日本と日本人のことが解り、日本が大好きになりました。今みんなが植え付けられている自虐史観は何とかしないと日本は存続できないと確信しています。なので日本を愛する仲間のＳＮＳ「ｍｙ日本」でも活動しています。そこでたまに古代史の記事を書いてましたが、古代史好きの人たちとも交流したくてこちらに古代史専門のブログをアップします。どうぞよろしくお願いします(^_-)-☆</description>
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		<item>
			<title>邪馬台国の見つけ方^^;</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku349.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;３．古代史を考えるにあたっての国際性、学際性の必要性&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku349.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;（&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku349.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#555555&quot;&gt;邪馬台国の会&lt;/font&gt;第３４９回講演会）&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;strong&gt;洛陽での三角縁神獣鏡を示した王趁意氏は国土資源資源局長であり、地方政府の官僚である。中国の官僚について、谷崎光氏が書いてる本が参考になる。&lt;/strong&gt; &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（中略）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;（&lt;a href=&quot;https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B7%E8%84%B3%E4%B8%AD%E5%9B%BD-%E5%A5%B3%E8%84%B3%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%AF%E9%A8%99%E3%81%99%E3%81%AE%E3%81%8B-%E8%B0%B7%E5%B4%8E-%E5%85%89/dp/4797672196&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;谷崎光氏の）『&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B7%E8%84%B3%E4%B8%AD%E5%9B%BD-%E5%A5%B3%E8%84%B3%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%AF%E9%A8%99%E3%81%99%E3%81%AE%E3%81%8B-%E8%B0%B7%E5%B4%8E-%E5%85%89/dp/4797672196&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;strong&gt;男脳（おとこのう）中国・女脳（おんなのう）日本&lt;/strong&gt;』（集英社インターナショナル、2012年刊&lt;/a&gt;）中国の「官僚」や「地方政府」に関した文章を書きぬく。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「ちなみに中国で一番、金持ちが多い都市は上海ではない。官僚のいる北京である。&lt;br&gt;
2007年、新華社が中国の100億元（1300億円）以上の億万長者3220人のうち、2932人が官僚というニュースを流したが、すぐに消されてしまった。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;（コメント）官僚が、そんなに金持ちになってよいのであろうか。日本では考えられないことである。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「企業のほうも、官僚の娘や息子を雇っておくと、いろいろ有利なため、実際は出勤もせず顧問料だけを受け取る官二代もたくさんいる。北京の某大学の老師によると、受け持ちの学生で一番最初に就職が決まったのは北京の官僚の娘、次に有名俳優の息子が映画界へ、他は能力があっても今年はイマイチと嘆いていた。」 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/katudou/image2/349-08.gif&quot;&gt;http://yamatai.cside.com/katudou/image2/349-08.gif&lt;/a&gt;&lt;br&gt;
「工場などの大規模な進出の場合、地元政府にしてやられることも多い。&lt;br&gt;
契約した土地は水も電気もない（企業側に整地させるわけである）、法律で工場が建てられない！　認可かおりない、借金まみれの国有企業を倒産させた跡地で権利が複数の人に売られていたりする。&lt;br&gt;
また土地ころがしのところに一時つなぎに入れられ、地価が上がったとたん法律を変えられ追い出しをくらう、買った土地が登記できない、合弁相手が隣にニセモノエ場を建てていた……などという泣きそうになる話が続出している。&lt;br&gt;
中国と合弁する場合、中央政府直轄の『国有資産管理委員会』『工業信息部（強いていえば昔の日本の通産省）』などと組む方法と、省政府以下の地元政府（小さな市や県など。『県』は日本と違い市よりも小さな行政単位）と組む場合があるが、後者はほぼ100％騙し、と言われている。いわゆるトヨタなど日本の大メーカーは中国の大国有企業との合弁でもあり、中央政府直轄扱いになる。一方、中小企業などが進出する場合、地元政府と組むことになる。&lt;br&gt;
うまくいく場合もあるが、途中でいろんなことを覆されても、中央政府は関与しない。地方政府はその土地の司法と警察を全部握っているから、訴訟などしても勝ち目はない。&lt;strong&gt;基本的に地方政府と組むのは怖いヒモの付いているホステスさんと付き合うようなものである。&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;だから個人でビジネスをしたり地方政府（の傘下）と組むとしたら、リスク承知で一件一件を固めていくしかない。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;br&gt;
「&lt;strong&gt;中国に進出するということは、すなわち『夜の世界』に突入することである。&lt;br&gt;
夜の世界＝玄人の世界&lt;/strong&gt;、と言ってもいい。&lt;br&gt;
ここで言う玄人は『プロフェッショナル』の意味ではなく、人間は本来、性悪、と知っている人々である。&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;    恵まれた世界では誰でも表向きはよい人でいられる。&lt;br&gt;
が、いざとなると人は裏切るし、怠けるし、嘘をつく。自己保存の本能ともいえよう。&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;食べ物が足りないとか、極度に貧しく、衣食住にも事欠くとき、人間のこういう動物的な面が出現しやすい。日本では戦後の一時期がそうだったが、中国はその状態が何千年も続いた。近代５０年間ほども、無法地帯で力が支配する闇市状態だった。結局中国人は長い間の飢えがあり ━人の性悪を知り━ 玄人になっていったのだろう。&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;    現在でも中国は暴力で政権をとった集団（中国共産党）がやはり力（私兵━中国では軍隊は国ではなく共産党に属する）で支配する無法地帯である。&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;今の日本人は自分の仕事については責任感が強く、技術や専門知識が豊富でも、こういう世界を生き抜くことについては素人である。人を善人と思いこみやすく騙されやすい。」&lt;br&gt;
「ここは夜の世界、と思えば、彼らの嘘の多さも見栄もプライドも多少は理解できるだろう。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「そして最後には、『合弁契約で騙された。土地は登記もできない』『大切にした社員が情報を持って中国系の会社に高給で転職した』『売上と客を根こそぎ持っていかれた』『お店の権利を取られた』『教育したのにすぐやめて恩知らず』と怒りや嘆きにかられる。」&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「中国人にももちろんまじめな人もいるし、日本人にもふまじめな人もたくさんいる。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;基本は個人差、という前提で誤解を恐れず言うならば、中国人一人が一生につく嘘の量の平均値は日本人の１００倍以上だろう。学歴、階層はまったく関係ない。&lt;br&gt;
&amp;nbsp;原因は短期の利を追う社会、正直な人が損をする環境、自己チュー的な性格、面子を過度に重視するためである。日本だったら何でもないようなことでも、嘘をつかないと物事がうまく運ばないという部分もある。嘘までつかれて『給面子（顔を立てる。面子をあたえる）』機嫌をとられても私はうれしくないが、男・中国様はまた違うのだろう。男というのは、ホステスさんのおだてに、嘘と知りつつ高い金を払う動物である。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「現地で働く日本人技術者の言葉は説得力がある。&lt;br&gt;
彼らは技術屋ではない。奇術屋だ。そもそも比べる対象ではない。優れている、優れていない、という区別ではなく、&lt;strong&gt;中国人技術者には『考える』という過程が抜け落ちている。いや、存在しないという表現のほうが正しい。&lt;/strong&gt;こういってしまうと身も蓋もないので、『モノマネはできるが』と前置きして。（中略）他社のモノマネ商品を作って持ってくる。それは品質トラブルが出ていると指摘すると、いや、そこより安く市場に出せるから大丈夫とくる。（『ＫＡＮＡＮ　ＭＯＮＴＨＬＹ二』2011年5月、6月号）」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（中略）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#00407f&quot;&gt;狩猟民族の『嘘の肯定』&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（中略）&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「戦争＝戦いの本質は何か。&lt;br&gt;
『略奪』である。&lt;br&gt;
食糧や資源や土地や人を奪い合う。名誉や大義名分も奪い取るもの。&lt;br&gt;
漢（オトコ）の中の漢、『男子漢』の中国様は、女のように何かをちまちま時間をかけて育てたりはしない。馬や食糧や女や奴隷は奪ってくるもの。&lt;br&gt;
今もコピー商品で人の努力や才能を奪って平気、時間を守らず人の時間を奪って平気、自己チューである。&lt;br&gt;
もっとも地球規模で見れば、この略奪型のほうが標準かもしれない。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「中国の領土支配は、広域暴力団組織のようなもの、と言ったのは『貝と羊の中国人』の加藤徹氏である。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「だからこそ私は、こう断言する。&lt;br&gt;
『中国（男）を信じるのはやめましょう。大切なのは、中国（男）を理解することなのです』」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「『性善説』の日本企業、さぞかしいろんな被害にあっていると思われるが、気づいてすらいないかもしれない。」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（以下省略）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本人の真面目な研究者が、海千山千の中国共産党の地方官僚に、洛陽で三角縁神獣鏡がでたというガセネタを掴まされた話のようだ(-_-メ)。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;ウソをつくのは不真面目だと考えているのは日本人だけかも知れない(≧◇≦)&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
そう言えば、シナ政府の報道官を見ていれば良く分かるが、堂々とウソを言えることが大事だ。本当かどうかは別だ。軍事力さえあれば弱小国はシナの言うことを聞かざる得ないということだね(-_-メ)；&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;しかし、事実を軽視する人たちは事実を怖れる！メンツが大事だからか？&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;だから、事実を言う奴を暴力で黙らせるか、次々にウソを重ねなければならない。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;日本人と違い罪の意識はない。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;ウソをつくことが仕事だと割り切っているようだ。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;やっぱりヤクザの世界だった(-_-メ)；&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、邪馬台国の正しい位置は魏志倭人伝からは読み取るのは難しいから中々解決しなかった。何故ならば魏志倭人伝はある場所に邪馬台国を置きたかった。だが、その場所は海の中だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
つまり、&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;在りもしないいい加減な場所を書いたということだ。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、魏志倭人伝を正しく読めば正しい位置が分かると言うまじめな研究者もいるようだが、それは大間違いだ。別にまじめな方をバカにしているわけではない。漢籍の本場の現代シナ人が正しく読んでも答えは同じだった。在りもしない場所しか魏志倭人伝は示していないからだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;strong&gt;ウソを見抜く力こそ邪馬台国問題解決のカギなのだ&lt;/strong&gt;！&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、何でそこに邪馬台国を持って行きたかったかだが、それは前に述べた通り、正しい位置に邪馬台国があっては困ると言う当時の関係者の個人的な理由からだ（【&lt;a href=&quot;http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2thdHVtb2t1MTAxLzE1MTQ0MDQwLmh0bWw-&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot;&gt;【新説】邪馬台国はここだ！(その２)&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;、&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15144551.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;その３&lt;/a&gt;　参照）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;元々シナの正史だけでなく日本の正史「日本書紀」なども政治文書だから、文章を正しく読んだところで直ぐに真実が分かるはずはない。でも、全てデタラメかというとそうではないことは他の歴史書や考古学の成果等から確かめることができ、そこで推論が検証される。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;魏志倭人伝の作者の陳寿が執筆に利用したのは邪馬台国を記述した魏使の報告書などだが、すでにそこに邪馬台国の行程記事があったからそれを土台に書けたわけだ。その報告書が現在残っていないのが残念だが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;もっとも魏志倭人伝の原本も残っていないので、前に述べたとおり、現存する１２世紀の版本の文字の転写ミスの疑い（「会稽東治」か「会稽東冶」、「陸行一月」か「陸行一日」）や、元々意図的に「臺」の字を「壹」に改変したとか、短里（魏の１里約４３０ｍのところを約８０ｍと実際の１／５程度にしている）を用いた行程の記載や、不弥国から里程をいきなり日数に変えた議論などがある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;伊都国からの行程を並列で記載したとか対馬や壱岐の外周も計算に加えるとか、常識を超えた天才的な解釈で自説に導く努力がなされているが、それらの真偽については総合的な推論結果を検証して判断する他ない。あれだけいい加減な記述だと、邪馬台国は四国だとか、いや岡山だ、宮崎だ、熊本だったとか、町おこしで頑張るその地元の人たちには大受けするかもしれないが、ほとんど学術的に相手にされないし、日本に存在しないとか云う説も考古学の成果から考えて、とても受け入れられない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;邪馬台国問題の解決には、従来の議論を踏まえ、魏志倭人伝に書かれる次の根本問題に上で述べたような新たな発想の注入が必要なのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9312;何故、邪馬台国が会稽東冶（治）の東海上に存在しなければならないのか？&lt;br&gt;
&amp;#9313;何故、帯方郡から東南１万２千余里に存在しなければならないのか？&lt;br&gt;
&amp;#9314;何故、現在の糸島市に在った伊都国へ、道なき道を５百里も陸行しなければならない末廬国にわざわざ上陸して、そこから明らかに間違った南東方向（実際は北東）を記載する必要があったのか（すでに周時代以来伝承されてきた種々の天文算術知識を後漢末頃に集成して「&lt;a href=&quot;http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogaki.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;周髀算経&lt;/a&gt;（しゅうひさんけい）」が成立している。だから、３世紀後半のシナの役人が方角を９０度も間違うのか？絶対あり得ない話だ）？&lt;br&gt;
&amp;#9315;何故、「不弥国から南に水行二十日で投馬国」と不弥国から先、邪馬台国まで日程で書いたか（「隋書」に「倭人は里数を計ること知らず、距離を計るには日数で数える」とあり、シナ人は倭人を未開人だと嘲笑している感じだ）？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9316;何故、「南に行くと邪馬台国。女王の都とする所。水行十日陸行一月（日）」と途轍もなく遠い所に女王が居ると書いたか（そんな遠いところに都を置いて、国々の長官らが女王の言葉を聞けたのかも心配だ）？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;新たな発想とは、陳寿が利用した魏使（梯儁と張政）の報告書からそういう記述になっており、陳寿にとってもそれが都合が良かったと云う仮説を立てることだ（【&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/MYBLOG/yblog.html?m=lc&amp;amp;p=3&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;新説】邪馬台国はここだ！&lt;/a&gt;その２、その３　参照）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは、邪馬台国の外交・内政の実権を持っていたのは&lt;strong&gt;伊都国に居た男王&lt;/strong&gt;という推論だ。&lt;strong&gt;伊都国の男王が魏使と談合して報告書を書かせたと考えた理由は、以下のとおりだ。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;a)伊都国に「代々王が居た。（王以下）皆が女王に統属している。（伊都国に）往来する（帯方郡）の使者が常に駐まる。」と魏志倭人伝にある。&lt;/strong&gt;王墓にふさわしい副葬品の数々が付近で発見されている糸島市の三雲遺跡で硯の欠片が発見された。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;b)伊都国に長官１名、副官２名に加え、「大率を置いて女王国より北の国々を検察させたので、国々は畏れ憚った」とあり、大率は長官より上位の伊都国の男王の指揮下にあったと考えられる&lt;/strong&gt;（大率は刺史のような役職とあるが、帝都から遠方に派遣される刺史そのものではない）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;c)「女王は独身で、千人の侍女とただ一人の男子が飲食を給仕し、指示を受けるために（女王の宮殿を）出入りして、男弟が政治を助けた。」とあり男弟が男王だと見做せる。&lt;/strong&gt;給仕の男は男王（弟）の配下だと考えられる（狗奴国が倭国に侵攻してきた時期の２４７年ころ、卑弥呼が死んだ。日蝕で霊力が衰えたと見て殺されたのかも知れない。だとすれば、卑弥呼が人前に姿を現さないので、この男子が男王の指令で殺したのかも知れない）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;d)倭国内の国名が伊都国のみ良い意味の好字で記され、他は悪字が多用されている。&lt;/strong&gt;邪馬台国は邪な馬が王なのか？(^^♪奴国という字は後漢光武帝の時代に付けられたが、狗奴国を犬ころの奴国とバカにしている。前述のとおり、伊都国は王の住まう都、あるいは「伊」は殷（商）が夏を滅ぼす際に活躍し、殷王を補佐し、数百年続く殷王朝の基礎を固めた「伊尹 (いいん)」を連想させる国名だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;e)帥升王から倭国大乱が発生する前の７、８０年間は子孫によって正常に統治されていたとみられ、倭王は反倭王勢力を懐柔し、和解のため反倭王勢力の中心的な立場に在った邪馬台国の女王卑弥呼を倭国の女王に共立したと考えられる。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;f)更に、帥升王等は１０７年に後漢の安帝に朝貢し、生口１６０名を献上して倭王の座を認定された。&lt;/strong&gt;旧奴国王を殺したか追放し、王の家臣を大量に捕虜にして奴隷としたと考えられる。江戸時代に志賀島で金印が発見されたことは&lt;strong&gt;奴国が滅亡&lt;/strong&gt;したことを示唆する。また、大和地方の地名と北九州（旧奴国から筑紫平野）の地名と位置関係が一致することからも大和地方に旧奴国の王族が移り住み、往時の繁栄を懐かしんだものと推理できる（&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15148441.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;高天原は奴国だ！&lt;/a&gt;　&lt;a href=&quot;http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2thdHVtb2t1MTAxLzE1MTYxOTMzLmh0bWw-&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;2&quot;&gt;第１話　ヤマト王権は狗奴国だった？&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;　参照）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これらのことから&lt;strong&gt;政治・外交の実権は男王が握っていた&lt;/strong&gt;と推理できる（従来の説明では何故、倭国大乱が起こり、卑弥呼を女王に誰と誰が共立したのか明確でなかった）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;こうやって考えると、邪馬台国の位置は魏志倭人伝から読み取れる。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;短里で記述しようが、半島の西海岸を進むのか半島内部の河川を利用しようが狗邪韓国まで７千里だ。末廬国まで丁度１万里だから残りは２千余里だ。短里で計算すれば邪馬台国まで１６０ｋｍ程度。ということは邪馬台国がほぼ九州の中に在ることは明らかだ。大和説のように、そこから急に長里に戻すわけには行かないだろう(^^)/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;だが、あるべき場所にないと困るから、末廬国で磁石の向きを９０度操作して、実際には東だが、南に水行二十日で投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国とべら棒な行程を書いたわけだ。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして邪馬台国大和説は魏志倭人伝の記述と考古学の発見が一致しない。九州説の中では有力な山門説や筑紫平野説でも、魏志倭人伝に「&lt;strong&gt;女王国の東（本当は北）千余里の所にまた国がある。皆倭種である&lt;/strong&gt;」という記述を無視している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;宇佐市から周防灘を北に渡ると防府市の佐波川辺りに弥生集落があるから、&lt;strong&gt;九州説では宇佐説しか該当しない&lt;/strong&gt;。宇佐には卑弥呼の墓の伝承もあるし、伊勢神宮と同格以上の皇室にゆかりがあり、神武天皇よりも圧倒的に数多く祀られている応神天皇を祀る宇佐神宮が存在するから、ここが最有力の候補地ということになる。しかし、戦乱の時代に宇佐平野は海からの襲撃に弱く、危険なので、駅館川の上流に遡ると、安心院盆地に女王の宮殿と見られる三女神社のある弥生後期から終末期の宮ノ原遺跡が見つかった（&lt;a href=&quot;http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2thdHVtb2t1MTAxLzE1MTQ0NTU5Lmh0bWw-&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot;&gt;【新説】邪馬台国はここだ！(その５)&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;全ては&lt;strong&gt;倭王帥升が奴国王を追放したことから始まり、旧奴国王族との抗争から倭国大乱が起こり、最終的に旧奴国王族の血を引く狗奴国ヤマトの大王が倭国を奪還したと推理&lt;/strong&gt;してすべての謎が解けたわけだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;最初に報告書を書いた梯儁は自分の仕事を帯方郡太守に評価してもらいたい一心だったと思う。伊都国の男王は、日増しに倭国に圧迫を与える旧奴国＝狗奴国を抑えるには魏の力が必要だと切羽詰まった気持ちからこういう偽りの報告書を書かせたと推察される。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;こう考えると、今までの魏志倭人伝の解釈はまじめすぎると評価できる。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
これもすでに述べたが、魏の将軍司馬懿のライバルの曹真が西域の大月氏と同盟させて蜀に圧迫を加える功績があった。魏の時代には&lt;strong&gt;洛陽から大月氏の都カーピシーまでシルクロードを通ってキッチリ１万６千３百７十里と知られていた&lt;/strong&gt;。司馬懿の功績はもっと大きいと主張したかった。司馬懿が、曹操と敵対する孫権の呉に圧迫を加える戦略上の好位置にあり、かつ、カーピシーより遠い所にある東夷の大国「倭国」を支配下に置いたとしたい。だから洛陽から楽浪郡まで５千里、プラス、帯方郡から１万２千余里の合計１万７千里を優に超える場所に邪馬台国があるとサバ呼んだわけだ（岡田英弘「日本史の誕生」弓立社,pp.48-72 に詳しい）。たまたま周代に短里が使われたとしても魏の時代に同じ国で長里と単里が使われたなどとは考え難い(^^)/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;考古学専門の方は史書を軽視し、「記紀は虚構だから最初から受け付けない」感じの方もいるようだ。一方、文献史学者で考古学に疎い方は史書に記されたものの真偽が分からない。中々、安本美典氏のような両方に精通された方が少ないので、諸説に合理的な評価を下せないから邪馬台国問題が長引いているようだ。先に「&lt;a href=&quot;http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2thdHVtb2t1MTAxLzE1MTQwMzQ4Lmh0bWw-&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot;&gt;日本は古の倭の奴国だ(^^♪&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;」で邪馬台国の仮説の優劣に関する安本氏が提案した下の基準に従い、刮目天仮説を述べたが、ヤマト王権成立からその後までの歴史を概ね矛盾なく説明できる、論理的にもすっきりした仮説だと考えている(^_-)-☆&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#800080&quot;&gt;　&lt;/font&gt;&lt;font color=&quot;#800080&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;strong&gt;邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、&lt;br&gt;
統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
（１） 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。&lt;br&gt;
（２） 邪馬台国はどこか（これは７万戸の人のすむ広い地域）&lt;br&gt;
（３） 卑弥呼の宮殿はどこか（これは狭い地域）&lt;br&gt;
（４） 卑弥呼の墓はどこか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる&lt;/strong&gt;。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ということで、今回は考古学による更なる検証はスキップしましたが、次回も検証を続ける予定ですので、疑問点などがあればよろしくお願いします（●＾o＾●）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15205548.html</link>
			<pubDate>Tue, 17 Jan 2017 21:03:45 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>【検証２】前方後円墳のルーツ？</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www.asahi.com/articles/ASJ5C7R9JJ5CPOMB00Z.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;前方後円墳のルーツ発見か　奈良で弥生末期の円形墓&lt;/a&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;田中祐也　2016年5月12日19時42分　朝日新聞デジタル&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　奈良県橿原（かしはら）市の瀬田遺跡で弥生時代終末期（２世紀中ごろ～後半）とみられる円形の墓が見つかった。奈良文化財研究所（奈文研）が１２日発表した。円形の一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツではないか」と指摘する。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この記事に写真があるが、円墳の周りに溝があり、一部だけ円墳への通路で溝が切断されている。前方部が外に少し開いた形の通路だ。前方後円墳と見えなくもない。この古墳が場所と言い、時期的にも前方後円墳のルーツと言えそうだ（●＾o＾●）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と云うことは&lt;strong&gt;奈良盆地ヤマトが前方後円墳の発祥地&lt;/strong&gt;で間違いないね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;３世紀半ば過ぎに纒向遺跡の箸中に築造された大型古墳で、大物主の妻倭迹迹日百襲姫命（やまとととひももそひめ）の墓という伝承のある箸墓古墳が卑弥呼の墓、つまり卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命という邪馬台国大和説がさぞ盛り上がったことだろう(^^)/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも何度も述べたとおり、&lt;strong&gt;纏向遺跡が出現した時期（180年から210年）の外来土器に北九州のものが見られないことから邪馬台国ではないんだけど&lt;/strong&gt;(^_-)-☆&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それで、&lt;strong&gt;九州で最古級の前方後円墳&lt;/strong&gt;を見ると、３世紀中葉に築造された福岡市博多区那珂1丁目の&lt;strong&gt;那珂八幡古墳&lt;/strong&gt;（なかはちまんこふん）と言われている。&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%8F%A4%E5%A2%B3&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Wiki&lt;/a&gt;に依れば、後円部から見つかった2基の主体部のうち1基から、&lt;strong&gt;三角縁神獣鏡&lt;/strong&gt;などの初期古墳に典型的な遺物が出土しており、福岡平野の首長の墓と推定されている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;出土した&lt;strong&gt;三角縁神獣鏡&lt;/strong&gt;は直径約21.8センチメートルの三角縁五神四獣鏡で、&lt;strong&gt;同笵鏡&lt;/strong&gt;（同一の鋳型，または原型から作られた鏡）として、京都の&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%BA%95%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;椿井大塚山古墳&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;、岡山市の&lt;strong&gt;湯迫車塚古墳&lt;/strong&gt;で出土したものや奈良の&lt;strong&gt;富尾丸山古墳&lt;/strong&gt;出土品と伝えられている鏡などが知られている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;刮目天の仮説では第二次倭国大乱の時期ヤマト勢が北九州の邪馬台国連合倭国を攻撃し、占領したから、その時期に造られたものだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;宇佐市を南から北に流れる駅館川右岸の台地に&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E9%83%A8%E3%83%BB%E9%AB%98%E6%A3%AE%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;川部・高森古墳群&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;があり、6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基の円墳や周溝墓が集積している。６基の中で最大の前方後円墳が&lt;strong&gt;赤塚古墳&lt;/strong&gt;（全長57.5メートル、後円部の直径36メートル、高さ4.8メートル、前方部の幅21メートル、高さ2.5メートル）で、これも&lt;strong&gt;３世紀末に築造された&lt;/strong&gt;九州最古級の前方後円墳だ。特徴だが、石室に箱式石棺が有り、副葬品として三角縁神獣鏡4面・三角縁龍虎鏡1面・碧玉管玉、鉄刀片、鉄斧などが出土している。銅鏡は、&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%BA%95%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;椿井大塚山古墳&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;（京都府）、石塚山古墳（福岡県）、原口古墳（同）出土のものと同笵鏡であるとされており、初期のヤマト王権が各地の首長に与えたものであると考えられている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;那珂八幡古墳の被葬者と同様に在地の首長という推定だが、&lt;strong&gt;刮目天の説では狗奴国ヤマトから邪馬台国連合倭国の追討でやって来た地方の首長（王）か将軍の墓ではないかな。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;赤塚古墳の鏡が、&lt;/strong&gt;&lt;strong&gt;那珂八幡古墳の鏡と同じく京都の椿井大塚山古墳の鏡の同笵鏡だったというのが凄い。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;また、&lt;strong&gt;赤塚古墳&lt;/strong&gt;と&lt;strong&gt;椿井大塚山古墳&lt;/strong&gt;は&lt;strong&gt;石室の中に石棺&lt;/strong&gt;が置かれているタイプだから、魏志倭人伝に記述される邪馬台国の墓の形式「&lt;strong&gt;棺あって槨なし&lt;/strong&gt;」とは違うもの。だから、&lt;strong&gt;宇佐の赤塚古墳は明らかに邪馬台国の墓じゃない、外来のモノ＝狗奴国のものだ(^O^)／&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;那珂八幡古墳&lt;/strong&gt;の場合は&lt;strong&gt;割竹形木棺を石槨を造らず墳丘に直接埋葬&lt;/strong&gt;した直葬形式と確認されているから、被葬者はひょっとしたら死んだ&lt;strong&gt;伊都国の男王&lt;/strong&gt;なのかも知れないね。男王の親族がヤマト王権に恭順の意を表すために造ったものかも知れないぞ(^^)/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今回はここまで。ヒントになるコメントなどもらえると嬉しいですよ。次回もよろしくお願いしますね！(＾◇＾)&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;br&gt;
&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;【参考】&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;table width=&quot;640&quot; border=&quot;0&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;3&quot; height=&quot;80&quot; bgcolor=&quot;#ffffff&quot; rowspan=&quot;2&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/1.gif&quot;&gt;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/1.gif&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;td height=&quot;3&quot; bgcolor=&quot;#ffffff&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/1.gif&quot;&gt;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/1.gif&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;340&quot; align=&quot;right&quot; valign=&quot;bottom&quot; rowspan=&quot;2&quot;&gt;　 　　　&lt;table cellspacing=&quot;1&quot; cellpadding=&quot;3&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;table style=&quot;font-size:14.56px;background-color:rgb(255, 255, 255);&quot; cellspacing=&quot;1&quot; cellpadding=&quot;3&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td align=&quot;right&quot; colspan=&quot;5&quot;&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/fukayomi1.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#ffffff&quot; size=&quot;-1&quot;&gt;第一回&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/fukayomi2.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#ffffff&quot; size=&quot;-1&quot;&gt;第二回&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#aaaaff&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#ffffff&quot; size=&quot;-1&quot;&gt;第三回&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#aaaaff&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/td&gt;&lt;td width=&quot;60&quot; align=&quot;center&quot; bgcolor=&quot;#0000cc&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/fukayomi5.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#ffffff&quot; size=&quot;-1&quot;&gt;第五回&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td width=&quot;245&quot; height=&quot;77&quot; align=&quot;left&quot; valign=&quot;top&quot; bgcolor=&quot;#ffffff&quot;&gt;
&lt;h4&gt;&lt;font color=&quot;#525330&quot; size=&quot;2&quot;&gt;毎日新聞連載　「深読み日本史　邪馬台国」より&lt;/font&gt;&lt;/h4&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;h4 style=&quot;font-size:12pt;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;　&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;http://yamatai.cside.com/tousennsetu/fukayomi3.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;前方後円墳は畿内説の優等生&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&amp;nbsp;&lt;/h4&gt;
&lt;table width=&quot;640&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;5&quot;&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt; &lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/div&gt;
&lt;strong&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;【付録】ヤマト王権の誕生と成長&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;北九州における前方後方墳の築造時期およびヤマト王権支配下の各地での前方後円墳築造の時期を図に示した。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/07/15198907/img_5_m?1484449094&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;659&quot; class=&quot;popup_img_803_945&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/strong&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;br&gt;
&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15198907.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Jan 2017 00:20:10 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>【検証１】佐賀に近江の土器が？(^O^)／</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a href=&quot; http://www1.saga-s.co.jp/news/saga.0.2539120.article.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;strong&gt;弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　吉野ケ里遺跡（神埼市郡）で出土した「外来系土器」のルーツの解明が進んでいる。他地域から持ち込まれた土器は「畿内系」などと推定していたが、地域が具体的に絞られてきた。同遺跡は、九州では珍しい「前方後方墳」も存在するなど、弥生終末期には他地域の政治・文化の影響を強く受けていたとみられる。県文化財課は「交流を調べることで、&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;strong&gt;弥生から古墳時代へ移り変わる動乱期の実態や前方後方墳の謎に迫れるかもしれない&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;」と期待している。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　７月下旬に吉野ケ里歴史公園で開かれた考古学者約７０人の研究会で、複数の学者が型や文様、発色などから外来系土器の具体的な地域を判定した。同遺跡で出土した外来系土器は約１９０点。これまでは畿内系、西部瀬戸内系など幅を持たせて呼んでいたが、今回の研究会で十数点の出自が特定された。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　県文化財課が「畿内系」としていた&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;strong&gt;「手あぶり型土器」は、滋賀県守山市周辺で出土した土器と同型&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;であることが判明。県文化財課は「&lt;u&gt;土器に使われた土が吉野ケ里とは異なる。何らかの交流があったのは間違いない&lt;/u&gt;」とする。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/62/15195562/img_0_m?1484249078&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;400&quot; height=&quot;343&quot; class=&quot;popup_img_400_343&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;手あぶり型土器&lt;/strong&gt;（同記事より）&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　&lt;strong&gt;吉野ケ里の南内郭で見つかった４基の前方後方墳は、弥生終末期に出現。&lt;/strong&gt;甕棺（かめかん）や石棺（せっかん）で埋葬していた吉野ケ里で、&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;なぜ近畿でよく見られる前方後方墳が造られたのかは明らかになっていない。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;県文化財課は「『墓制』が変わるということは、集落にとって非常に大きな変化。当時の守山市の集落との関係を調べることで、何か分かるかもしれない」と解明に期待を寄せる。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　守山市文化財保護課によると、吉野ケ里の手あぶり型土器は弥生終末期から古墳時代初頭に作られたとみられる。「&lt;strong&gt;関東では、前方後方墳の発生とともに手あぶり型土器が流入している。両者は文化的にセット関係にある&lt;/strong&gt;」と説明。「&lt;strong&gt;九州北部でも、近畿の文化要素が波及したのでは&lt;/strong&gt;」とみる。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;　このほか、奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定。&lt;/font&gt;瀬戸内地域産とみられていた加飾つぼは、岡山市付近の土器と同型であることも判明した。吉野ケ里遺跡にさまざまな地域の土器が持ち込まれているが、吉野ケ里から何が見返りとして持ち出されたのかは分かっていない。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　県文化財課は「&lt;strong&gt;弥生から古墳時代に移り変わる当時の状況はよく分かっていない。外来系土器のルーツを手がかりに、交流があった地域との関係を詳しく調べたい&lt;/strong&gt;」としている。 &lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;　■&lt;strong&gt;外来系土器&lt;/strong&gt;　他地域で作られたものが持ち込まれたり、それを模倣して作られた土器。他地域の年代を並行的に調べることができるほか、物資や人々の往来を知る手がかりとして注目される。吉野ケ里遺跡では朝鮮半島や北九州、近畿などさまざまな地域の土器が出土しているが、これまで詳細な絞り込みはできていなかった。&amp;nbsp;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;（2013年08月26日更新　&lt;strong&gt;佐賀新聞&lt;/strong&gt;）&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;外来土器が古代史解明に大きな役割を果たすことは前に述べたとおりだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;３世紀初頭に突然奈良盆地の三輪山麓に出現した政治都市の纏向遺跡に、北九州から来た土器が見つからないのは邪馬台国大和説が間違いである端的な証拠だった。&lt;/strong&gt;魏志倭人伝では&lt;strong&gt;大率&lt;/strong&gt;を&lt;strong&gt;伊都国&lt;/strong&gt;（福岡県糸島市）に置いて、女王国より北の諸国の検察させたとあり、&lt;u&gt;もしも邪馬台国が纏向にあったというなら、この時期に北九州の土器が纏向遺跡で大量に見つからねばならないからだ&lt;/u&gt;。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;同様に、この記事の外来土器などの情報はかなり有用だ。&lt;strong&gt;近江の手あぶり用土器&lt;/strong&gt;が見つかったということは、&lt;u&gt;近江の人々が佐賀までやってきたと考えていい&lt;/u&gt;。&lt;strong&gt;前方後方墳&lt;/strong&gt;は近江から主として東国に波及・分布しているから近江勢の勢力範囲ということだ。古墳の形式は、その地方がどの勢力圏にあるかを示すものだと言える。初期の古墳は首長祭祀が目的だから、同じ形式ならば同じ血族関係、つまり先祖を同じくする同族と考えられるね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;東近江市の&lt;a href=&quot;http://kofun.info/kofun/1064&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;神郷亀塚古墳&lt;/a&gt;の前方後方墳が最古のものだと言われているが（３世紀前半）、&lt;a href=&quot;http://kofun.info/kofun/1474&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;佐賀県鳥栖市にある赤坂古墳が九州最古級（３世紀後半）の前方後方墳と言われている&lt;/a&gt;。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/MYBLOG/yblog.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;「第２話　神功皇后は邪馬台国の女王？」&lt;/a&gt;で述べたように&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;卑弥呼の宗女台与は近江と越の女王&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;だから、台与が九州遠征に連れてきた同族の将軍らの墓ではないだろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;台与と言う名前だが、「魏志倭人伝」によれば「&lt;strong&gt;邪馬壹国&lt;/strong&gt;」と同様「&lt;strong&gt;壹与&lt;/strong&gt;」と記されている。しかし、前回述べた通り邪馬壹国は邪馬臺国の「&lt;strong&gt;臺&lt;/strong&gt;」の字を避けて、似た漢字「&lt;strong&gt;壹&lt;/strong&gt;」と書いたのと同じ理由だ。意味的にも東夷の女王に「&lt;strong&gt;臺を与える&lt;/strong&gt;」などと書けば皇帝が激怒して、報告者のクビが飛ぶ。司馬懿のクビも怪しくなるはずだから絶対にこの字は書けない！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「&lt;strong&gt;臺与&lt;/strong&gt;」はトヨの発音から書いたのは明らかだが、後に「&lt;strong&gt;豊&lt;/strong&gt;（とよ）」という字が女王台与を意味するものとして使われたのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;刮目天は&lt;strong&gt;投馬国&lt;/strong&gt;を遠賀川流域と下関を含み企救郡から京都郡を含む行橋平野がその領域だと考えている。そして邪馬台国だが、豊前市から中津・宇佐までの豊前平野は豊前、豊後高田から国東半島とその南の大分平野などは豊後と呼ばれている。つまり&lt;b&gt;豊&lt;/b&gt;（トヨ）&lt;strong&gt;の国＝邪馬台国&lt;/strong&gt;を意味している。やはり中心は豊前と豊後の境の宇佐の安心院盆地だったと分かる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;トヨが女王になった当時（２４８年頃）はまだ、戦乱が続いていた訳だから防衛上女王の宮殿は安心院盆地のヤマトに置いたが、２６６年に魏から帝位を禅譲された晋に素早く朝貢したその時期は非常に落ち着いていたのだろう。だからこそ前に述べた青大勾玉を糸魚川から手に入れて晋に貢物として贈れたと云える。そのころ奈良盆地の狗奴国はトヨ（神功皇后）とスサノヲ（武内宿禰）の倭国に圧倒されて、必死で対応策を練っていたのだろうね(^_-)-☆&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、この平和な時期には投馬国の周防灘に面した&lt;strong&gt;京都平野&lt;/strong&gt;は半島南部の倭人や辰韓のシナ人などや日本列島各地の珍しい産物を持ってくる倭人や縄文人などで賑わったのではないだろうか。&lt;strong&gt;豊津&lt;/strong&gt;という地名が現代に残っているのは、女王トヨに因む地名だから、女王トヨは何度か滞在したのだろうね【注１】。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、九州の穀倉地帯の筑紫平野にも度々訪れたはずだ。神功皇后に因む地名などが北九州各地に残されている。そういえば、宇佐神宮名物の「&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E9%A3%B4#cite_note-godo20131225-2&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;宇佐飴&lt;/a&gt;（うさあめ）」も神功皇后に因むものだったね。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;なお、上の佐賀新聞の記事の最後の方にあった、&lt;strong&gt;奈良盆地の庄内甕が福岡付近で作られたものだという発見&lt;/strong&gt;だが【注２】、古墳時代に入る直前の&lt;strong&gt;弥生時代終末期&lt;/strong&gt;（&lt;b&gt;１８０～&lt;/b&gt;&lt;strong&gt;３００±２０年&lt;/strong&gt;）ということだ（石野博信討論集「倭国乱とは何か」新泉社,p.83）。だが&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15170971.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;u&gt;「第３話　ヤマト王権成立の謎？」&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;で述べたように、既に卑弥呼が女王に共立された後の第二次倭国大乱で狗奴国ヤマト勢が北九州の倭国を討伐した２４８年ころからヤマト王権が成立する２８０年ころまでの話だ。この時代、北九州と奈良盆地の人的・物的交流が盛んになったことを示している。だとすれば仮説が正しいという証拠のひとつだね（●＾o＾●）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今後は&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15170971.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;、「第３話　ヤマト王権成立の謎？」&lt;/a&gt;で図示したヤマト王権成立過程の仮説の考古学による検証について、もう少し詳しく述べるつもりだ。また、お付き合いくださいね(^O^)／&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;【注１】７世紀初頭に隋の煬帝のヤマト王権への使者が、竹斯国（筑紫国）から東へ向かい、この京都郡（みやこぐん）の辺りで、陝西方言のシナ語を話す人間が多く集まっているのを見て&lt;strong&gt;秦王国&lt;/strong&gt;と呼んだと考えている。新羅の前身の辰韓は秦の始皇帝の圧政を逃れたシナ人が集まって村を作ったようだ。倭人も混ざって盛んに鉄を採ったところだ。倭国東北１千里にある多婆那（タバナ）国から来た倭人の&lt;strong&gt;脱解王&lt;/strong&gt;伝説もあるね。&lt;strong&gt;多婆那国が「丹波の那国」&lt;/strong&gt;だとすれば奴国を追放された第１８代国王スサノヲ（初代）のことかも知れないね(^^)/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;【注２】&lt;a href=&quot;http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/news/news07.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;u&gt;2007年&lt;em&gt;9月4日 &lt;span class=&quot;red&quot;&gt;矢塚古墳の前方部を確認&lt;/span&gt;&lt;/em&gt;(桜井市広報「わかざくら」&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;）なのか確認できていない。しかし福岡の庄内甕については、&lt;a href=&quot;http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/305/index04.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;福岡市博物館のアーカイブ&lt;/a&gt;No.305[平成19年9月4日（火）～平成20年1月14日（月祝）]に以下の記事が載っていた。どうも、最初の佐賀新聞の記事と見解が少し異なるようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;&lt;strong&gt;人が集い モノが集う&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;（途中省略）&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;奈良盆地では庄内式土器とよばれる、非常に薄手で軽い甕が作られました。この奈良盆地産の庄内甕は単に福岡平野に持ち込まれただけでなく、在地の土器作りにも影響を与え、庄内甕とよく似た甕が作られるようになりました。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15195562.html</link>
			<pubDate>Wed, 11 Jan 2017 22:24:32 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第５話　日本建国はいつ？</title>
			<description>&lt;div&gt;日本建国についてはいろいろな考え方があると思うが、国家の要件が&lt;strong&gt;領域・住民・実効支配&lt;/strong&gt;の三つだというのは、今の国際社会でも変わらないから、その三要件が確立された時点で建国と見ることができるのではないかな。そういう観点から見ていこうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まず、国号はともあれ日本が最初に歴史に登場するのは西暦５７年に後漢の冊封体制に組み込まれ金印をもらった倭の奴国だ。岡田英弘さんは、この段階の奴国は後漢帝国の倭国における領事館というような役割だとしている。後漢の皇帝は貿易商社の社長という表現をしていたから、奴国王はさしずめ倭国支店長かな。でもシナとの交易権を認める替わりにシナ商人の取引を確保する義務を負うということのようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後１０７年に倭王帥升らがまた後漢に朝貢。「後漢書」に「倭王帥升等云々」とあるから倭の中の国々の代表者であるという意味で倭王と認められたようだ。倭王が交易を支配する領域が倭国の国々であって、その国々の筆頭代表者ということのようだから、シナの子会社か系列会社の社長ということかな。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして３世紀後半に倭女王卑弥呼の跡を継いだ台与が晋に朝貢した後、シナ大陸が内乱（&lt;strong&gt;五胡十六国時代&lt;/strong&gt;）で倭のことを記録する暇がなかったようだ。しかし、４世紀末の様子がようやく高句麗の&lt;strong&gt;広開土王碑文&lt;/strong&gt;に「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;そもそも新羅・百残は（高句麗の）属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年（391年）に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった&lt;/font&gt;。」と記録された（Wiki「好太王碑」より）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、倭の五王（賛・珍・斉・興・武）が半島に進出して、宋の皇帝から官位を任命されていたことが『宋書』「倭国」に書かれている。４７６年、「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;この年、倭王武、上表して自ら開府儀同三司を称す。使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命さる&lt;/font&gt;」。次の王朝の史書「南斉書」によれば、倭王武はさらに４７９年「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;鎮東大将軍&lt;/font&gt;」、更に次の「梁書」によれば５０２年「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;征東将軍&lt;/font&gt;」に進められるとある。シナ皇帝の権威を利用して半島支配を行ったことを示すものだが、シナの状況は支配者がコロコロ変わるから、実質的には余り意味がなかったのかも知れない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;６００年、「隋書」によれば倭王&lt;strong&gt;阿毎多利思比孤&lt;/strong&gt;（アメノタリシヒコ）が第一次遣隋使を送る。前回述べたように、日本書紀では推古八年に当たるが、推古十五年第二回の遣隋使で阿毎多利思比孤（通説では聖徳太子）が「日出ずるところの天子云々」と書を送り、煬帝が激怒？した記事が「隋書」にある。女帝推古と記した日本書紀を疑わざる得ないが、聖徳太子の時代は隋と対等の大倭（大和）国だ。ということは、やはりその前の倭の五王の武王（&lt;strong&gt;雄略天皇&lt;/strong&gt;）の時代には精神的にすでにシナの属国からは独立していたということだろう。つまりシナの官位要請は半島経営の方便ということだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;少し話は戻るが、３世紀後半に狗奴国ヤマトが二度にわたって倭国の本拠地である豊前・豊後・筑前・筑後を攻撃し、占領して版図を拡げている。前に述べた通り、さらに出雲から越までの日本海沿岸部、四国・中国地方、紀伊半島南部から東海・関東までスサノヲ（武内宿禰）と台与が手を拡げていたので、ヤマトの大王はそれらの地方を平定する必要があった。それが崇神紀にある四道将軍や景行天皇の九州遠征の話であり、その総集編として&lt;strong&gt;日本武尊&lt;/strong&gt;（ヤマトタケルノミコト）の武勇伝が再度「日本書紀」に記された。ヤマト王権に従わない「&lt;strong&gt;まつろわぬ者&lt;/strong&gt;」はクマソタケルやイズモタケルのように騙し討ちにあったが、大方は「&lt;strong&gt;言向け和平&lt;/strong&gt;（ことむけやわ）」してヤマト王権の傘下にして行った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/38/15190138/img_0_m?1483934198&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;511&quot; class=&quot;popup_img_877_800&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヤマトに恭順する証しとして祭祀方式を変更させたのだろう。つまり、この時期に各地の&lt;strong&gt;銅鐸・前方後方墳&lt;/strong&gt;などの祭祀方式から&lt;strong&gt;三角縁神獣鏡・前方後円墳&lt;/strong&gt;への移行が急速に日本全土に広がったようだ。戦いで滅ぼして征服していったわけではないので、それまで行われた古墳だけは尊重され、その地方の墓域に共存している。つまり古墳は破壊されることなく、首長の交代などもなく移行がスムーズにできた。やはり、スサノヲ（武内宿禰）の子を大倭国王＝ヤマトの大王にしたことによる効果ではないかな(^_-)-☆。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これも前に述べたが、ヤマトという言葉は山戸、山門のことで、海への入り口であるミナト（湊、港）と同様に、海に面した平地から山地への入り口を指す普通名詞だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;奈良盆地のヤマトを大倭国と書くのは、前述の通り政治の中心が九州の倭国から東に遷ったもの、つまり邪馬台国の後継、あるいはそのものだとシナに主張するためだ。そして纏向の地で東西の勢力が和平することにより安心院盆地のヤマトを中心とする倭国と奈良盆地のヤマトが大いなる和平・合体して大倭国となったと云う意味を表すために大和と書き改めてヤマトと呼ばせたものと考えられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;欠史八代の５天皇の和風諡号あるいは日本武尊の名として、「日本」と書いてヤマトとよばせているが、日本書紀編纂の時代「日本」が国号だが、「日本」をヤマトと呼ばせて古来の倭国を継承した国家と主張するためのようだ。ただし、シナ人は「&lt;strong&gt;日本&lt;/strong&gt;」「&lt;strong&gt;大和&lt;/strong&gt;」「&lt;strong&gt;大倭&lt;/strong&gt;」と書いてヤマトとは絶対に発音しないからその意味が解らなかったようだ。それが「&lt;strong&gt;旧唐書&lt;/strong&gt;」の撰者が日本人を訝しく思った原因ではないだろうか（&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;「倭国自らその名の雅やかならざるを悪（にく）み、改めて日本と為す」と。或いは云う、「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。其の人、[唐の]朝[廷]に入る者、多くは自ら大を矜（ほこ）り、実を以って対（こたえ）えず。故に中国はこれを[どこまで真なりやと]疑う&lt;/font&gt;）（藤堂明保他「倭国伝」講談社学術文庫　p.208）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;倭人が発音したヤマトの音（ヤバド、ヤマド)を聞いて漢字で「邪馬台」・「邪摩堆」としてシナの正史に記述されたのではなかろうか。『後漢書』「倭」では大倭王の都が邪馬台国、「魏志倭人伝」では「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;女王の都のある邪馬壹（臺）国&lt;/font&gt;」、「隋書」では「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;邪靡（摩）堆に都す。即ち、『魏志』に謂う所の邪馬台なる者也&lt;/font&gt;」。ただし、「魏志倭人伝」では邪馬臺国の「臺」は皇帝の居所を意味するのでそれを避ける意味で似た字「壹」を用いたが、「後漢書」撰者の范曄が３９１年に倭の遣使が奈良盆地のヤマトからあったことを知ったので「臺」が適切と考えて「邪馬台国」と記述し、それが受け継がれていると考える塚田敬章さんの説が妥当だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「日本」と言う国号が使われたのは７世紀後半の天武天皇か、８世紀初頭の持統天皇の頃というのが通説のようだが、推古朝というのが正しいのではないだろうか（「&lt;a href=&quot;http://www.geocities.jp/yasuko8787/150723.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;倭国を日本と改めたのは誰か&lt;/a&gt;」　）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;天智天皇の時代６７０年に初めて戸籍「&lt;strong&gt;庚午年籍&lt;/strong&gt;(こうごねんじゃく)」が作られ、６７１年&lt;strong&gt;近江律令&lt;/strong&gt;が施行され（正確には令だけで、律令は７０１年「&lt;strong&gt;大宝律令&lt;/strong&gt;」が最初）、次の天武天皇により新生日本国のアイデンティティのために「日本書紀」の編纂が始まり、日本語が作られるのもその頃のようだ。岡田英弘さんは６６３年の白村江で唐・新羅に負けてから日本が建国されたと述べているが、ここまで見た通り倭の五王の時代、あるいはその前、つまり応神天皇即位でいいのではないだろうか。前に述べた通り応神天皇と神武天皇は同一だから、２８０年の直後にはヤマトの大王として即位したわけで、それが７世紀初頭に「日本」と国名を替えただけと考えれば、日本の建国は神武天皇即位としていいのではないかな。ただし、紀元前６６０年ではないが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;一応これでシリーズは終わりです。最後まで読んでいただき感謝します。今後もよろしくお願いしますね（●＾o＾●）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;strong&gt;【参考文献】&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
岡田英弘「日本史の誕生」ちくま文庫&lt;br&gt;
塚田敬章「邪馬壹国か、邪馬臺国か？ 「邪馬壱国説」を支持する史料とその解説」&lt;a href=&quot;http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/yamai_yamatai/yamai_yamatai.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/yamai_yamatai/yamai_yamatai.htm&lt;/a&gt;　&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15190138.html</link>
			<pubDate>Sun, 08 Jan 2017 21:22:50 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第４話　何故、「日本書紀」は歴史を隠す？</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;明けましておめでとうございます。&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今年もどうぞよろしくお願いします(^^♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;br&gt;
&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;現存する最古の正史「日本書紀」（７２０年完成）を最初に舎人親王に作成を命じたのは天武天皇（生年不明 - 686年）だが、通説のとおり兄である天智天皇の皇太子&lt;strong&gt;大友皇子&lt;/strong&gt;を&lt;strong&gt;壬申の乱&lt;/strong&gt;（672年7月24日 - 8月21日）で滅ぼして皇位を奪った訳だから、その正当性を主張するというのも大きな目的のひとつだったはずだ。しかし残念ながら完成前になくなってしまった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;完成時は天武帝の意図ではなく皇后だった&lt;strong&gt;持統天皇&lt;/strong&gt;（天智帝の娘）と&lt;strong&gt;藤原不比等&lt;/strong&gt;（中臣鎌足の子）が実権を握っていたので、二人の都合のよい歴史に変えられている。これは６４５年&lt;strong&gt;乙巳（いつし）の変&lt;/strong&gt;で蘇我氏から政権を奪った中大兄皇子と鎌足コンビの復活だから、徹底的に蘇我氏を悪者にする内容になっている。大悪人に仕立て上げるために&lt;strong&gt;聖徳太子&lt;/strong&gt;という超人的な大聖人を作り出したようだ（関裕二さんによれば最大の悪行は大聖人の子の山背大兄王の一族を滅ぼしたと言うことだ。しかし、その一族の墓や霊を祀った寺などが一切見つからないので、作り話の可能性が高い。太子の事績は実は蘇我氏のものだったと言う関裕二説が有力だと思う）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;蘇我氏が実権を握れたのは天皇家（那（奴）国王、大王おおきみ、スメラミコト）の系譜につながる正統な氏族であるからだと推理できる。トヨと一緒に邪馬台国連合倭国を支配したスサノヲは&lt;strong&gt;【付録】宋史「日本国」&lt;/strong&gt;に記載された王年代記の第１８代那（奴）国王で、高天原（那国）を追放された乱暴者の&lt;strong&gt;素戔嗚&lt;/strong&gt;（スサノヲ）尊の５・６代目くらいの末裔だろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「日本書紀」ではそのことを隠すために前回までに述べた通り、&lt;strong&gt;大倭（大和）国&lt;/strong&gt;の建国に関わる神の名の付く重要人物の事績を別の何人もの時代も異なる人物の話に分けて、曖昧な神話にしているようだ。しかし、考古学やシナの歴史書や古い伝承などから推理すれば、邪馬台国の末期とヤマト王権成立の時期が重なるからヤマト王権の成立過程の謎が解き明かされた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「日本書紀」や「古事記」では蘇我氏の祖は第８代孝元天皇の孫である&lt;strong&gt;武内宿禰&lt;/strong&gt;だ。神功皇后に付き従った忠臣ということだが、彼は第１２代景行天皇から成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇まで約３００年間仕えた人物という設定だから不比等らはおとぎ話の人物としておきたかったのがわかる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だが、既に述べたとおり神功皇后は近江と越を支配する女王で卑弥呼の跡を継いだ台与（トヨ）だ。そして仲哀天皇は尾張・伊勢の王。武内宿禰は出雲から但馬・丹後・丹波を支配した王だ。卑弥呼の邪馬台国を討伐した後は日本海沿岸諸国や四国・中国地方も支配下に置き、紀伊半島南部まで支配下に入れ、さらに東海・関東などにも勢力を伸ばそうとした倭王だろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今までこの人物を刮目天の説ではスサノヲと呼んでいたが、１８代那国王のスサノヲが高天原を追放された時期が１０７年かその少し前あたりだから、この武内宿禰という人物こそ初代スサノヲの直系で、神話に数多くの名を持って現れる出雲の&lt;strong&gt;大国主命&lt;/strong&gt;だと考えられる。崇神紀の三輪山の大物主大神は出雲神大国主命であり、蛇の化身だからここでも那（奴）国と繋がる（那・奴は&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%AC&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;ナーガ神&lt;/a&gt;のこととも云われる）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヤマトの大王が倭女王台与（トヨ）の倭国を滅ぼして、この大国主命が支配した出雲などの倭国の国々を平定する話を「日本書紀」「古事記」では神代での大国主命の国譲りの神話にして真相を隠した。大国主命の子の事代主神は天の逆手の呪いをしながら海に沈んだ。もう一人の子&lt;strong&gt;建御名方神&lt;/strong&gt;（タケミナカタ）は高天原から送られたタケミカズチ神と力比べして負けて、諏訪湖まで逃げて、そこから出ないことを条件に許されたと「古事記」にだけ書かれている。でも「日本書紀」には記載がない。&lt;strong&gt;諏訪大社&lt;/strong&gt;の祭神であるが、その名前から宗像氏との関係がありそうだ。Wikiによれば冶金・製鉄の神であったとする説があるらしい。１８代那国王の初代スサノヲ＝住吉大神は１７代那国王伊弉諾（イザナギ）尊の子だが、「ムナカタの子がスミヨシ」という宗像大社の伝承から母の伊弉冉（イザナミ）尊は宗像氏ではないのかな(^^♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;やはりここでも「日本書紀」はスサノヲや宗像氏のことを隠したいことが分かる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;天武帝は実は天智天皇の弟ではないかもしれないと言われるように生年不詳でその出自がハッキリしない。尾張氏の活躍で皇位を奪ったのが事実のようだから、天武帝は大海人皇子という名前から見ても尾張系なのかな？(^^)/&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて「日本書紀」作成のもう一つの大きな目的だが、やはり持統天皇が天武天皇の優秀な皇子たちを殺したり排除し、自分が皇位に就いたことの正当性を言うために高天原神話が作られたようだ。孫の文武天皇即位が瓊瓊杵尊の天孫降臨か。持統帝の和風諡号が「高天原廣野姫天皇（たかまのはらひろのひめのすめらみこと）」だからわかりやすい(^_-)-☆&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;伊勢神宮に行幸されたのは明治以前では彼女だけのようだ。関祐二さんによれば、地震とか天変地異がある度にヤマトタケルの祟りを特に恐れて何度も伊勢神宮に行幸したようだ。ヤマトタケルはヤマト建国のシンボル的な人物だが、それだけではないようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;伊勢神宮の祭神「&lt;strong&gt;天照大御神&lt;/strong&gt;（アマテラスオオミカミ）」が大和から移される話が崇神・垂仁紀にあるが、Wiki「&lt;strong&gt;元伊勢&lt;/strong&gt;」の説明によれば丹後国一の宮&lt;strong&gt;籠神社&lt;/strong&gt;（このじんじゃ）は元伊勢と呼ばれ、大和から一時的に籠神社に祀られたという話がある。籠神社の主祭神は彦火明命 （ひこほあかりのみこと）天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、&lt;strong&gt;饒速日（ニギハヤヒ）&lt;/strong&gt;命だ。伊勢神宮の本殿床下にある&lt;strong&gt;心御柱&lt;/strong&gt;(しんのみはしら)も本当の祭神が女神ではないことを暗示している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、ニギハヤヒは物部氏・尾張氏等の祖でスサノヲの次の１９代那国王天照大神尊だから皇祖神には間違いない。初代スサノヲの子かとも思ったが、伊弉諾尊の子でスサノヲとは異母兄弟かな？　那国王が追放された時にニギハヤヒも逃げて、吉備に一旦落ち着いたが、卑弥呼が瀬戸内海ルートの鉄の流入を阻止したので大和に&lt;strong&gt;天の磐船&lt;/strong&gt;で降り立ち（実際はその子孫だろう）、纏向に出雲や尾張・東国などの旧那国王族の勢力を集めたと考えている。物部氏など事績が多く述べられている「&lt;strong&gt;先代旧事本紀&lt;/strong&gt;」にあるニギハヤヒの子の&lt;strong&gt;宇摩志摩治&lt;/strong&gt;（ウマシマジ）命の子孫が崇神天皇ではないかと考えている。尾張氏等の祖は同じくニギハヤヒの子&lt;strong&gt;天香語山&lt;/strong&gt;（アメノカグヤマ）命だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;歴代の皇族は伊勢神宮ではなくスサノヲを祀る熊野に行幸しているから、当時はみんな皇祖神が誰か知っていたようだ。何度も出す王年代記で、初代王天御中主から伊弉諾尊までが那国筑紫の宮に住んだが、１８代素戔烏尊と次の天照大神尊ら王族が那国（高天原）を追放され・逃亡し、天照大神（ニギハヤヒ）尊の子正哉吾勝速日天押穂耳尊の後の日向三代の内、天彦尊（ニニギ）と炎尊（山幸彦）は本当は日向に住んで居たのではないと思うが、神話が何か事実を示唆しているはずだ。２３代彦瀲尊（ウガヤフキアエズ）とトヨとの間の子がホンダワケ＝応神天皇＝神武天皇と推理したことはすでに述べたとおりだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「日本書紀」や「古事記」では、那国王の時代と那国が帥升王に乗っ取られた後のヤマト建国のまでの出来事を、持統天皇を天照大御神という女神にすり替えて高天原、出雲の国譲りや天孫降臨の神話として描いたことは間違いない。図に示したとおり、神代の神様は記紀で違っているのが面白い。「日本書紀」では国常立神を最初に持ってきているが、「古事記」では天御中主だから、王年代記と一致する。984年に&lt;strong&gt;然&lt;/strong&gt;（ちょうねん）が献上したものは誰がどこで作ったものかは分からないが、当時の人が既に記紀の記述は正しくないと思っていたのは事実のようだね。江戸時代から荻生徂徠・山片蟠桃が&lt;strong&gt;天照大神男神説&lt;/strong&gt;を唱えていたと言われているし、戦後では津田左右吉らが居る。だからと言って、既に述べたように古代史の真相を探る大事な文献であることに変わりはない。史書の筆者の意図さえわかれば多くのヒントが得られる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/21/15180121/img_1_m?1483932294&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;407&quot; class=&quot;popup_img_862_627&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;こう考えると、どうも持統天皇が尾張氏の祖の天照大神を乗っ取っり女神アマテラスとして高天原を支配したと言うことだから、天武帝を尾張氏の祖の天照大神と見立てたようだ。つまりこの出自が曖昧な天武帝はニギハヤヒの系統であって物部氏とも尾張氏とも繋がる血筋のようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、関裕二さんは皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ前に用明天皇の孫の&lt;strong&gt;高向王&lt;/strong&gt;（「新撰姓氏録」では用明帝の子）との間にもうけた&lt;strong&gt;漢皇子&lt;/strong&gt;（あやのみこ）だと推理し、蘇我系であり、乙巳（いつし）の変で蘇我氏を守ろうとした東漢（やまとのあや）氏という渡来人と繋がるとされている（「『古事記』と壬申の乱」PHP新書、pp.139-144）。天智天皇の兄ということだが、なぜ「日本書紀」は弟だと言い張るのかだが、やはり正統な皇祖神スサノヲにつながるのを隠すためなのだろうか(^_-)-☆&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それじゃあ、逆に持統帝の父や祖父のルーツが正統でないのかというと皇位は誰でもが継げるものでないから、それも違うのではないかな。ただし、最初に出てきた聖徳太子の子の山背大兄王が架空の人物なら、何故、蘇我系でない&lt;strong&gt;田村皇子&lt;/strong&gt;が舒明天皇として即位したのか、その経緯も怪しくなる。舒明天皇の祖父欽明天皇と、継体天皇の子で異母兄弟の安閑・宣化天皇の&lt;strong&gt;二朝対立説&lt;/strong&gt;、あるいは継体天皇即位まで遡ることになりそうだ。この謎はまだ取り組むべき課題だね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;もうひとつ、女帝第一号の推古天皇がシナの正史「隋書」の記述と合わない点も、持統帝が女帝に即位するいいわけなのかも知れないし、「日本書紀」では６００年の朝貢の記事を伏せているし、大きな謎だね(^_-)-☆&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さらにもうひとつの「日本書紀」の目的だが、６６３年の白村江の戦いで天智天皇が唐・新羅に敗れ、完全に半島から撤退させられた経緯もあり、大国の唐と対等関係を指向するために、過去においてシナへ朝貢し、冊封体制に組み込まれていたなどという不名誉な事実を隠し、シナとの関係を完全に抹殺した日本史を作ったのも事実だ。だが、ところどころで「魏志倭人伝」などのシナの記事などを入れているのは、全くの創作でないとの言い訳にしているのかも知れないが、その辺もよく分からないね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;従来の古代史は記紀や「魏志倭人伝」などの記述に作者の作り話や嘘がない正しいものという前提で組み立てているか、全く無視するかどちらかのようなので、謎ばかりで訳が分からなくなっていた（全く無視し考古学の事実だけで推論すると邪馬台国大和説になるのかな？）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だが、こうやってわずかなヒントから少しづつ謎が解けてくると面白い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし一方で、今まで記紀の話を信じていた人たちにとっては極めて不愉快な話になるのだろうね。でも、事実を追求することにタブーを設けたら事実にたどり着けない。タブーがあると自由な発想や進歩が止められるから、都合のよい一部の人以外は困ることになる。ちょうど東京裁判史観で汚染された近現代史と同じで、定説が覆されると、戦後七十年間日本の政界や言論界を虚構で支配していた人々の立場がなくなるのとまったく同じだ。しかし今の国際情勢を考えると、こういうウソを乗り越えないと歴史戦争で負け続け、最後は日本が存続できなくなってくる。だから、事実は事実として受け止めるのが大事なことだと思う。この辺の話題については是非、&lt;a href=&quot;http://sns.mynippon.jp&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;ｍｙ日本&lt;/a&gt;に入って読んでくださいね(^O^)／&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回は日本という国家の建国をどう考えたらよいかについてだ。それで一旦、最終回になる予定だ。最後までよろしくお願いしますね(^^♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;&lt;br&gt;
&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;【参考文献】&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
関裕二「天孫降臨の謎」PHP文庫&lt;br&gt;
次田次郎「古事記」全訳注（上・中・下）講談社学術文庫&lt;br&gt;
宇治谷　孟、全現代語訳「日本書紀」（上・下）講談社学術文庫&lt;br&gt;
関裕二、図解「古代史の真実」PHP研究所&lt;br&gt;
瀧音　能之、図解「古事記と日本書紀」PHP研究所&lt;br&gt;
関裕二「『古事記』と壬申の乱」PHP新書&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;strong&gt;【付録】宋史「日本国」&lt;/strong&gt;（藤堂明保他、「倭国伝」講談社学術文庫、pp.277-279　より）&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　&lt;strong&gt;日本国は、本倭の奴国也&lt;/strong&gt;。自ら以（おも）えらく、其の国は日出ずる所に近しと。故に日本を以って名と為す。或いは云う、其の旧名を悪（にく）んで之を改むる也と。&lt;br&gt;
＜中略＞&lt;br&gt;
　雍熈元年（984年）、日本國の僧&lt;strong&gt;然&lt;/strong&gt;（ちょうねん）、其の徒五・六人と海に浮かんで至る。銅器十事并びに本国職員令・（日本）&lt;strong&gt;王の年代紀&lt;/strong&gt;各一卷を献ず。然、緑を衣、自ら云う、姓は藤原氏、父は真連（まむらじ）為（た）りと。真連とは其の国の五品の品官也（&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;注：日本にはこの名の官はない&lt;/font&gt;）。&lt;br&gt;
＜中略＞&lt;br&gt;
　其の年代紀の記す所に云う。初めの主は&lt;strong&gt;天御中主&lt;/strong&gt;と号す。次は天村雲尊と曰う、其の後は皆な「尊」を以って号と爲す。次は天八重雲尊。次は天弥聞（あめのにぎ）尊。次は天忍勝尊。次は贍波尊。次は萬魂尊。次は利利魂尊。次は国狭槌尊。次は角魂尊。次は汲津丹尊。次は面垂見尊。次は&lt;strong&gt;国常立尊&lt;/strong&gt;。次は天鑑尊。次は天萬尊。次は沫名杵尊。次は&lt;strong&gt;伊弉諾尊&lt;/strong&gt;（第１７代）。次は&lt;strong&gt;素戔烏尊&lt;/strong&gt;。次は&lt;strong&gt;天照大神尊&lt;/strong&gt;。次は正哉吾勝速日天押穂耳尊。次は天彦尊。次は炎尊。次は&lt;strong&gt;彦瀲尊&lt;/strong&gt;。凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&amp;nbsp;　彦瀲の第四子を&lt;strong&gt;神武天皇&lt;/strong&gt;と号し、筑紫の宮自り大和州橿原宮に入居す。即位の元年甲寅（こういん）は、周の僖王の時に当たる也（&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;注：僖王の在任中に甲寅はない。次の恵王十七年が「日本書紀」の即位年紀元前６６０年&lt;/font&gt;）。・・・&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15180121.html</link>
			<pubDate>Tue, 03 Jan 2017 11:11:07 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第３話　ヤマト王権成立の謎？</title>
			<description>&lt;div&gt;&amp;nbsp;前回のとおり、ヒスイの産地を押さえたということで台与（トヨ）が日本海を支配していることが分かる。だから未婚だといわれる卑弥呼の娘（宗女）であるはずなく、ヤマトの指令で敵対する邪馬台国征伐に向かい、卑弥呼が亡くなって、その跡を継いだ越の女王神功皇后だったということだ。そして、神功皇后は祟る人物なので女王台与の運命を暗示している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;話は前後するが、狗奴国（ヤマト）が邪馬台国を追討する第二次倭国大乱によって、台与（神功皇后）が女王になる前に倭王になろうとした尾張の王（仲哀天皇）の勢力を討った。そのために、ヤマト（狗奴国）の大王（卑弥弓呼＝物部の祖ニギハヤヒ）との関係をどうするか出雲王スサノヲ（武内宿禰）と相談して決めたのだろう。前述のとおり卑弥呼の応援のために魏の正規軍の軍旗を持って派遣された張政に説得されたのかも知れないが、結局親魏倭王を継ぐことにした。もしもヤマトの大王に状況報告し、張政の処分を相談したら恐らくヤマトは呉の孫権と同盟していた関係で、張政を殺す命令を受け、大国の魏を敵にすることになる。そればかりか有力者の尾張王殺害の罰を受けることになるかも知れないので、張政を生かして帯方郡に帰還させ、魏の力で呉の同盟国ヤマトに対抗しようと決断したのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;台与とスサノヲの倭国は元々の領地である出雲から越の日本海沿岸の国々まで支配下に入れ、魏の後ろ盾もありヤマトを圧迫する大勢力となってヤマト勢と対立し、抗争を続けることになった。スサノヲは四国や紀伊半島から東海・関東地方の国々を味方に引き入れようと活発に活動したのではないだろうか。各地で争いが頻発し、第３次倭国大乱となった模様だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ミイラ採りがミイラになってしまったと、ヤマトの大王は怒りに打ち震えただろう。倭国に圧倒されそうな状況のヤマトの大王としては吉備と尾張を中心に東海・関東の国々を糾合して裏切り者のスサノヲ・台与の倭国を攻める計画を纏向で練ったに違いない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヤマト勢は大軍勢を集め、吉備の物部氏を先頭に一気に瀬戸内海を渡って九州に侵攻した模様。まず豊前を攻め、その後二手に分かれ、一方は宇佐に南下し安心院の女王の居城を攻略、もう一方は博多から筑紫平野になだれ込み北九州を制圧した模様だ。地政学的な重要拠点の日田を奪われたスサノヲ軍は高良山に立て籠もって抵抗し、その間に台与とスサノヲの子（ホムダワケ）を有明海に逃がした。台与らは南下して野間岬を回って霧島周辺に落ち着いたのではないかと関裕二さんは推理している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;霧島市隼人町には神武天皇年間の創建と伝えられる鹿児島神宮（大隅正八幡宮）がある。神武天皇と応神天皇は同一人物だとしているので、丁度そのころ台与とホンダワケが宮殿としたということだろう。社伝では主祭神は山幸彦と豊玉姫夫妻だが、後の時代に八幡神を合祀したので相殿神に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・中比売命（応神帝の皇后）に加えて、何とあの呉の太伯が日本では唯一祀られているのには驚いた。やはり奴国の初代王天御中主（記紀に現れる天地開闢の神、中国の正史「宋史」の「王年代記」にある）は呉王夫差の一族ということか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;８１５年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」には松野連（まつののむらじ）の出自が呉王夫差と記されている。しかしその後呉王夫差から後の松野連系図が発見されるが、その出所が明らかでなく、卑弥呼や台与や倭の五王などが記されているとのことだがその信憑性については疑問だ。江戸時代に系図作りが流行したようだ。しかし、皇室に纏わる大隅正八幡宮に太伯が日本で唯一祀られていることは重要な事実だと思う(^O^)／&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、ヤマトの倭国再追討は大成功だったが、台与が逃げ込んだ南九州は隼人や熊襲（くまそ）の勢力範囲なので、九州掃討のために新たに軍が送られたのではないだろうか。それが景行天皇の九州巡幸として、あるいはヤマトタケルの熊襲の首長の川上梟帥退治の話として日本書紀に記されたようだ。前にも述べたが日本書紀ではこのあたりの大和王権成立の事情を何とか隠したい理由があり、４人の神の名の付く時代の異なる天皇と皇后や景行天皇や仲哀天皇などを配置したのだから、素直に記紀の話を信じると真相にたどり着けない仕組みになっているのだ。これについては次回の話としよう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうこうしている間に中国大陸では大事件が起った。２８０年、呉が晋によって滅ぼされてしまった。多分、呉も必至で倭国と同盟しようと動いていたが、卑弥呼は魏と同盟したので、その敵対勢力の狗奴国＝ヤマトと同盟したのだろう。だからその後ろ盾が消えてしまったらヤマトの大王としてはどうしたらいいのか慌てたことだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そこで、グッド・アイデアが浮かんだ！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうだ、魏の跡を継いだ晋に朝貢していた台与に子供がいたな(^O^)／&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかもその子供はヤマトの大王と同じ血筋の奴国王スサノヲの子供だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;台与の子供を至急探し出し、娘と結婚させて先祖を祀る祭祀王にして、実権は今までどおりヤマトの大王が握れば良いと判断した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;多分それ以後の日本の外戚政治のはじまりといえるものだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この話が、崇神天皇五年から六年にかけて疫病やら流民や反逆が発生し、七年二月十五日大物主が祟っているからその神の子オオタタネコに祀らせよとのお告げがあったので、探し出して祭主としたら疫病も収まり、国内はようやく静まったという話だと関裕二さんが見抜いた。神武天皇の東征の話ではナガスネヒコが饒速日（ニギハヤヒ）に逆らったので殺された。神功皇后は仲哀天皇の二人の皇子が応神天皇の大和入りに抵抗するので排除した。神武天皇も神功皇后も武力で制圧したというよりも、呪術で目的を果たした。これらは全て一つの話だった。記紀では時代を分けて話を作った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これがヤマト王権成立の真相ではないかと思う。今までの話を整理すると図のようになる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/71/15170971/img_0_m?1483016955&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;635&quot; class=&quot;popup_img_685_777&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;従来、邪馬台国九州説では邪馬台国東遷説というのが結構人気があって九州から大和に王権が遷りヤマト王権が生まれたという神武天皇の話に重点を置いたものだったが、真相は北九州を中心とする倭国が大和に吸収されたということだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この後にスサノヲや台与が支配していた出雲から越までの日本海沿岸の国々などがヤマト王権によって懐柔されていく。崇神天皇の四道将軍の話でありヤマトタケルの東国遠征の話だ。その後に起こるヤマト王権の半島経営の話が倭の五王の話だ。シナを宗主国とするのを嫌い、それを隠すために神功皇后の三韓征伐の話が作られたと考えられる。日本書紀が日本のアイデンティティを主張するためのものであると考えれば理解できるが、その点については次の話にしようね。またよろしくお願いします(^^♪&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a class=&quot;userDefTextLink&quot; href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot; rel=&quot;nofollow&quot;&gt;&lt;u&gt;&lt;font color=&quot;#0066cc&quot; size=&quot;5&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/font&gt;&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;【参考文献】&lt;br&gt;
関 祐二「天孫降臨の謎」PHP文庫&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15170971.html</link>
			<pubDate>Thu, 29 Dec 2016 21:49:01 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第２話　神功皇后は邪馬台国の女王？</title>
			<description>&lt;p&gt;人気作家関裕二さんの神功皇后トヨ説をベースに刮目天が解説します。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
○２４７年或いは２４８年、卑弥呼が亡くな り、径百余歩の塚を作り、奴婢百余人を殉葬。改めて男王を立てたが、国中服せず、互いに殺し合い千人が死んだ。そこで１３歳の卑弥呼の宗 女台与（トヨ）を王に立て、国が定まった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ヤマト王権＝狗奴国が強勢になり仇である伊都国の男王と裏切り者の邪馬台国の女王を追討するために尾張の王(仲哀天皇)と近江・越の女王(神功皇后)と出雲・但馬・丹後・丹波の王(武内宿禰)を送った。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神功皇后と武内宿禰は日本海沿岸部を進み、仲哀天皇は紀伊半島から瀬戸内海ルートを進み下関の豊浦（とゆら）の宮で落ち合った。さらに北九州に進むと投馬国の安曇氏は元の主筋なので直ぐに恭順の意を示したのだろう。邪馬台国陥落が間近に迫った時期に、日食があったので卑弥呼の神通力が衰えたと見て伊都国勢に殺されたのかもしれない。だとすれば卑弥呼の男弟は伊都国の男王の手下で女王のお告げを男王に伝える役目だということか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
卑弥呼が死に伊都国の男王がヤマト勢に殺されて尾張王(仲哀天皇)が倭王の座に着こうとしたが、近江勢らが不服で争いになり、男王とその軍勢が殺され卑弥呼の後継者に近江・越のトヨ(神功皇后)がなった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
この混乱状態を収拾するには張政の活躍が無ければならないはずだ！本来、ヤマトの勢力が親魏倭王の勢力を打ち破った訳だから、ヤマトに吸収されるはず！しかし、東国の有力者の尾張王を出雲勢と近江勢が殺してしまった。その内輪もめを上手く処理して親魏倭王をトヨに継承させた功労者は張政だ！彼は無事帯方郡に帰還でき、倭国への相当な影響力を掴んだ模様だ！&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
○２６６年に魏の元帝から晋の司馬炎（祖父司馬懿）に帝位が禅譲されたので、女王台与(トヨ）は倭の大夫掖邪狗らに男女の奴隷三十人と白珠５千個、青い大勾玉２個、倭錦２０匹を持たせて、洛陽まで朝貢した。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
近年、帯方太守張撫夷と彫られたレンガが墓から発見された。もしも張政のもならば、当時下級役人だった張政が、トヨを親魏倭王卑弥呼の正式な後継者である倭王と報告し、その後魏の跡を継いだ晋にいち早く、ライバルの呉を東方より圧迫を加える東夷の大国に相応しい珍しい品を持って朝貢させた勲功により太守まで出世したということだろう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
トヨが贈った大量の真珠は、古代はアコヤガイが出土した貝塚から、鹿児島湾に多く、長崎、熊本、愛媛でも見られた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
大きな青玉は、青い翡翠つまり糸魚川石と考えられ丹後半島で勾玉が作られた工房跡が見つかっている。前出の長野正孝さんは、当時の刳り舟（丸木舟） による航海は、海岸沿いに一日１０から３０ｋｍ位で、途中に船を陸にあげて、食糧などを調達する場所を確保する必要があるので、航路の支 配権は船乗りに航海の安全を提供できる能力ということになると述べている。つまり台与は、青玉の原産地糸魚川付近から丹後半島経由で博多まで安全な航 路「ヒスイの道」を提供できる力があったことを示している。先代の卑弥呼までは大きな青玉などを贈った記録がない。もしも卑弥呼が手にしたとしても貴重な宝であるので贈らなかったのか、手にすることができないものだったからなのかは明確でないが、従来の朝貢と比べると相当貴重な宝を贈らなけれ ばならなかった台与には、それ相応の動機があると考えられる。以後、中国では日本は珍しい宝石が採れる国ということが定着したようだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
先に述べたが応神天皇の生母で三韓征伐で有名な神功皇后は越（こし）の敦賀から仲哀天皇の熊襲征伐に参加するために別々に出発し、豊浦（とゆ ら）の宮で落合ったと「日本書紀」にあり、越の女王である。また、神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠 （しおひるたま）・潮満珠（しおみつるたま）から生まれたという伝説もある。西宮の廣田神社の宝物「劔珠」は皇后が豊浦の海中から見つけ たものだ。八幡大神から授かり連戦連勝を約束され、後に高野山を鳴動させたと言うほどの神通力のある如意宝珠という由来が伝わっている。 つまり神功皇后は「ヒスイの道」を支配した「ヒスイの女王」ということだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
更に、仲哀８（199）年９月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため豊浦の宮から儺県（ナノアガタ、奴国）の香椎の宮に移動さ れ、そこで天皇が神の託宣を乞うたとき、神は皇后に憑依（ひょうい）して、熊曽ではなく西方の金銀財宝の豊かな新羅を攻めることを勧め た。しかし、天皇は、託宣を信じず、熊曽を攻めたが、神の怒りにふれて翌２００年２月、筑紫の香椎宮で崩じてしまう。神功皇后は憑依す る巫女だということだから、卑弥呼の跡を継いだ台与（トヨ）も同じ巫女の特性を持つはずだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
また、日本書紀では神功皇后紀で摂政６６年（２６６年）に倭の 女王が晋に朝貢したと魏志倭人伝からの記述があり、まさに神功皇后が台与（トヨ）であるということだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかし、三韓征伐は史実としては年代に矛盾があり、４，５世紀の倭の五王か好太王碑にある事績と考えられる。これは日本書紀でしばしば使われる、記述内容を真実味のない神話にするための手法でもあり、同時に立派な功績で顕彰し、皇后の魂を鎮める目的だ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
え？何？鎮魂の意味があると言うのか？と驚かれるかも知れませんね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかし、のちの文献「続日本後記」の承和十年（８４３年）４月の条と「日本三代実録」元慶元年（８７７年）７月の条には神功皇后が 祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれていると関祐二さんは指摘しています。何故、三韓征伐の後、熊襲も退治 し、仲哀の二人の王子も退けて応神天皇を即位させて大和に凱旋した女傑神功皇后が世の中に祟りを与えなければならないのか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
これは神功皇后が実際には非業の最期を遂げたことを意味する。高貴な人が非業の死を迎える時、後に大きな天災や疫病が起こると当時は信 じられていました。菅原道真、早良親王、井上内親王なども有名だが一番大きな祟りは崇徳天皇（上皇）だったようです。ご存知 かもしれませんが、詳しくは、旧皇族の竹田恒泰さんの「怨 霊になった天皇」 にありますよ。まだでしたら、是非どうぞ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
つまり、高貴な方が恨みを持って亡くなった時の祟りが怖ろしいと当時の人たちは考えた訳です。そして、その魂を鎮めるには最も高貴な方＝ 天皇の祭祀が一番有効だと考えたと言うことです。これが古代史の謎を解く大きな手掛かりになります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ついでだが、刮目天が卑弥呼だとした宗像三神が祟ることは日本書紀に記述がある！&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
履中天皇五年春三月一日、筑紫においでになる三柱の神(宗像三神)が宮中に現れて、「何故わが民を奪うのか。お前にいまに恥を与えるから」といわれた。しかし祈祷だけを行って祀ることをしなかった。(宇治谷孟、全現代語訳「日本書紀」講談社学術文庫、p.258)。九月十八日に天皇が淡路島で狩りをされた際、島においでになったイザナギの神から部下の入れ墨の傷の血の臭いが嫌だと言われたり、それ以降良くないことが天皇の周りで次々に起きて、結局翌年三月十五日崩御された。宗像三神が履中天皇に祟った怖い話は日本書紀中の原因以外に元々祟られたヤマト王権側に負い目が有ったと言うことを意味するのかもしれない。つまり、ヤマト王権によって邪馬台国が滅ぼされたために、殺されて鬼神となった卑弥呼を天皇が粗末に扱ったので激怒して祟ったということだろう！&lt;/p&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
【参考文献】&lt;br&gt;
関 祐二「神武東征の謎」PHP文庫&lt;br&gt;
山田篤美 「真珠の世界史－富と野望の五千年」中公新書&lt;br&gt;
竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫&lt;br&gt;
長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」PHP新書&lt;br&gt;
宇治谷孟、全現代語訳「日本書紀」講談社学術文庫&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15166597.html</link>
			<pubDate>Mon, 26 Dec 2016 22:12:17 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>第１話　ヤマト王権は狗奴国だった？</title>
			<description>&lt;div id=&quot;docs-internal-guid-5e9d86c8-2e2c-0ba2-2ded-69a0512f625d&quot; style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇５７年、北九州博多の奴国 が後漢に朝貢し、紐(つまみの部分)が蛇の形の「&lt;strong&gt;漢委奴国王&lt;/strong&gt;」の金印を贈られた。紐の形はそれぞれの国のシンボルを表すものだから、倭人が自ら太伯の後と言っていたことを裏付けるものと言える。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;p&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/33/15161933/img_0_m?1483936117&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;109&quot; class=&quot;popup_img_200_109&quot;/&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;　　　　　　　　　　　　　　&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;Wiki「漢委奴国王印」&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;より&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;倭人が中国江南の呉の人々と同じ蛇神を祀る農耕・漁労民族の集団だったことを示している。古来、江南の海洋民を&lt;strong&gt;倭人&lt;/strong&gt;と呼んでいたようだ。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;春秋の呉が越に滅ぼされた紀元前４７３年に列島や半島南部に逃亡した王族の末裔が奴国を作ったと考えられる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;奴国には列島各地の産品が集まりシナの商人との交易で賑わった。奴国は後漢王朝が東夷の国を蔑んで那国を卑字で書いたものだろう。那は物が豊かにあるという意味であるし、王の耳が飾り物で垂れ下がる様子を表す漢字だ。那国の最盛期は南は筑後川まで達する筑紫平野の穀倉地帯を抑えた模様だ。後に那国王の後継者が大和に移ってその故地に因む地名を大和の地で付けて、繁栄を偲んだのではないだろうか。神話の&lt;strong&gt;高天原&lt;/strong&gt;が那国とみて間違いない。国産みを行った伊弉諾尊が、配下の海人族&lt;strong&gt;安曇氏&lt;/strong&gt;などを供にして列島各地に珍しい産品を求めて探検した最初の那国王ではないだろうか。&lt;strong&gt;宗像氏&lt;/strong&gt;を母とする次の&lt;strong&gt;那国王素戔烏尊&lt;/strong&gt;は鉄を求めて半島南部に渡った！&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇１０７年、&lt;strong&gt;倭王帥升&lt;/strong&gt;（すいしょう）らが後漢に朝貢した。約百余りある倭人国の代表として交易権を引き継いだことを認めてもらうための朝貢だったようだ。つまり奴国王族が北九州の奴国の領土から駆逐された可能性がある。壱岐に出土しない広型銅矛が対馬の海神神社（祭神は豊玉姫、配神に宗像大神、神功皇后の三韓征伐に由来）から出土しているので（安本美典 「奴国滅亡」より）、安曇氏が手引きして奴国王族が逃亡したか。その途中で金印を志賀島に埋めた。血統ある奴国王族を排除するにはそれなりの理由と力が必要だろう。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;紀元前２００年ころ多数の男女の若者と五穀百工（稲や植物の種と稲作・機織・医薬・冶金・大工）を引き連れて来日した&lt;strong&gt;徐福&lt;/strong&gt;の系統が考えら れる。医術は神仙方士徐福の重要な仕事で、秦の始皇帝は不老長寿の薬を手に入れるために徐福を夷州（日本列島）に派遣した。当時シナ大陸 で最も文化の進んだ山東半島の斉人の徐福は、「斉の八神」を列島に持ち込み治世の具とした（&lt;strong&gt;祭政一致&lt;/strong&gt;）。「&lt;font color=&quot;#00007f&quot;&gt;民を治めるには鬼神を明らかに し、山川を祭り、宗廟を敬い、祖旧を礼す&lt;/font&gt;」（「管子」牧民）のがよいとして、祭祀を行った（羽田武栄ら、真説「徐福伝説」三五館、 p.93)。つまり奴国の王位継承の儀式や祖霊祭祀を指導する役割を徐福の系統の人間が担い、王室内で力を蓄えたのではないだろうか。伊都国の伊は神の意志を伝える聖職者のことで、殷初期の伝説の宰相&lt;strong&gt;伊尹&lt;/strong&gt;（いいん）に因むものだ。そして那国王の横暴が帥升にクーデターを決断させたのかもしれない。或いは列島各地や半島を旅する王の留守を狙ったのかも知れない。だとすると高天原を追放された那国王はあの乱暴者の神しか居ないo(^o^)o&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇１７８～１８４年　&lt;strong&gt;第一次倭国大乱&lt;/strong&gt;。シナ大陸で流行した道教の一派、河北方面の&lt;strong&gt;張角&lt;/strong&gt;による&lt;strong&gt;太平道&lt;/strong&gt;と四川方面の&lt;strong&gt;五斗米道&lt;/strong&gt;の勢力が大きくなり後漢王朝の力が衰退したことにより、楽浪郡との交易権を握る倭王の権威も失墜した。恐らく、半島のワイ人や韓人の盗賊が頻発して治安が乱れ たのだろう。そのため、倭人の国々でも倭王に怨みを抱き、反発する旧奴国の勢力が徐々に盛り返しつつあった。後漢に朝貢して交易権を得た倭王帥升の跡を継いだ男王が伊都国を居城とし約８０年が経過した時期だ(遠山美都男、「卑弥呼誕生」洋泉社、2011, p.146)。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇１８４年、シナ大陸は張角が&lt;strong&gt;黄巾の乱&lt;/strong&gt;を起こし、群雄割拠の状態となり本格的な戦乱に突入。&lt;strong&gt;曹操（魏）・孫権（呉）・劉備（蜀）&lt;/strong&gt;の三国志の 時代の始まり。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;後漢王朝の衰退によって遼東太守であった&lt;strong&gt;公孫氏&lt;/strong&gt;が独立し、半島に勢力を伸ばした。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２０４年、半島では公孫氏が&lt;strong&gt;帯方郡&lt;/strong&gt;を設置し、半島の治安が落ち着き、郡と倭国間の交易が再開した。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;そこで、倭国王は北九州方面で郡との交易を妨害していた旧奴国勢力の懐柔を考え、邪馬台国に匿われていた旧奴国王族に繋がる宗像氏の女&lt;strong&gt;卑弥呼&lt;/strong&gt;を女王として共立し、第一次倭国大乱が終焉した（鬼神を祀る鬼道で国々を治めるやり方は徐福かその子孫たちがもたらしたのか）。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;伊都国から壱 岐・対馬経由で半島南部に渡るメインの航海ルートのためのロジスティクスを仕切っていたのが、倭国王だった。各地からの産品（南九州の真珠や阿蘇山等で採集された宝石・倭錦など）と半島南部から仕入れた鉄てい（板状の不純物入りの鉄の塊、農耕具や武器を鋳造・鍛造で製造するための材料）との交易が行 われていた。伊都国今津湾辺りは楽浪郡などから遣って来た華僑や南九州の縄文人(熊襲か？)たちの宿や交易の市があって賑わったと思われる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;卑弥呼を擁立したのは神湊から大島、沖ノ島経由の海北ルートで対馬から半島に渡り倭国王の交易を邪魔していた宗像氏とそれに従う安曇氏の一部だった。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;長野正孝氏によれば宗像大社付近は「&lt;font color=&quot;#40007f&quot;&gt;西は糸島半島から東は遠く日本海沿岸、周防灘から小さな船で集まり、季節を選んで工夫することで大陸に 人々が渡ることのできる場所のひとつであった。&lt;/font&gt;」とあるが（長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」PHP新書、pp.19-23）、 伊都国の倭王とは敵対していたので、そこには出雲・丹後・越などの日本海沿岸や中国・四国地方や更には東海・関東辺りに展開していた旧奴国王族とその配下の安曇氏などが各地の産品を宗像に集め、海北ルートで半島南部の鉄を仕入れて東国に流していたと考えられる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２２０年、曹操の子&lt;strong&gt;曹丕&lt;/strong&gt;が魏（２６５年まで）を起こし、皇帝となる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２２９年、&lt;strong&gt;孫権&lt;/strong&gt;が呉の初代皇帝となり、元号を黄龍と改める。翌年、1万の兵力で、&lt;strong&gt;夷州&lt;/strong&gt;と&lt;strong&gt;亶州&lt;/strong&gt;の捜査を行わせた。夷州（列島でなく台湾か 沖縄か）から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、責任者を処刑した。列島まで到達せず、倭人勢力との同盟という目的を 達成できなかったためと思われる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２３３年３月、孫権は&lt;strong&gt;公孫淵&lt;/strong&gt;の内通を真実と信じ、&lt;strong&gt;張彌&lt;/strong&gt;らに九錫の礼物と策命書を携え兵1万を動員した。しかし、公孫淵は孫権が派遣した 使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、側近達の諫止により思いとどまっ た。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２３７年、魏は&lt;strong&gt;&amp;#27596;丘倹&lt;/strong&gt;(かんきゅうけん)を派遣し遼東に駐屯させ、公孫淵に出頭命令を出した。しかしそれに従わずに迎撃の構えを見せて、一戦に及んだ&amp;#27596;丘倹を撃退した。一方、孫権は高句麗と通じ、公孫氏の遼東へ親征を行おうとしたが、取り止めた。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、&lt;strong&gt;燕 王&lt;/strong&gt;を称し、年号を紹漢元年とした。領土は帯方郡と楽浪郡であった。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２３８年、魏は&lt;strong&gt;司馬懿&lt;/strong&gt;に命じてこれを討たせ（&lt;strong&gt;遼隧の戦い&lt;/strong&gt;）公孫氏が滅亡した。戦後、司馬懿はこの地に魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよ う、当地の15歳以上の男子を皆殺しにし、夥しい数の亡骸で&lt;strong&gt;京観&lt;/strong&gt;（古代シナの戦争で討ち取った敵兵を積み上げるなどして埋葬し塚を作り、 戦勝の記念碑とする風習）を作ったことが後世に伝わる（シナ人らしい）。三国時代の戦乱で人口の９割がシナ大陸から消えたという記録があ る。そのために、&lt;strong&gt;曹操&lt;/strong&gt;が北の異民族を呼び込んだので、以後のシナは民族的には多様化したとのこと。それでも現在の華北漢民族の父系（Y染色体）遺伝子 の分布を見ると、６６％くらいはシナ人のＯ2ハプロタイプで北方系C2が５％だから、シナ人の繁殖力は旺盛だ(Wiki「日本人」参照)。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２３９年（景初三年）、倭女王（卑弥呼）が魏に朝貢し（帯方郡、その翌年正始元年洛陽で皇帝に謁見）、&lt;strong&gt;親魏倭王&lt;/strong&gt;の称号が賜られ、魏・半 島との交易権を手に入れた。魏の銅鏡百枚などが送られた。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;〇２４３年（正始四年）、倭の女王が二度目の朝貢。魏の皇帝は難升米に&lt;strong&gt;黄幢&lt;/strong&gt;（魏の皇帝が部下に軍を動かす命令を示す黄色の旗）を与えるた め帯方郡に仮に授けた。&lt;strong&gt;狗奴国&lt;/strong&gt;が魏にとっても敵対勢力であることを示している。&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;そのような中で呉の元号の入った銅鏡が二枚発見されている。２３８年銘のものは山梨県鳥居原狐塚古墳から、２４４年銘のものは宝塚市安倉 高塚古墳からだから、近畿から東は呉と同盟関係であったことの傍証になる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２４５年、韓の反乱により帯方郡太守が戦死、楽浪郡太守が討った。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;〇２４７年、帯方郡の太守が着任し、卑弥呼が使者を派遣。狗奴国との戦いを報告。魏は帯方郡の国境守備の属官&lt;strong&gt;張政&lt;/strong&gt;を派遣し、詔書と黄幢を難升米に渡し、檄文を作って 告諭した。通説では邪馬台国を筑紫平野にあったとみてその南 の熊本県菊池あたりの熊襲ということになっているが（男王の名は&lt;strong&gt;卑弥弓呼&lt;/strong&gt;（ヒミココ）、官が&lt;strong&gt;狗古智卑狗&lt;/strong&gt;（クコチヒコｰ&amp;gt;きくちひ こ））、魏にとって脅威となる列島の一大勢力とみていることが分かり、通説では説明できない。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;ここからも狗奴国は旧奴国王の勢力と推理できる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;そして、３世紀末のヤマト王権成立時から、三輪山麓の&lt;strong&gt;纏向&lt;/strong&gt;の地において御神体が蛇との伝承のある出雲神「&lt;strong&gt;大物主大神&lt;/strong&gt;」を祀ることからもヤマト王権は&lt;strong&gt;呉の太伯&lt;/strong&gt;の後裔の可能性がある奴国の流れを汲むと考えられる。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; face=&quot;Arial&quot; size=&quot;5&quot;&gt;&lt;a href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;u&gt;人気ブログランキングへ&lt;/u&gt;&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;【参考文献】&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;渡部雅史「大和 朝廷成立の謎―古代出雲王国から邪馬台国へ」幻冬舎&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」（中公新書）&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;&quot;&gt;遠山美都男、「卑弥呼誕生」洋泉社&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;岡田英弘、「日本史の誕生」弓立社&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」PHP新書&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; face=&quot;Arial&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/font&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;https://ja.m.wikipedia.org/wiki/&amp;#x00516c;&amp;#x005b6b;&amp;#x006df5;&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;Wiki「&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;&quot;&gt;公孫淵&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;」&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;Wiki「日本人」&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15161933.html</link>
			<pubDate>Sat, 24 Dec 2016 11:44:42 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>祝天皇誕生日(^_^)ﾉ</title>
			<description>&lt;div id=&quot;docs-internal-guid-5e9d86c8-2a05-5aa4-441f-fe591bb2fb56&quot; style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;本日、天皇陛下が８３歳の&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;お誕生日を迎えられました。心からお喜び申し上げます。ますますのご長寿を祈念致します！&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;天皇陛下は日本国の象徴であり国民統合の象徴と現行憲法にも有りますが、７０年ほど前に米国人に書いてもらうまでもなく、日本の礎となるヤマト王権が成立する、今から約１７００年前にすでに国民の安寧と国家の鎮護をひたすら皇祖・皇宗にお祈りする祭祀王としてハツクニシラススメラミコトがご即位されました（７２０年に作られた最初の正史「日本書紀」にある神武天皇即位の年を西暦で逆算すれば紀元前６６０年となるが、歴史的事実は３世紀末のこと）。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;b&gt;何故、日本が万世一系の天皇陛下を戴いているかははっきりしています。&lt;/b&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;日本列島は外敵よりも自然災害が頻発しますので、その害は為政者に徳がな いと先祖の怒りによって起こると昔の人々は考えた訳です！恨みを持って亡くなった人、それも高貴な方であればあるほど祟りが大きい！&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;つまり為政者は国家・国民のために徳を示し、ご先祖の怒りを買わないようにひたすら祈るのが大きな役割ということです！天皇の権威の下で臣下が天皇の政治を助けると言うのが日本の伝統的な政治形態、つまり国体だということでしょう！&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;だから誰でも皇位につけるわけでないと国民が理解していたので万世一系が今でも実現されているわけです！&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;b&gt;これは迷信ではなく、日本が日本であり続けるための日本人の知恵です(*⌒▽⌒*)&lt;/b&gt;&lt;/span&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div style=&quot;line-height:1.38;margin-top:0pt;margin-bottom:0pt;&quot; dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;さて、弥生時代後期において北九州の倭の奴国から邪馬台国へ、そして大和の地に王権が移りました。日本書紀や古事記で隠された、現在につながる天皇家の祖先によるヤマト王権成立から日本建国までの真相を以下の５回の話に分けて順次書いていきます。上で述べたことはこの研究で得られた知見ですので、是非ご覧頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;b&gt;刮目天の古代史だ！&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;第１話　ヤマト王権は狗奴国だった？&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;第２話　神功皇后は邪馬台国の女王？&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;第３話　ヤマト王権成立の謎とは？&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;第４話　何故、「日本書紀」は歴史を隠す？&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;第５話　日本建国はいつのこと？&lt;/span&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;font-size:35.36px;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;br class=&quot;kix-line-break&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;＃この内容は昨年５月にｍｙ日本で連載したものに若干加筆したものです。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;color:rgb(0, 0, 0);font-family:Arial;vertical-align:baseline;background-color:transparent;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; face=&quot;Arial&quot; size=&quot;6&quot;&gt;&lt;a href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15160541.html</link>
			<pubDate>Fri, 23 Dec 2016 14:59:09 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
		</item>
		<item>
			<title>卑弥呼は１００％ヤマトの女王か？^^！</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;iRONNA 邪馬台国「九州説」に徹底反論！　&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot; size=&quot;6&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;a href=&quot;http://ironna.jp/article/4551&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;卑弥呼は１００％ヤマト女王だった&lt;/a&gt;&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;桑原久男（天理大学教授）&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この論文は拙ブログ「&lt;b&gt;&lt;a href=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15140348.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;日本は古の倭の奴国だ(^^♪&lt;/a&gt;」&lt;/b&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;で示した安本美典さんの&lt;/span&gt;&lt;a href=&quot;http://ironna.jp/article/4548&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;span style=&quot;font-size:32.05px;&quot;&gt;【iRONNA】邪馬台国は「９９・９％」九州にあった&lt;/span&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;(2016年11月20日14:57)&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;に反論するために起こされたものであると思われるが、考古学的事実から得られる推論と結論には賛成できない！そこで、その事実を刮目天の説ではどのように説明できるかを示すために、写真を除き全文を掲載させていただく！少し冗長であるが、ご興味があれば是非ご覧頂き、ご意見を頂けると有り難いです！よろしくお願い致します(*⌒▽⌒*)&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;b&gt;人気ブログランキングへ&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　奈良県天理市には、全国的に著名な金象嵌（きんぞうがん）銘文資料が二つある。その一つは、１９６２年、市内北部の櫟本（いちのもと）に所在する東大寺山古墳で発見された鉄刀で、　１００ｍ前後の中規模の古墳を見ても、三角縁神獣鏡など多量の銅鏡が出土した黒塚古墳や天神山古墳、船の埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘された下池山古墳や中山大塚古墳など、他の地域ならトップクラスになる規模と内容を持っている。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　３世紀の半ばから４世紀にかけての古い古墳がこれほど集中する地域は他になく、大王墓クラスの前方後円墳を核として、同じ形をした大小の前方後円（方）墳形が累々と階層的に営まれるさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという初期王権の連合的な性格を表しているように思われる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　黒塚古墳の三角縁神獣鏡３３面は、魏志倭人伝が伝える３世紀における倭と中国の政治的交渉を背景にしなければ理解ができない。オオヤマト古墳群は、魏との外交をおこなった３世紀の倭政権を構成した王侯集団の奥津城と考えて差し支えないと思われる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;奈良・黒塚古墳から出土した卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　世界遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代（５世紀）の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い３～４世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された４世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。を高度な技術を用いた金象嵌で刻んでいる。福岡の志賀島で江戸時代に見つかった国宝の「漢委奴国王」金印は、年号を刻んでいないから、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、日本最古の紀年銘資料ということになる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　残念ながら鉄刀の実物は天理市にはなく、重要文化財として東京国立博物館に収蔵されている。近年、念入りな修復作業が施され、報告書も出版されたから、いずれ、埼玉稲荷古墳の鉄剣など、他の紀年銘資料と同じように、国宝に指定されて然るべきだろう。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　『漢書』地理志は、「楽浪海中に倭人あり。百余国に別れ、歳時をもって来たりて献見す」と、紀元前１０８年に設置された楽浪郡と倭人社会の交渉を記録する。また、『後漢書』東夷伝は、紀元後５７年、朝貢を行った倭の奴国に対して、光武帝が印綬を賜与したことを伝えている。志賀島出土の「漢委奴国王」金印は、年号がないが、この奴国王朝貢の際に授けられたと見るのが定説だ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　これに対して、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、２世紀末の倭と中国の政治的交渉を通してもたらされたと考えられる。ただし、こちらの場合、中国の混乱期だったためか、逆に中国の正史には倭の入朝の記録がなく、倭に「中平」銘鉄刀を贈ったのは、遼東太守として、当時、中国と東夷諸国の交渉窓口だった楽浪郡を実質的に支配した公孫氏の政権だった可能性が指摘されている。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　また、当時の日本列島は、魏志倭人伝などの文献によれば、倭国乱が収束した直後の時期で、「中平」銘鉄刀を贈られたのは、邪馬台国を都として、倭国の女王に共立されて間もない卑弥呼だった可能性がある。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　それでは、２世紀末の中国で製作された鉄刀は、どのようなルートを経て、奈良盆地に運ばれてきたのだろうか。魏志倭人伝が記す倭国への交通ルートは、帯方郡から海岸に沿って水行し、狗邪韓国から海を渡り、対馬国、一大国を経て、末盧国から陸行し、伊都国に至るというものだ。伊都国から東南の奴国に至るには百里で、邪馬台国の女王の都に至るには、解釈が難しいが、南に水行十日、陸行一月だとされる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　１００ｍ前後の中規模の古墳を見ても、三角縁神獣鏡など多量の銅鏡が出土した黒塚古墳や天神山古墳、船の埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘された下池山古墳や中山大塚古墳など、他の地域ならトップクラスになる規模と内容を持っている。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　３世紀の半ばから４世紀にかけての古い古墳がこれほど集中する地域は他になく、大王墓クラスの前方後円墳を核として、同じ形をした大小の前方後円（方）墳形が累々と階層的に営まれるさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという初期王権の連合的な性格を表しているように思われる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　黒塚古墳の三角縁神獣鏡３３面は、魏志倭人伝が伝える３世紀における倭と中国の政治的交渉を背景にしなければ理解ができない。オオヤマト古墳群は、魏との外交をおこなった３世紀の倭政権を構成した王侯集団の奥津城と考えて差し支えないと思われる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　世界遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代（５世紀）の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い３～４世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された４世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;b&gt;３～４世紀に造成されたオオヤマト古墳群が３世紀半ばの「邪馬台国」と時代が重なるからといってそこが邪馬台国だなどと云うのは如何なものか。&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　刮目天の説では纏向に九州の倭国＝邪馬台国連合と敵対する２世紀初頭に帥升王に追放され、狗奴国と言う名前で貶められた旧奴国王族の出雲・但馬・丹後・丹波・吉備・尾張などの国々が結集したので、この時代に畿内に古墳群が多数造成されたと説明できる！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　また中平銘鉄刀は後漢皇帝が楽浪郡太守に命じて東夷に賜与したものであるとも推測できるが、だからと言って卑弥呼がもらったものという証拠はない！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「中平」年間が第一次倭国大乱の時期であればむしろ倭国の男王が貰った可能性が高い！卑弥呼は伊都国に居た帥升王の後継者と敵対関係であった勢力が和解した結果、女王に共立されたので、そのタイミングは公孫&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;氏が２０４年に帯方郡を設置して半島南部の治安が回復した時期と考えるのが合理的だ！&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　たとえ卑弥呼が貰った刀であったとしても、貴重な威信財であるので東大寺山古墳の被葬者が最終的な所有者であると判るだけで、時代も３世紀中頃の卑弥呼の後の４世紀の古墳であるので、それがどういう経緯で所有者が変わったのかは解らない！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;従って、この古墳の地が邪馬台国であるとも断定できないのは当然のこと！&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;b&gt;古代の倭人社会は北九州か&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　金印がもたらされた紀元後１世紀の頃、北部九州では、須玖岡本、三雲南小路など、弥生時代中期後半から後期初頭の甕棺墓に、漢鏡をはじめとする中国系の文物が数多く副葬されている。これに対して、近畿地方の弥生時代中期の遺跡では、中国系の文物は極めて乏しく、この時代、倭人社会の外交的な中心は明らかに北部九州にあったのだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　ところが、古墳時代の前期（３世紀後半～４世紀）になると、三角縁神獣鏡など、中国系の文物は一転して近畿地方に集中するようになり、対外交渉の中心が北部九州から移動する。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　三角縁神獣鏡は文様が魏の鏡ではなく南方系の職人によるものと云われている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　そこに魏の景初銘を刻んでいるのは不審だ！しかも景初は３年までであるにも関わらず４年という鏡も出土しており、魏の洛陽にも中国では一枚も出土していないことから、日本に渡来していた呉の職人に日本で作らせたとわかる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　魏から卑弥呼に贈られた１００枚の鏡であることを主張する為であることは明らかなので、誰かを騙す目的であろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　つまり呉の孫権と同盟していたヤマト王権が、２８０年に西晋によって呉が滅ぼされ、西晋に追討されるのを怖れ、ヤマト王権が卑弥呼の王権を継承したものとしたかったのだと推理出来る！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　卑弥呼の宗女台与(トヨ)＝神功皇后の子ホンダワケ＝応神天皇＝神武天皇を祭祀王としてヤマトに迎えたと言う関裕二さんの説を採用すれば、これが２８０年の直後の出来事だと推理できる！日本書紀ではもう一人のハツクニシラススメラミコト&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;崇神天皇がオオタタネコを三輪山の大物主を祀るために呼んだ話と符合する。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　古代の中国では、今の日本人の住む地域を「倭」と称し、日本人を倭人と呼んだ。この「倭」を日本ではヤマトと読んだが、ヤマトというのは、もともとは、奈良盆地東南部の狭い地域を指す言葉だった。それが大和の字を用いて、奈良盆地全体を指すようになり、ついには日本全体を意味することになった。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヤマトという言葉は山戸、山門のことで、海への入り口であるミナト（湊、港）と同様に、平地から山地への入り口を指す普通名詞だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　奈良盆地を倭と書きヤマトと呼ぶのは前述の通り倭国が東に遷ったもので、つまり邪馬台国の後継であると主張するためだ。そして纏向の地で東西の勢力が和平することにより従来の倭国と大和が合体して大倭国となったと云う意味を表すために大和と書き改めてヤマト＝邪馬台と呼ばせたものと考えられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;b&gt;纏向遺跡は３世紀半ばに突如登場した、倭国＝邪馬台国に敵対する反倭国勢力が結集した政治都市だから１００パーセント邪馬台国ではない！&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;div class=&quot; &quot; style=&quot;text-align:center;&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div class=&quot; &quot; style=&quot;text-align:center;&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-64-c3/katumoku101/folder/528585/37/15158037/img_0_m?1484977890&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; width=&quot;560&quot; height=&quot;405&quot; class=&quot;popup_img_672_486&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;一方、のちに外国全般を指すことに意味が広がる「カラ」という言葉は、もとは、「加羅」と書き、朝鮮半島南部の狭い地域を指す言葉だった。それに「韓」の字を当て、さらには、「唐」の字を用いるようになる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　興味深いのは、この「加羅」、今の金海市を中心とした地域において、弥生時代～古墳時代に並行する時期の遺跡から、日本列島との交渉を示す「倭系」の文物が数多く見つかることだ。しかも、金海貝塚など、弥生時代に並行する時期の遺跡では、見つかる倭系遺物は、弥生土器など、北部九州系のものばかりなのが、大成洞古墳群など、古墳時代並行期になると、近畿の古墳副葬品と共通する文物が数多く見つかるように変化する。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;つまり、朝鮮半島の側から見ても、弥生時代から古墳時代にかけて、倭人社会の中心が北部九州から近畿へと移り変わったことが明らかなのだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　２８０年ころにヤマト王権が纏向に成立した後、ヤマト王権に恭順する国々の首長はヤマト王権と同じ前方後円墳の祭祀形式を採用したと考えられる(恭順の証し)。ヤマト王権が三角縁神獣鏡も与えたと考えられる！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヤマト王権成立以前の古墳や祭祀器の形式は様々で、北九州地方の倭国では円墳と銅剣・銅鏡、出雲・丹後・但馬・丹波では方墳と銅鐸、近江・尾張・駿河などは前方後方墳と銅鐸が用いられた。なので、祭祀形式はどこの派閥かを示すものだったのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　しかしヤマト王権が成立しても各地が一斉にヤマト王権に従ったのではないはずない！そのために列島内で活躍したのが崇神天皇の四道将軍であり九州各地に遠征した景行天皇である。その皇子ヤマトタケルの事績はそれらのシンボルであったと言うのが関裕二さんの説だ！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　また半島へは４世紀末の好太王碑の内容に符合する神功皇后の三韓征伐や&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;５世紀の倭の五王&lt;/font&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;だった！日本書紀で同一時代に活躍した神の名の付く神武・崇神・応神・神功皇后を時代を別々に分けて描いたので、このことの矛盾から、この時代の天皇系譜は完全に切り刻まれていると関裕二さんは指摘している！&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;さらには中国の朝貢国だったことを隠す目的もあったはずだ！つまり日本書紀や古事記はそのような政治目的で作られた歴史書であることを押さえておく必要がある！&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　今度は、奈良盆地の状況を見てみよう。盆地中央部の唐古・鍵遺跡では、西日本の各地から持ち運ばれた外来系土器が、弥生時代を通して数多く見つかっている。この外来系土器の動向から読み取れるのは、奈良盆地の地域社会と他地域との関係がどうだったか、あるいは、地域間の交流ルートがどのように変化したかということだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　すなわち、弥生時代中期前半は伊勢湾岸方面の土器が多く、中期後半には瀬戸内系の土器が急速に増加する。北部九州の土器も１点だけだが見つかっていて、この時期には、瀬戸内海を通る交流ルートが存在したことを明確に示している。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　大和に邪馬台国があったならば半島との交易拠点の伊都国など先進文物の集積地である北九州地方の人々が大和に着ていないはずはない！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;b&gt;纏向遺跡に北九州地方の外来土器が発掘されないのは、大和が邪馬台国でない決定的な証拠といえる！&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから九州の邪馬台国に対抗する勢力が政治都市の纏向に結集したと見るべきで、人数的には尾張・近江などの東国勢が有力だが、祭祀の形態を見ると吉備の主導が伺われる！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり吉備の王が旧奴国王の正統な後継者であると推理できる！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、九州の旧奴国王族が裏切って卑弥呼を倭王に共立し、東国勢とを分断し半島南部の鉄の供給を断った。そこで奴国王の正統な後継者ニギハヤヒ＝狗奴国王の卑弥弓呼が吉備から纏向に移動し、各地の勢力を糾合したものと考えられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして出雲・但馬・丹後・丹波の王（スサノヲ＝武内宿禰）、近江の王女（卑弥呼の宗女台与＝神功皇后）と尾張・伊勢の王（仲哀天皇）を九州征伐に派遣したと考えられる。これが第二次倭国大乱だろう！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;b&gt;&lt;br&gt;
&lt;/b&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;b&gt;韓国の遺跡で多数見つかる畿内の土器片&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　これに関連して注目されるのは、最近、韓国の金海貝塚で弥生時代後期の近江系土器がはじめて出土したことだ。金海貝塚では、ほかに、近畿地方の弥生時代後期の特徴を備える土器片の存在も認められた。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　先述の通り神功皇后の三韓征伐を意味し、神功皇后が近江・越の勢力であることを示している！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;この事実は、朝鮮半島南部の倭系文物が弥生時代中期には北部九州系中心だったのが、古墳前期には近畿系の遺物が主流を占めるようになる、その変化の起点が弥生後期の段階（紀元後１～２世紀）にあることを示唆している。　&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　弥生後期は紀元後１～２世紀ではなく&lt;font color=&quot;#ff0000&quot;&gt;２世紀から３世紀前半まで&lt;/font&gt;と見るべき！（注）安本美典さんは古墳時代は４世紀からとみているが、刮目天説では２８０年の呉の滅亡後に応神天皇の即位で近畿を中心とする大倭国が成立した後、近畿勢が半島に進出したことを示している！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　こうしてみると、弥生時代後期、唐古・鍵遺跡で近江系土器が急増するのは、高地性集落が示す緊張状態のなか、瀬戸内海の交通ルートが遮断され、逼迫した奈良盆地の弥生社会が、必需品となりつつあった鉄資源などの物資を求めて、やむなく、近江を経由する日本海ルートに活路を見いだしたことによると考えられるのではないだろうか。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　ヤマト王権が成立する前には北九州の倭国によって東の旧奴国王族の国々への鉄の供給が制限されたが、邪馬台国の女王が共立されるまでは出雲・丹後・但馬などは北九州の同族で倭国に抵抗していた邪馬台国勢の力を借りて神湊から大島、沖ノ島経由で半島南部の鉄を細々と入手していた模様だ（倭王が支配していた今津湾・呼子・壱岐・対馬のメイン・ルートに比べるとかなり危険で厳しいルートだったと思われる）。だから近畿地方へは丹波から播磨経由で、また敦賀から近江・尾張などへ細々と供給されていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　同時に奥出雲や但馬で砂鉄を採取して蹈鞴製鉄により鉄の供給も行われていたが、&lt;b&gt;九州の邪馬台国勢が倭国勢力と組んで半島との交易を独占して東国への供給を遮断したので、鉄不足に陥った出雲から東の勢力が纏向に結集して九州の邪馬台国・倭国の追討を行ったと推理した！&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;交通ルートが政治情勢に左右されるのは、何もこの時代に限らない。７～８世紀、遣唐使のルートは、朝鮮半島との政治的関係から、伝統的な北路に代わり、途中から危険な南路を取らざるを得なかったし、米ソ冷戦の時代には、日本からヨーロッパ各国への空路は、シベリア上空を避けて、アンカレッジを経由した。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　さて、２世紀末に始まる纒向遺跡の時代には、各地の高地性集落も終焉を迎え、地域間の緊張状態（＝倭国乱？）も収束したことが窺われる。纒向遺跡から出土する外来系土器の豊富さは、かねて指摘されるように、西日本を中心とした各地に及び、この時期の奈良盆地と各地域との全方位的な交流の存在を示している。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　西日本における吉備系土器の分布を見ると、弥生時代後期には閉塞状態だった瀬戸内ルートもすっかり回復し、北部九州と近畿をつなぐ浦々に拠点的な集落が発達した様子が読み取れる。これが、すわなち、魏志倭人伝が伝える邪馬台国への道筋で、２世紀末に製作された東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀も、おそらくこの瀬戸内ルートを通して、奈良盆地にもたらされたのであろう。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　ここで問題になるのは、鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造されたのが、埴輪や副葬品、埋葬施設の特徴から見ると、古墳時代前期末、４世紀後半だということだ。銘文に従えば、「中平」銘鉄刀が製作されたのは２世紀末だから、製作後、１５０年以上の「伝世」を経て、古墳の副葬品として納められたことになる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;b&gt;今に伝わる二つの鉄刀&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　奇しくも、天理市にあるもう一つの著名な記念銘資料、石上神宮の七支刀が伝えるのが、まさに４世紀後半、東大寺山古墳が築造された時代の国際情勢だ。伝世品として永く神宮に伝わり、国宝に指定されているこの鉄刀は、金象嵌の銘文から、泰和４年（３６９年）、百済王が倭王に贈るために特別に製作したことがわかる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　４世紀の後半は、２９１年に始まる八王の乱によって華北が混乱状態となり、３１３年には高句麗の南下によって楽浪郡や帯方郡も滅亡するという東アジアの情勢を背景に、朝鮮半島の南部と日本列島で、それぞれ国家形成に向けた社会統合のプロセスが急速に進展した時代だ。３６９年、百済王が倭国に七支刀を贈ったのは、同じ新興国の百済と倭が相互の外交関係を重視した事情があったと推察される。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　このように、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀と石上神宮の七支刀は、魏志倭人伝が詳しく記す３世紀の倭と魏の交渉の時代をはさんで、その前後の時期、2世紀末と4世紀後半の国際情勢の一端を銘文資料として今に伝えているということになる。どちらの時期も中国本土は混乱期で、倭に関わる文献資料が残っていない空白の時期なので、その資料的価値は極めて大きい。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　２世紀末から４世紀にかけて、日本列島で進展した初期王権形成の過程を考えるうえで重要な遺跡が密集するのが、奈良盆地の東縁、天理市から桜井市の山麓に広がる山の辺地域だ。この地域は、唐古・鍵遺跡など、拠点的な大規模集落が盆地内部に展開する弥生時代中期には顕著な遺跡が見られず、空白地域だったのが、弥生時代の後期末（２世紀末）になると、一転して、纒向遺跡やオオヤマト古墳群など、数多くの遺跡が濃密に形成される地域へと変貌する。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　纒向遺跡やオオヤマト古墳群は、日本列島における弥生時代から古墳時代への変化を象徴する遺跡と見ることができ、近年は、纒向遺跡を「王都」として、その出現をもって古墳時代の始まりとする意見も有力だ。纒向遺跡では、これまでの調査で、矢板で護岸をした人工水路や導水施設、祭祀土坑、方位をそろえた掘立柱建物群など、注目すべき遺構・遺物が見つかり、この時代の中心的な役割を果たした拠点的な遺跡だと考えられている。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　山の辺地域では、纒向遺跡の形成に続いて、３世紀中頃から４世紀にかけて、オオヤマト古墳群が集中的に造営される。春日断層崖に添う段丘面に広がる南北４km、東西約１.５kmの範囲に、大王墓クラスの大形前方後円墳４基を核にして、大小４０数基の前方後円（方）墳がひしめくように密集する。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　定型的な最古の前方後円墳として評価される箸墓古墳は、卑弥呼の墓と考える説も有力で、天理市の西殿塚古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳といった全長２００mを超える巨大古墳は、卑弥呼の後に続く歴代の倭王の墓と考えられる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;邪馬台国と重なるオオヤマト古墳群&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　１００ｍ前後の中規模の古墳を見ても、三角縁神獣鏡など多量の銅鏡が出土した黒塚古墳や天神山古墳、船の埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘された下池山古墳や中山大塚古墳など、他の地域ならトップクラスになる規模と内容を持っている。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　３世紀の半ばから４世紀にかけての古い古墳がこれほど集中する地域は他になく、大王墓クラスの前方後円墳を核として、同じ形をした大小の前方後円（方）墳形が累々と階層的に営まれるさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという初期王権の連合的な性格を表しているように思われる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　黒塚古墳の三角縁神獣鏡３３面は、魏志倭人伝が伝える３世紀における倭と中国の政治的交渉を背景にしなければ理解ができない。オオヤマト古墳群は、魏との外交をおこなった３世紀の倭政権を構成した王侯集団の奥津城と考えて差し支えないと思われる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　世界遺産登録に向けて準備が進む古市・百舌鳥古墳群が、中国南朝と交渉を行った「倭の五王」の時代（５世紀）の歴史を伝えているとするならば、オオヤマト古墳群が伝えるのは、さらに古い３～４世紀、まさに「邪馬台国」と重なる時代の歴史なのだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　ところが、「中平」銘鉄刀が出土した東大寺山古墳が築造された４世紀後半になると、石上神宮の七支刀が示すように、中国との関係よりも、朝鮮半島の新たに勃興した百済との関係が重要になっていた。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　また、オオヤマト古墳群に葬られていた大王たちの奥津城は、奈良盆地北部の佐紀古墳群に移動し、連合王権を支えた有力者たちも、東大寺山古墳の被葬者を含め、自らの本貫地に墓所を営むようになる。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#0000bf&quot;&gt;　卑弥呼に賜与された可能性のある「中平」銘鉄刀は、このように、変動する情勢のなかで、何らかの機会に、連合王権の一員として一定の地位を占めていた東大寺山古墳の被葬者に与えられ、その死に際して、ついに副葬品として奉じられることになったのであろうか。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　上で説明したとおり、２世紀後半の「中平」銘の鉄刀が４世紀造成された古墳から発掘された事実や有力な首長たちの古墳群造成の時代が邪馬台国の時代と重なるから大和が邪馬台国だというのは大間違いだ！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;b&gt;大和が邪馬台国でない&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;b&gt;決定的な証拠は、政治都市の纏向遺跡で発見された外来土器に邪馬台国の大卒が置かれたという当時の先進地域の北九州の土器が纏向遺跡に見られないと言うことだ！&lt;/b&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　その他、三角縁神獣鏡が魏鏡ではないと言う事実も重要であるし、魏志倭人伝にある鉄鏃は発見されるのは九州ばかりで、「棺有って槨無し」とある墓の形式も大和のものは適合しないことが大和に邪馬台国が１００パーセント無かったと結論づける根拠だ！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;font-size:14.56px;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　大和説ではこれらの反証となるものに合理的な説明が出来ないので邪馬台国は大和に無かったと結論づけざる得ないのだ！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;最後までお読みいただき感謝します（●＾o＾●）&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;a href=&quot;https://blog.with2.net/link.php?1883151&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;人気ブログランキングへ&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;（注）弥生時代から古墳時代への移行の起点になるのが、２世紀末から３世紀初頭頃の女王卑弥呼の共立だ。半島から鉄輸入のメインルートを伊都国に住む倭王が抑えていたが、倭王と敵対する北九州周辺の勢力（宗像氏とその配下の安曇氏）が、宗像の大島から沖ノ島・対馬の海北ルートを使って半島の鉄を入手し、瀬戸内海沿岸（吉備）から畿内へ、そして日本海沿岸（出雲・丹後・越）から近江経由で東海・関東へ細々と流していた。彼らが伊都国の倭王と和解し邪馬台国の卑弥呼を女王に共立したたために、九州以東の鉄の流入が止められた。そこで吉備・出雲・丹後などの旧奴国王族が東国を糾合し、纒向にできた政治都市の誕生によって時代は大きく動いた。纏向を倭国側は狗奴国という蔑称で呼んだ。だから、狗奴国によって北部九州の倭国が占領された２４８年頃（卑弥呼の死の頃)から弥生時代後期終末期が始まるとみている。＜2017.1.13&amp;gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/katumoku101/15158037.html</link>
			<pubDate>Wed, 21 Dec 2016 20:00:08 +0900</pubDate>
			<category>人類学と考古学</category>
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