書は人なり
「文はその人のごとし」とは蘇軾のことばだそうですが、「書は人なり」も同じような意味合いでしょう。さて、あなたはどんな方?私は?
書道と一口に言っても
おおまかに教育書道と芸術書道に分かれるのですが、前者は例えればパソコンの筆記体のようなもので、後者は新しい崩し方等を創っていくものだと言えそうです。
どちらを…
後者を目指したつもりだったのですが、入学(1977年)した大学は前者でした。
入部
当然かのように書道部に入部しました。当時200人ぐらいの在籍者(幽霊部員も含め)がいたと思います。当時は全学年でも学生は確か2000人足らずの大学でしたのでこれは驚異です。真面目に通ったのは半年位でした。1年の夏の合宿では石橋犀水先生(日本書道教育学会)がご高齢にも関わらず視えられたのを覚えています。私が書いている背後から「君、それでいいよ」とおしゃって下さいましたが。
でも、目指すものと何かが違う…と感じつつ。
別に
K先輩に誘われ明石春浦先生(創玄)の学生会に2年間在籍しました。
学生会の解散を期に退会しましたが(先生の本部の稽古場が遠かったのと月謝が学生の私には高かった)、タバコを燻らせながら半切の手本を活字だけを見ながら一気呵成に書いていくのは神業でした。沢山ある漢字の行草体をほとんど網羅しているだけでなく芸術作品に仕上げたのです。
この先輩には
毎日書道展(毎日新聞社主催)のアルバイトにも誘われました。
5年か6年ほどしましたが(大学は4年で卒業しているのに?)このときの見聞が結構今の自分の財産になっています。新聞社事務局の藤沢さんには大変お世話になり、とっくに定年退職されているのでしょうが懐かしい思い出がいっぱいです。
毎日書道展
毎日書道展は昭和23年(1948年)に誕生。(ちなみに書は日展にもこの年に加入(豊道春海先生が尽力された))。
私がアルバイトでお世話になった時代は、漢字・かな・近代詩文・少字数・篆刻・刻字・前衛書の7部門からなっていました。特に漢字部の青山杉雨先生がカリスマ的に束ねていたという印象でした。黒柳徹子さんは青山先生がお亡くなりになった時に追悼文をお書きになられていますが、最後のお弟子さんだったようです。その頃、先生は直弟子をおとりになっていませんでしたので起ってのお願いと言うことだったようです。私は、青山杉雨先生はあらゆる意味で当代の1番の書家であったと思っていますので、黒柳さんはさすがに見る目のある方だと思います。
私は
毎日書道展では初出品の第34回展(1982年)、第35回展(1983年)と(この時は上條信山先生門下の田中節山先生に入門していました)入選(漢字)しましたが、第35回展を最後に青山杉雨先生に導かれた諸会派は読売新聞社に一夜にして寝返るのです。私たちは何がなんだか解らないまま第1回展(1984年)の読売書法展から毎日書道展での実績を持ってのスタートとなったのです。書と言っても書壇各グループ(社中と言いますが)は、主張や目的によってそれぞれに違いがあるわけですから、毎日書道展が大きくなりすぎ、なるべくして分裂したとの見方をするのが妥当のようです。
毎日書道展と読売書法展
このような経緯で現在この2つの大きな書道展が存在します。これらに所属する書家はそれぞれが日展を目指すわけですが、近年の日展特選者は読売書法展に所属する先生がほとんどを占めています。実力の差なのか?政治力の差なのか?それとも…?ちなみに文化勲章受章者は毎日が金子鷗亭(1990年)、読売が西川寧(1985年)、青山杉雨(1992年)、村上三島(1998年)、杉岡華邨(2000年)、小林斗盦(2004年)の各先生です。
アルバイトでの最初の年は
刻字部に配属されました。ここのボス(そんな雰囲気でした)の長揚石先生はこの世界を確立された方で佐藤栄作元首相に似ていました。書いた紙を木や竹に貼り付け彫っていき金箔を貼ったり着色したりと、この世界は書道+彫刻+貼付等の技術が必要です。先生は確か以前放送のNHK大河ドラマ伊達正宗(渡辺謙さん主演)では書歴を偽った者に替わってタイトルの字を彫られたはずです。また、先生のお弟子さんで薄田東仙先生という方がいらっしゃいますが、先日家内の実家に14年ぶりに行き、何気なくその地区のタウン誌が目に入り捲って見ていたところ薄田先生の特集が掲載されていました。案外お近くにお住まいなのでビックリしました。大変お世話になった先生です。機会があればお伺いしたいと思っておりますが果たして覚えていらっしゃるかどうか?
その後は
近代詩文書部・少字数部・前衛書と毎年いずれかの部に配属されました。色々な先生と知り合いになり、書道展では当時毎日書道展傘下の創玄展・日書美展・謙慎展のアルバイトをさせていただきました。麻雀に誘われたり(金子先生)お茶に誘われたり(青木先生)お年玉を頂いたり(新川先生)と…可愛がって頂きました。
余談その1
毎日書道展でアルバイトをしていた時に彫刻家の圓鍔勝三先生(1988年文化勲章受章)宅に新聞社の藤沢さんとあともう1人(思い出せない)と私の3人で副賞の記念品を受取りにお伺いしたところ、色紙に書かれた自筆の水彩画3枚をお出しになり(趣味で書かれたとお伺いしました)、「お好きなものを差し上げますからどうぞと…」。私は立場上最後に残った色紙を頂戴しましたが、当初は飾っておいたのですが、引越しを期に永年箪笥にしまったままでいたところ、しっかりとシミが出ていました。これがその時の色紙です。機会があれば「何でも鑑定団」に?
余談その2
毎日書道展の審査会場は、当時は北の丸公園(千代田区)の中の科学技術館でした(たぶん竹橋の新聞社から近かったこともあるのでしょうが)。ある朝、入口から入ろうとしたら同じアルバイト仲間がたむろしてこちらを見ているのです。気がつけば隣に腰掛けて新聞を読んでいるジュリーこと沢田研二氏が居るではありませんか。映画の撮影の待機時間だったようです。他にも具志堅用高氏も見かけました。田舎ものなので芸能人を見るのは珍しかったのです。芸能人といえば印象深いのは今や東京ドームに替わっていますが当時の後楽園球場の前の喫茶店で、たまたま隣の席に浅野ゆう子さんが坐っていて(当時17歳ぐらいでしょうか?)、大変背が高く、すごく綺麗だったことを覚えています。今では年齢を重ねられその時以上にお綺麗ですが…。
近代詩文書部では
石飛博光先生にお世話になりました。後年に上條信山先生(文化功労者)の告別式でお見かけしましたがすっかり私のことなど忘れておられました。最近はNHK書道講座にご出演されていました。あの頃若手だった先生方は今やすっかり偉くなられました。
近代詩文書部というのは
金子鷗亭先生(創玄)が中心でしたが、近代詩文書部は読売書法展には行かなかったので、後年、読売書法展は調和体という名称で部門を創設しています。その中でも上條信山先生は早くから漢字とカタカナの組み合わせの作品を発表されていました。
近年は著作権法で作者の許可なしに書けなくなったので、この部門では題材に苦労していると聞きます。自分が作った詩なら良い訳ですがそれでも作詩するのは容易ではありません。
読売書法展に行かなかった会派
他には飯島春敬先生(日書美)で、仮名の法帖のほとんどはこの先生の書芸文化新社にあります。ご子息の太久磨先生にはサイン入りの自身の作品集をいただきました(サインは私がその時お願いしました)。太久磨先生は近代詩の作品を発表されていました。いつだったか、太久磨先生が「君に私の会社に来てもらいたいけど……無理だな(所属会派が違うので)」、冗談なのか?本気なのか?おっしゃられたことがありました。早世されましたが大変すばらしい先生でした。
日書美展ではこんな話があります
賞を決定するのにある先生のお弟子さん2名が最終まで残りました。仮にAさんとBさんとしましょう。AさんとBさんの師匠はBさんより兄弟子であるAさんに受賞させたかったのです。ところが私が見てもBさんのほうが作品の出来がいいのです。その時、「明らかにBの作品がよく出来ているではないか」と飯島春敬先生の一声。これで決まりです。「受賞作品はその年のこの会の顔だ」とも。この時代はこのように番狂わせが結構あって面白い時代でした。豪傑の先生がけっこう居られた。
青山杉雨先生
いい作品は社中に関係なく採る。まんべんなくいいものを採る。自分の社中を落としてでも採る。こんな気概の方だったようです。中途半端な作品を推すようなことがあったなら…先の飯島春敬先生のようだったと…。他の先生方は戦々恐々だったようです。作品も多種多様で今度はどんな作品を発表されるのだろうかとみんなが楽しみにした大作家でした。晩年、上條信山先生のパーティの席上で自身は癌であることを宣告されていました。師匠の西川寧先生に文化勲章をと走られたともお聞きします。自身がお取りになる前は「もうすぐすごいことが起きるよ」とおっしゃられていたそうです。上條信山先生の師匠の宮島詠士先生(中国語塾善隣書院を創設)は個展開催には否定的であったと聞きますが、青山先生も展覧会には出品されましたが自身の個展を生前中はされなかった。晩年には意でない過去の作品を全部燃やされたとも聞いています。
(2)へ続く、、、
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