万葉歌から俳句まで
「万葉集」は、現存最大の歌集で全20巻。仁徳天皇の皇后の歌といわれるものから淳仁天皇(じゅんにんてんのう)時代の歌(759)までの約350年間の長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)など約4500首を収録。大伴家持(おおとものやかもち)の手を経たものと考えられています。
天智天皇は667年、飛鳥から近江の地、大津へ遷都しました。翌年、対岸に広がる蒲生野で盛大な遊猟が催され、その宴席で額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ)が歌を詠み交わします(相聞歌)。 *近年は別説もあります
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)
「染めれば茜に匂う紫草の野をお上の御料地の野を行くあなたああ野守が見ますそんなに袖をお振りになっては」
紫草の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
(むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも)
「美しい紫草のように匂いたつあなたが憎いなら、もう人妻になのに何で私が恋をするだろうか」
*額田王はもと大海人の妃であったのですが、この頃には天智天皇の後宮に入っており、この3者には極めて複雑な事情がありました。
*この写真の碑は、近江鉄道(滋賀県)市辺駅(いちのべえき)のすぐ北方の船岡山(ふなおかやま)の頂上の自然の巨岩に貼りこんでいます。「元暦校本万葉集(げんりゃくこうほんまんようしゅう)」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板です。*頂上といっても小山ですので5分ほどで到着します。
大津京の時代は僅かに5年と短い期間でしたが、日本人の感性や美意識のよりどころとなって盛んに和歌が作られた時代だといえそうです。
当時の遊猟を偲ばせる巨大な万葉レリーフ(万葉の森船岡山)
「万葉集」に始まり、「和歌」とともに日本古典文学の双璧をなす「物語」に代表されるのは、紫式部の「源氏物語」です。この物語は石山寺(滋賀県大津市)に籠もっていたときに、仲秋の名月が瀬田の湖水に映える様を見て霊感を覚えて書き始めることが出来たと伝えられています。以来、この故事にあずかろうとこぞって文人墨客は石山寺に参詣しました。この中には芭蕉も含まれます。
「連歌(れんが) 」は和歌から俳諧へ移る過渡期に生まれた文学で、二人以上の人が一つの歌を作ることを連歌(連句)といいます。室町時代に盛んとなり、巨匠としては飯尾宗祇(滋賀県東近江市出身説)が代表ですが、江戸時代に入ると、さびれてしまいました。
*ブログ内、連歌師・飯尾宗祇をご覧ください。
「俳諧」を連歌から独立させたといわれる山崎宗鑑(やまざき そうかん)は、滋賀県草津市出身。俳諧を大成し、芭蕉の師でもあった北村季吟(きたむら きぎん)は滋賀県野洲市出身。芭蕉の功績は言うまでもありませんが、芭蕉の死後、彼の唱える蕉風は、俳人は下より学者や庶民にいたるまで全国に浸透していきました。
明治になり、正岡子規(まさおか しき)の提唱により俳諧から「俳句」へと独立した、この最短詩「五七五」は和歌の持つ季題(きだい)をも中核に継承し、現代に至っています。
こうして時代を眺めてみると、近江の地には、風雅を醸しだす何かしらの魅力が多分に潜んでいるといえそうです・・・
今の季節、桜はもうすぐ満開になろうかと…鶯の鳴き声が蒲生野に響き渡っていました…
*八日市市は現在の滋賀県東近江市です。
追記
その後、4月20日(月)の読売新聞の朝刊の地方版に関連記事が掲載されましたので以下の写真を添付いたします。
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