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日本はイギリスの“手駒”に仕立てられた?

8/23()12:24配信 Wedge

 

高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治51872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。

 

日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。

 

かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。

 

歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。

 

※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。

 

インテリジェンス工作のため清国へ

 元米沢藩士の曾根俊虎(弘化41847年〜明治431910年)は福島外務卿の随員として清国に向った。奉職した帝国海軍では主に清国に対するインテリジェンス工作に当たったようだ。前後6回(明治679121317年)に及んだ清国旅行の一部を記録した『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)に基づいて、彼の清国体験を追ってみたい。

 

 ここで、『北支那紀行』から浮かび上がってくる曾根の活動を理解する前提として、清国をめぐる当時の内外情況を以下に簡単に振り返っておく。

 

 1863年、アメリカが上海に租界を設定し、イギリス租界と合わせ共同租界とする。翌64年ころからロシアが清国への食指を動かし始める。外債第一号としてイギリスより借款を受ける(65年)。イタリアとの通商条約締結(66年)。ロシアとの新疆境界を設定。アメリカとの天津追加条約を締結(共に68年)。オーストラリアとの通商航海条約を締結(69年)。フランス人虐殺に関し謝罪使を派遣(70年)。ロシア、イリ地方に侵攻。日清通商天津条約を締結(共に71年)。日本、台湾に派兵(74年)。イギリスと芝罘(烟台)条約を締結(76年)。

 

 清国国内では太平天国の制圧の後、結果的には大失敗に終わりはしたが、アメリカに第一次留学生派遣(72年)、イギリスとフランスに留学生派遣し(76年)、近代的軍需工場建設、殖産興業の奨励など、近代化=富国強兵に向け必死の取り組みが続いた。

 

 一方の日本では征韓論が起った2年後の明治8(=1875年)にはロシアとの間で千島・樺太交換条約が結ばれるなど、いよいよ外に目を向け始める。

 

 以上の内外情勢を考えれば、曾根の旅行が単なる物見遊山ではなく、兵要地誌作りが目的であったと考えざるを得ない。日本もまた否応なく、清国を舞台に展開される列強による国際的大競争という時代の大海原に船出することになる。時代の激浪を、なんとしてでも乗り切らねばならなかった。

 

アヘンや人身売買がはびこる「孔孟の国」の現実

 旅の出発点である天津で、曾根は書物からは学び得なかったリアルな「中華」に足を踏み入れた。

 

 人々は「廉恥殆んど地を拂」う状態にあり、「人情極めて狡猾にして義理の何物たるを知しら」ない。それというのも第2次アヘン戦争(別名「アロー戦争」)で英仏連合軍に1860年に敗れたことで経済状態はどん底となったことから、誰もが「自己を利するの短策」に奔るようになったからだ。

 

 そんな社会であってもアヘンは止められないらしい。「盛んなること上海より甚だし」。アヘンの次は嫖(買う)となる。娼妓には、広東からやって来て外国人居住区で「外國人の睡に伴」う者と、天津の北郊に住んで「春を賣」る者がいる。「此地男色を鬻く十一二歳より十六七歳に至る是れ最も好看にして其美姿〔中略〕娼妓の上に出る者有り故に官員の男色を弄する者最も多し」。その官員、今風にいうなら幹部だが、今も昔も権勢を恣(ほしいまま)に弄んでいる。

 

 人身売買は日常化しているようだ。「其歳の多少と容姿の好惡に由て等差有れども概畧十兩を投ずれは五六歳以下の子を買ふ可し亦六百金より三百五十金餘を投せば」、何やら最上級の「美娘を買ふに足る」のであった。

 

 1872(明治5)年のイギリス人調査で40万人の人口を擁するとされる天津は、「路上に臨めは臭惡の氣俄然として鼻を穿ち汚穢の堆き葷然として眼を病む」というのだから、穏やかではない。道路は狭くデコボコの悪路のうえに車にはスプリングがついていないから、車に乗るのも命懸けだったようだ。さらに「病犬曜豚は行人に混して徘徊し一犬偶々西裝の者を見て吠るときは萬犬●々たるを致す」。「病犬」に纏わりつかれ「●々(キャンキャン、ワンワン)」と吠えられたら堪ったものではないが、そのうえに「拾糞人は汚身に弊衣を着ケけ(竹籠を背負って)爭て路上或は橋邊に出て右顧左眄頭を垂れ糞を尋ぬ糞山溺海は北京の大さに讓れども城の内外各處に糞場有り行人の脱糞を要する者は該處に至り烟を吹き談話を悠然として脱了す」。凄まじい限りの汚さだ。垂・吸・話の動作を一度に済ますとは、妙技としかいいようはない。(●=けものへんに「言」)

 

 かてて加えて乞食には「裸体なる有り單衣なる有り滿身の汚垢墨の如く橋頭或は廣路に横臥し徃來の客に注目し有錢客と認むるときは衆乞群蜂の如く尾し來り老爺と叫ひ錢を乞ひ之を得て始て止む」。この凄まじさには、曾根も面食らったことだろう。

 

 天津は1860年の第2次アヘン戦争敗北を機に結ばれた天津条約によって開放され、「英、佛、米、魯、普等の領事館」が設けられている。北方では逸早く西欧諸国に向って開かれ近代化が進んでいるはずの天津の街は荒み切っていた。これが“孔孟の国”の現実だった。

 

 英仏両国は戦勝に乗じて一等地を広く押さえ、米露両国などは「不便の地僅々を有する」のみ。南側の適地は外国人に押さえられ、残された北側の「路上狹小にして汚穢甚だし」い北側に「廣東人と土人と雜居」している。「土人」というのは土着の天津人という意味だろう。それにしても、なぜ北方の天津に南方の広東人が住んでいるのか。おそらく英国人などが取引を円滑に進めるために、香港周辺から広東人を雇って連れてきたのだろう。かくて南北に遠く離れた香港と天津とが海上航路で結ばれ、カネはモノを呼び、モノはカネを招き、カネの匂いに誘われてヒトが集まることになる。

 

 天津市街の観察を終え、郊外の堡塁、砲台、軍営、軍船碇泊地などの軍事施設、製鉄所を観察した後、いよいよ「北支那」に向って歩きだす。道路事情、沿道の集落から集落までの距離、目に入る周辺の自然環境など事細かに記している。

 

 宿舎は例外なく「陋亦甚だし」く、時に「水を要して其盛り來るを見れは色青黄(=正しくは旧字体)にして臭氣あり飯を炊くも亦此水を以てするや飯亦青黄色を帶ひて臭氣鼻を穿ち一箸も下すに堪へず」といった有様だ。水も青黄色く、飯も青黄色。そのうえ臭くて堪らない。こんなものを日頃から口にしている清国人に同情すべきか。それとも、こんなものを口にしても何ともない清国人の内臓に驚嘆すべきか

 

漢族の「不法侵入」を止められなかった満洲

 曾根は、やがて万里の長城の東端の関門であり、「天下第一関」で知られる山海関に到着する。山海関の城門の上に立って周囲を眺め、山また山を越えてうねうねと続く長城の雄大な景観に見入る。山海関の手前が漢族の住む関内。山海関の東だから関東で、その先には肥沃な満洲の大平野が広がる。曾根は万里の長城を背に東に向って歩き出した。

 

 当時、主に山東省や河南省に住む漢族の多くは貧しさとひもじさから抜け出すべく、新天地を求めて山海関を越え、雪崩を打って関東に向かった。「闖関東」と形容される漢族の満洲への大移動が続き、やがて満洲族の故地は漢族に埋め尽くされてしまう。

 

 清朝は17世紀半ばに北京に都を定めた直後、荒地開墾を希望する漢族の山海関からの満州入りを許可した。すると満洲に新天地を求めた漢族が、農業植民を目的に続々と満洲入りする。ここで注目しておきたいのが満洲に隣接する内モンゴル東部でも牧野の農地化、つまり農業が遊牧を侵し始めたこと。すでにこの時期、漢族による遊牧文化侵食、いいかえるならモンゴル遊牧民の悲劇が始まっていたのである。

 

 漢族は主に同郷者が集団で満洲に向かった。彼らは窩棚と呼ばれる掘っ立て小屋を建て定住に向け土地の開墾に着手する。コウリャン、アワ、ソバなどが栽培されるようになると、やがて故郷を同じくする同姓者を呼び寄せて集団居住する村落が生まれる。海外の華僑・華人社会がそうであるように、満洲でも生き抜くための拠り所は同郷・同姓の縁だった。ここで注目すべきは満洲入りした漢族は農民だけではなかった、つまり中国社会の仕組みそのものを満洲に持ち込んだことだ。農業移民の成功に誘われ手工業やら商業機関が持ち込まれ、都市生活も始まる。満洲の漢化、ということは漢族社会のネットワークが知らず覚らずのうちに満洲にまで広がっていたわけだ。

 

 1740年代になると、清朝は封禁政策に着手し、山海関での漢族移民の出入りを取り締まることになる。だが、これが徹底されない。一度手に入れた土地(=財産)をおいそれと手放すわけがない。だから入植した漢族は満洲を動かない。加えて豊かに暮らせることを知ったことで、不法侵入は常態化する。凶作時の超法規的処置として一時移住・滞在が許可されるや、居座ったうえに家族・親族・友人までも呼び寄せる。こういった現象は1978年末に開放政策に踏み切って以降の中国人の海外移住と同じと見るべきだろう。漢族は中国本土以外に飛び出せる機会があるなら、違法・合法の別はない。いつだって飛び出す。やがて異邦に家族・親族・友人までも招き寄せ、周囲の迷惑を顧みず自分たちの生活方式・習慣を貫こうとする。摩擦が起きても平気の平左。郷に入っても郷に従わないことを、現在も墨守する。

 

城門に曝し首、ハエたかる街の惨状

 軍人である曾根の目的は兵要地誌作成、あるいは清国抗戦力調査と思われるだけあって、地形、自然環境、集落と集落の間の距離、道路や河川、天気などを冷静に観察し、各地に点在する兵営の内実を兵士の数や武器の種類などで類推しながら、じつに要領よく記録している。いつの日か清国との戦争を想定しての作業だったろうが、その一方で草深い田舎やら山村での日常生活の一端をも書き留めることを忘れてはいない。

 

 たとえば辺鄙な田舎のみすぼらしい旅館に泊まったところ、「不幸にして支那人と同室なりしが鴉煙の毒氣に壓せられ終宵睫を交ゆること能はず」と。曾根の旅行はアヘン戦争敗北から30数年後である。にもかかわらず(いや、だからこそかも知れないが)、辺鄙な田舎の旅館でもアヘンの吸引が行なわれている。この現実を見せつけられれば、全土が「鴉煙の毒氣」に「壓」されていると類推したとしても、強ち間違いとはいえないだろう。

 

 さらに歩を北に進め遼東地方に至ると悪路の連続となる。雨が降れば馬は胴体を没してしまうほどのドロンコ道となる。馬賊の襲撃に備え長距離旅行者は「常に短鎗を持」たなければならない。そのうえ軍規は乱れ治安維持は覚束ないというのだから、旅行はおろか日常生活すら不安だらけだったはずだ。

 

 やがて、当時の満洲最大の港湾施設を擁した営口に到着する。

 

 街に入ると先ず目に飛び込んできたのは城門の上に曝された首級だった。「門上首級を梟したる者あり血未だ乾かず然れども刑名札を建てざるは支那の風習なれば何等の罪状なりや知り難し」と。おそらく馬賊の首級だろう。

 

 営口の衙門(やくしょ)に出向いて、これから先の旅行に必要な通行許可証である「路票」の交付を受けた後に旅館に。旅館の惨状を次のように記した。

 

――悪臭紛々でハエは例えようもなく多い。狭くて汚くて風通しは劣悪の部屋で、備品の色が判らないほどにハエがびっしりとたかっている。夜は体に纏わりついて寝ることもできない。食事の際に注意しないと、間違えてハエを噛んでしまうほどだ。食べ物は脂っこ過ぎで食べられないし、水は悪く不健康の極みだ――

 

日本はイギリスの“手駒”に仕立てられた?

 環境劣悪な旅館を後に、営口の英領事の紹介で「英商『クライアト』氏の宅に転居」する。この人物は、「此地に在ること前後十二年にして支那に知己多く説話亦支那人と一般なり此邊地方の地理、人情、物産等の物を問ふに甚だ悉せり」。英商を訪ねてやってきたプロシャ人は「前月より北地に遊ひ吉林地方より魯國の界境に到り亦馬賊の情勢を探偵し四五日前に茲に來着したる者」だった。また曾根は「佛國教師『ボヲィァ』氏」(※「教」は正しくは旧字体)から目的地の1つである奉天の事情を聴き取ると同時に、奉天で教師をしている友人を紹介されたというのだ。

 

 曾根が対した3人の西洋人の振る舞いから判断して、イギリスとプロシャとフランスの3国から送り込まれたに違いないだろう。彼らは腰を落ち着け現地社会に溶け込み、長い時間をかけて満洲からロシア国境にかけての広大な地域を探査していたはずだ。もちろん目的は、当時の列強間で行われた熾烈な植民地争奪ゲームに勝利するため。つまり曾根が出会った「英商『クライアト』氏」、プロシャ人、そして「佛國教師『ボヲィァ』氏」(おそらく奉天在住の友人教師も)は満洲を求める列強諸国の先兵たるインテリジェンス要員だったはずだ。こうみてくると、満洲に関する限り、やはり日本は“後発国”だったことを認めざるをえない。これが帝国主義の時代が持つ冷厳なる真実だろう。

 

 やがて奉天へ。ここでは「佛國教師『ボヲィァ』氏」の紹介してくれた友人の「神父に面會し地理産物兵備壯觀等の有無を問」うた。その後、数日を掛けて奉天市街、郊外を時に馬に跨り徹底踏査している。かくて曾根は「支那陸行の難きこと」を総括して、

 

――ともかくも内陸旅行は物騒で、危険だ。ロクな食べ物はなく、部屋のオンドルは熱すぎて安眠できず、部屋は汚く不健康。車夫も旅館店主も狡猾で安心できない。ホッと心伸びやかに和ませてくれるような自然など見当たらない。胸襟を開いて語り合える好人物には出会えないから、ともかくも現地人と話をするのが億劫だ。だが、困難に耐え清国の死命を制するような状況を探り清朝帝室の内情を見極めることが自分の使命であればこそ、前途に何が待ち構えていようとも前進するだけだ――

 

 奉天から営口に戻った曾根は、朝鮮国境に近く馬賊が出没を繰り返す大孤山一帯への踏査の旅を英国領事に、次いで「佛教師」に相談した。すると「佛教師」が大孤山を越えた朝鮮に近いところに住むという知り合いの「同國の教師」を紹介してくれる。「同國の教師」というからには同じくフランス人だろうが、その人物は「北支那に在ること二十年各地に遊ばざる處無く語音に通じ地理に明かに今年六十二歳」とのこと。現在ならいざ知らず、当時の「六十二歳」といえば相当に高齢だったはずだから、単なる物好きで辺境の地に20年も住んでいたとも思えない。「遊ばざる處無く語音に通じ地理に明か」というからには、やはり常識的には情報関係の任務を帯びていたと考えるべきだろう。

 

 曾根の出発を聞きつけて、今度は英国領事の友人らしい「『スウエッテ』の人『ショールンド』と云ふ者」が同行を願ってきた。「スウエッテ」とはスウエーデンを指すのか。それにしても、曾根の行く先行く先には必ずといっていいほどに一癖も二癖もありそうな西欧人が待ち構えているが、それは偶然ではなく、植民地争奪の大競争という時代の最前線で起こるべくして起こる虚々実々の駆け引きの一端だったと見るべきだ。

 

 曾根は営口の衙門(やくしょ)に奉天往復旅行の「路票」を返却し、新たに大孤山一帯行きの「護照(パスポート)」の交付を要求する。だが、役人は危険極まりないことを理由に「護照」の給付を断固として拒否する。度重なる説得も、結局はムダだった。かくて「『スウエッテ』の人『ショールンド』と云ふ者」と共に、「大に失望したり」。

 

 大孤山一帯の探索が不可能であることを知った曾根は英領事、「佛教師」や清国人に別れを告げる。その際、「主人」から、7年前の1868年に米仏両国が朝鮮を攻撃した際、清国は奉天から15千人ほどの援軍を送ったが、北京駐在の米仏両国公使は極めて緊密に連携し、これを察知した。朝鮮有事の際、日本が兵を動かすようなことがあったなら「清朝亦舊轍を踏み必らず」や援軍を派遣するだろう。その場合は奉天近辺からの派遣が予想される。その際は「上海貴國の領事迄報告すべし」――と告げられたと記している。前後の文脈から「主人」は英国領事と思われるが、なぜ、これほどまでに日本に好意を示すのか。

 

 日清戦争の戦端が開かれたのは、「主人」が曾根に「上海貴國の領事迄報告すべし」と語りかけたから20年ほどが過ぎた1894年のこと。またロシアの満洲・朝鮮への進出を防止しようとする日本とロシアの南下を警戒する英国との間で日英同盟(第一次)が結ばれたのは、曾根の旅行に遅れること四半世紀程が過ぎた1902年だった。

 

 常識的に考えるなら英国領事であろう「主人」が示した好意は曾根に対しての個人的なそれではなく、やはり英国外交当局(英国政府)の日本に対するそれと見做すべきだろう。ならば英国は比較的早い段階から日本を、自らのアジア外交における“手駒”に仕立てようと目論んでいたようにも思えてくる。

 

 やや強引な考えだとは思うが、当時、すでに「主人」(英国政府)は、遠からぬ将来に日清両国の間で朝鮮半島をめぐって武力衝突が起こると予想していただけでなく、その場合は日本側に立とうと目論んでいた。だとするならば、日本は自らの意向に拘わらずに、東アジアをめぐる欧米列強の国際ゲームに参入せざるをえない状況に立ち至っていたことになろうか。

 

 曾根は、「米國輪船」に乗りこみ、山東半島の東北部に位置し、対岸の大連と並んで渤海湾を扼する位置に在る煙台に向かう。第2次アヘン戦争での敗戦から清朝は李鴻章に命じて煙台の防備を固めた。それゆえ、当然のように曾根の「探視」は詳細を極めるが、再び天津に戻り、「英領事」に大孤山一帯への踏査が叶わなかった事情を報告した。

 

 地方踏査のある夜、曾根は顔かたちも服装も中国人と同じであり、中国語も少し判るわけだから、日本人と疑われることはないだろうと考え、翌朝は清国人の案内を断って独行する。だが、ある軍営の前に差し掛かると、警護の兵士に「何くより來り何を業とするや」と誰何された。そこで天津の西洋商社からやって来た者だと応じた。ならば天津人かと問われたので、広東の生まれです、と。こう答えておけば、怪しい中国語も、広東語訛りだと誤魔化せると考えたのだろう。すると今度は、近寄ってきて曾根の被っていた「假豚尾(ニセ弁髪)」を引っ張りながら、なぜ髪を剃って弁髪にしていないのだと詰問する。そこで曾根は自分から假豚尾を取って見せて、じつは外国には「我國の剃頭師無」く、「我れ大英國に在ること七年にして今春國に歸り髪未だ長ぜ」ず。だから頭に假豚尾を戴いていますと、その場を逃れている。

 

 時に「滿洲騎兵」に出会うが、「本朝の騎兵に較すれは壯虎と衰牛の如し」。もちろん「壯虎」は「本朝の騎兵」であり、「滿洲騎兵」が「衰牛」ということだ。

 

「日中の協力」こそ急務と説く

 曾根は悪戦苦闘の大旅行を、次のように“総括”している。

 

1)「皆廉耻已に絶え民心殆んと離れ、土人黠詐を尚ひ唯自己の利を計るに汲々たるのみ、嗚呼宜へなる哉滿清の振はさるや、思ふに是れ變換の勢ひ來る遠に非るの由縁なるか」

 

――すでに廉耻の心など誰も持っていない。民心は清朝から離れ、清国人はウソ・デタラメばかり。頭の中にあるのは自分の利益だけだ。こんなことだから清朝の弱体化は当然であり、そう遠くない将来、必ずや世の中はデングリ返ることになる――

 

2)「(山東省は)政体稍存し風尚樸素にして兵備仍ほ張る(中略)と雖も大廈の覆る一木の能く支る所に非す、嗚呼區々たる一省の山東豈能く四百余州の衰運を挽回するを得んや、東洋慷慨有志の徒早く茲に注目し碧眼の猾賊をして變に乘し毒鋒を亞洲に逞うせしむること勿レ若し治に歸せは則ち合心合力東洲を振はし西洲を壓するの急務を策すへし」

 

――ややマトモとはいえ山東省だけでは衰退する中国を救うことはできないことに、「東洋(にほん)」の「慷慨有志」の士は、深く思いを致すべきだ。狡猾な西欧の賊徒による清朝の変事に乗じてのアジア侵略の野望を挫くべし。中国が安定した暁には日中双方が「合心合力」して早急にアジアの振興を図り、ヨーロッパを圧する策を講ずべきだ――

 

 曾根は「東洲を振はし西洲を壓する」ために日中双方による「合心合力」が急務だと語る。後のアジア主義の萌芽というべきか。

 

 最後に、その後の曾根の人生に触れておきたい。

 

 中国語教育にも努め、大尉昇進の翌年(明治131880年)に日本で最初のアジア主義団体といわれる興亜社を結成。中国では孫文や陳少白の革命派、日本では宮崎滔天、さらには『大東合邦論』の著者である樽井藤吉と親交を持った。

 

 清仏戦争(1884年〜85年)を機に『法越交兵記』を著し、アジアに対する政府の関心の低さを指弾。これがきっかけとなり伊藤博文の逆鱗に触れ、明治211888)年に筆禍事件容疑で免官となり拘禁されるが、後に無罪。海軍を退役した後、西郷従道らの援助を受け清国に渡り、景勝地の蘇州に居を構え清国政府重鎮の張之洞や李鴻章の厚遇を得た。「大陸浪人」の先駆けともいえそうだ。号は暗雲。中国では曾嘯雲と名乗っていたとか。晩年を不遇のうちに終わっている。

 

樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)

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