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【新府城】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
天正十年三月三日の辰(たつ)の刻(午前八時)頃であった。七里ケ岩の屋上から煙が立つのが見えた。不思議に思ってそれをよく見ていると、朝霧に覆われていてさだかではないが、昨年の暮にできたばかりの新府城の東曲輪あたりが燃えているようにも見える。まさか、と思いながら感じたことは、昨年の今頃は穀物の種を蒔くため焼畑をしてそのため丘や山の傾斜を火事と間違えるくらいに焼いたし、今年も七里ケ岩以外のところでは毎日のように枯野を焼く煙が1っている。けれども七里ケ岩の上は昨年の春から、築城のため焼畑をすることを禁じられたばかりでなく、新しくできた新府城には、故のない者は絶対に近寄ることさえ禁じられている。それに特に最近は取り締りが厳しいので、城内が燃えるなどとはどうしても思えなかった。
この新府城は昨年の七月、天から降ってわいたように「七里ケ岩の上に築城する」という布令が出されたので、しばらくは真疑のほどがつかめなかったが、そのうちに十軒のうちから一軒は築城の労役に出役するように達しがあり、出役する者の留守家族の生活は、残っている九軒が負担することに決められたので、村の人たちにはようやく築城の事実がわかった。築城のため集まった者は、織田・徳川の連合軍との戦局がいよいよ迫ってくる噂(うわさ)を耳にして、甲斐の国はこの城に拠って守り、自分たちの生命と財産がこの城によって守られるのだと切々とした願を込めて、日に夜を継いでの血の惨むような労役に服した。そしてわずか六カ月の短い間に、麓から二五〇段の石段を造って山頂に達し、老松が茂るその山頂を削って南北六百㍍、東西五百五十㍍の平地を造り、その中へ中央に本丸、西側に二の丸などを配し、北から東にかけては天然の池を利用して濠を造り、長
い腰曲輪を巻いたりして、本丸の南には望楼付きの東丸と西丸の曲輪が造られ、この下に三日月城の天然の池を内堀として、天険を巧みに利用した宏大な城を造り上げた。年の暮近くなっても壁は濡れていてまだ乾かないし、板敷も荒削りの部分が多く、手を入れる個所がたくさんあったけれども、敵襲があるという噂が日ごとに高まってきたので、武田家一族は十二月二十四日に信虎・信玄・勝頼と三代にわたって住み馴れたつつじが崎の館を引き払って急いでこの城に移って来たのである。
毎日一万人が労役に服して造ったと言われる新府城であるから、戦局にどのような変化があろうとも木の香も芳ばしいこの城が、まさか六十余日の薄命で終わるとは誰も夢にも思ってみなかったのであるが、事実年が明けて急に戦局が変わると勝頼は自らの手で城に火をかけて新府を落ちていった。不安な気持ちで火の手を見ている附近の人々の耳には次々と疾風のように城の中の模様が伝えられてきた。
城の中の火は人質が押し込められている東曲輪から上ったという、その東曲輪に火が放たれる前に、中に押し込められていた千人余りの人質は、調べ分けられて、人質のうち武田家に忠誠を誓う証として預けられていた約百人の者は、曲輪の外に出された。かって、武田家に叛く行動をとったため人質になっていた九百人余は、曲輪の中に押し込めたまま火をつけられたので、曲輪の中はたちまち炎に包まれて、泣き喚(わめ)く悲鳴はさながら地獄絵図の様相を呈しながらことごとく焼き尽くされてしまった。猛火は見る見るうちに全山に燃え広がっていったのである。
私は、この物語りを思いながら、城内に寵っていた武田家一族や、家来たちはどうなったことだろうと、気懸りになったが、それよりも先に、なぜ新装してまだ日の浅いこの城に自ら火をつけて燃やさなければならなかったか、という事情を不安のうちにも追い求めていったのである。
【木曾義昌の謀反】史跡を尋ねて『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
武田家一族が、新府城に移ってきてまだ日の浅い天正十年正月六日のことであった。城内では正月行事の余韻が醒めぬ巳(み)の刻(午前十時)ごろ、信州往還を駆け抜けてきた早馬一騎が城に到着した。
馬から降りた使者が差し出した書状には、勝頼公側近の武将である阿部加賀守の宛名が書いてあった。差し出し人は木曽義昌のところに出向していた武田の武将茅村備前守と、山村新五左衛門の連名になっていた。 加賀守は戦局の要(かなめ)としてその健在を願っている木曽義昌の元からの書状なので、その書状をひったくるようにして受け取り、息をもつがず一気に読み終えた。そしてひとこと
「木曽殿が謀反(むはん)」
と、言ったきり、顔面蒼(そう)白となり頭を高く上げてしばらく無言のまま虚空を睨(にら)んでいた。木曽義昌の妻は勝頼公の妹君である。父信玄公の第三女でもある。だから義昌は勝頼公の義弟なのだ。そればかりではない。義昌の母(七十歳)とその妹(十七歳)それに嫡子、千太郎(十三歳)が今新府の城の中に人質となって囲われている。いくら戦国の世の中とは言いながら、このように深い鮮(きずな)で結ばれている義昌が謀反を起こすとは、どうしても考えられなかった。
しばらくして加賀守はこのことが城内に知れることを恐れたので、そっと勝頼公に告げた。これを聞いた勝頼公も信じなかった。後刻このことを武田信豊や、跡部大炊、長坂長閑などの腹心の武将たちには知らせたが誰も信じようとはしなかった。それどころか勝頼公や側近の武将たちは
「どう考えてみても、木曽殿が謀反を起こすとは思えない。それよりも書状の差し出し人である茅村と山村が、何かのたくらみをして早馬を立てたものに相違ない。いずれ真相がわかるだろう」
と、言って、少しも信ずる気配はなく、飛脚はそのまま城内に囲ってしまい、差し出し人に返答する気さえなかった。
城内は住居を直したり、正月行事などがあったので、一月の月はたちまち過ぎていった。やがて正月も終わろうとするころになって、やっと正月早々使者が早馬で届けてくれた義昌の謀反が事実であることを知った。木曽義昌は妻を裏切り人質になっている母や妹や自分の子を失っても、生き抜く道は武田へ背を向けること以外にないと考えるようになっていたのである。
なぜなら、木曽の国は、甲斐の地からは遠いところにあり、反対に織田信長のいる尾張(愛知)や美濃(岐阜)とは隣接している。織田軍は今甲斐の武田を討伐するため大がかりの準備を進めているから、進撃を開始すれば木曽城は一番早く攻め込まれる場所にある。この時になって勝煩公に援軍を頼んでも距離的にも無理であるし、甲斐への進攻は間近に迫っていると言われているので、この際総てのものを犠牲にしても生き抜かなければならないと決意したのである。
この時勝頼公は武田信豊を呼んで、旗本衆の神保治部が付き添っている精鉄部隊を率いて木曽義昌を討伐することを命じた。命を受けた信豊は直ちに所定の準備を急ぎ木曽に向かって軍を進めて行ったが、途中鳥居峠で木曽軍と会い幾度か激戦を繰り返したけれども勝機がなく、ついに全滅の危機に瀕(ひん)してしまった。
このころ勝頼公も二万の軍を率いて信濃の諏訪へ出陣していたが、刻々と伝えてくる戦況はわが方に不利のことばかりで、焦燥の毎日を過ごしていた。
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