山梨県 武田勝頼公資料室

武田勝頼公は悲惨な最期を遂げた 武田滅亡の軌跡

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『武田勝頼公は生きている』【躑躅が崎―甲府善光寺】運命の迷路 新府城退去 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
看回塚を発った一行は、駒沢の坂を下り宇津谷を通り、千塚・塩部を経て、つつじが崎の古府館に着いた。しかしつい先ごろまで武田が三代も栄えていたときの居館も、すでに荒れ果ててしまい一行の憩う場所さえない有様になっていたので、止むを得ず信玄公の弟である一条右衛門大夫信竜の屋敷を尋ねたが、ここもすでに人影がなく喉を潤す一服の手立てもないので、仕方なく、衣服や草鞋(わらじ)を直すのもそこそこに、東へ向けて出発した。
【善光寺】
お供の衆は、老若男女合わせて六、七百人がほどであったが、板垣の善光寺の前を通るときは、皆足を止めて合掌し、心の中では「南無阿弥陀如来、もほやこの身は長生きして身の安楽を乞わないが、せめて十万億土の極楽浄土へ心安く迎えとらせ給え」と一心に念じた。
 この寺は永禄元年(一五五八)に父信玄が信濃(長野)の善光寺を模して造ったもので、多彩な大伽藍は武田家の未来を象徴するかのように、四隣に映えていたが、今は極楽往生の祈りを捧げる境遇となり、有為転変の世の無情をかこつだけである。
 侍女たちは馴れぬ足どりのまま、無我夢中で歩き続けてきたが、さすがに疲労の色が濃く、足の爪は剥げ、足豆はつぶれて鮮血が惨み出しているのを見て、かつての日、勝頼公夫人に供してこの地で楽しい花見の宴を催したときのことを思い出して、また鳴咽して目頭を腫らしながら少し歩いては路傍の枯草の上に倒れ伏したまま立とうともしない者が多くなった。家来たちはこの者たちを宥(なだ)め促して、再び隊列に戻そうと苦心を重ねていた。
【小幡豊後守】
そのころ武田の家臣である小幡豊後守は、病気のため城を離れていたが、お家の危急を聞いて一行の後を追って善光寺前でやっと追い付くことができたので、いち早く勝頼公に拝面した。
「病気のため、残念ながら最後までお供ができないのをお許しください。これからしばらくの間道案内をさせていただきますが、私はこの界隈の地理と人心の動きを承知しております。この辺は浪人の逆心があるかも知れないので気懸りです。足の弱い女・子どもは早々に暇を出されて、今夜は勝沼の柏尾まで行かれるのが安全かと存じます」
と、進言した。
【万福寺】
 一行は薄氷を踏む思いで一歩一歩進み、石和の川中島を経て陽が西山に傾くころやっと等々力村の万福寺にたどり着いた。
  勝頼公は豊後守の進言もあったので、足弱い女、子どもを呼び、きょうまで仕えてくれたことをねぎらい、体を大事にしてりっぱに成長するよう諭した後一行から別れさせた。万福寺から柏尾までは短かい距離であるが、一行の中に残った婦女子は、杖にすがり、足を引きずって歩き、夕闇迫るころやっとの思いで大善寺にたどり着くことができた。
【大善寺】
この寺は、養老二年(七一八)僧の行基が薬師如来像を彫刻してこれを奉祀し開則したものと伝えられ、聖武天皇から「柏尾山鎮護国家大書」の寺号と、勅額を賜って以来、歴代朝廷の祈願所となり、北条貞時が弘安九年(三八六)後宇多天皇の勅を奉じて寺院の造営にかかり、八年の歳月をかけて薬師堂を完成した由緒深い甲斐国第一の古刹(こさつ)である。
 この寺には勝頼公の祖父に当たる武田信虎の弟、勝沼五郎信友の娘がいる。かって、父信友が不遇の死をとげた折、この寺に入り、剃髪(ていはつ)して、桂樹庵理慶尼と称し、護摩堂の阿閣梨慶紹を師として、仏道に精進しているのであるが、喘(あえ)ぎながらたどり着いた勝頼公一族を快よく招じ入れて厚くもてなしてくれた。やがて、夜に入ると、勝頼公夫人の願いにより、理慶尼は本尊の薬師如来の御前で経文を唱え、勝頼公一族の武運を祈ってくれた。けれども夜がふけたころになるとあちこちの家に放火する者があって、勝頼公のお心をしきりに掻き乱す仕業があったので、召し連れていた人々も、その火の光に家に残した妻子のことなどを思い、この先が案じられてきたのか忍び忍びに逃げて行く気配がした。
 勝頼公はその折「誰かおらぬか」と呼んだが、すぐにこたえお傍に出る者もなく、重ねて「誰かおらぬか」といえば重臣の土星惣蔵が進み出て「ご用を何ぞ承ります」とひざまづいた。勝頼公は「先刻から閻に乗じて姿を消す者がいる。だれや彼を呼んでも返事がない」と申されて、家来の去就に絶望的な表情を隠せずガックリ肩を落とされた様子であった。
夫人は、この様子を見ながら
   西を出で東に行きて後の世の宿かしはをとたのむみ仏
と、詠まれて、終夜薬師如来に祈りを捧げて夜明けの訪れにも気付かなかった。国中の東端にある柏尾の大善寺の朝の空気は冷えびえしていたが、桜の花は一行を慰めるかのように咲き乱れ、時折吹き渡る朝風に誘われて、一片、二片と散り初めていた。
 この朝、岩殿城主小山田兵衛尉信茂の一族は、勝頼公に向かって
「一足先に居城岩殿に参り、城の内外を整えた上、お迎えに参りますゆえ、この先の笹子峠の麓までお越しなされてしばらくお待ちください。物情騒然としている折ですから、私に二心のないことの証として、母を預けて行きますのでお世話をお願いします」
と、言って大善寺を出た。勝頼公は、小山田の言うことに一陣の不安を感じたが、その意を容れて先立たせた。

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