山梨県 武田勝頼公資料室

武田勝頼公は悲惨な最期を遂げた 武田滅亡の軌跡

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【勝頼夫人の願文 穴山の裏切り】史跡を尋ねて『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 天正十一年二月三日には織田・徳川の両軍は、北条軍まで含めた二十五万の連合軍をつくり、甲斐の国を攻略する行動を開始したという情報が流れてきた。
 新府城で戦況を案じながら毎日を過ごしていた勝頼公の夫人は、実の兄である北条氏政までが敵の連合軍に加わり、上州(群馬)口から進撃していることを聞いて沈痛の気持ちを押えようもなく、何かに頼らなければ一時も過ごせない気持ちで一ぱいであった。
そこで二月十九日の辰(たつ)の刻(午前八時)ころ、勝頼夫人は、武田家に輿入れするとき相模の小田原城から付け人として付き添ってきた、剣持但馬守を呼んで、「但馬、城内からも遥かに見える武田家の守護神、武田八幡宮へ祈願に行くから、供をするように」と命じた。これを聞いた但馬守は、「戦況不利が伝えられている折に夫人が城外に出られることは御身の上を案じられます。が、しかしこれによって武田の武運が開けるのならぜひないことと存じます」と言って直ちに祈願の準備にかかった。
 夫人は人目に付かぬようにお忍びで城を出た。但馬守たちは夫人が乗っている輿の周りを厳重に警戒しながらお供をして行った。武田八幡宮は、武田武大神(武田王)を祀る武田家始祖以来の産土神で、新府城からおよそ二キロのところにある。
 この宮は、平安時代に宇佐八幡宮をここに移したもので、新羅三郎義光の孫黒源太清光の嫡男の源信義がこれを祀り、武田家累代の守護神と定めた。したがって信玄は天文十年(一五四一)に本殿を再建して神域を整え、ますます信仰を深めていた。夫人は数多い種類の常緑木で覆われている社前に輿を下ろして神域に入った。
 独りで鳥居をくぐり、神楽殿・拝殿・本殿まで続く一五五段もある急傾斜で長い石段を誰の手も借りることなく一気に登り詰めて本殿の中に進んだ。神前に額いた夫人は、しばらくの間深々と頭を下げて拝礼してから、悲願を込めてしたためた願文を、奉書袋から取り出して紳々とはしているが、透きとおるような声で読み進めた。
 
    「願文」
敬って申す祈願のこと。
 この国の木主として、武田太郎と号せしよりこの方代々護り給う。ここに不慮の逆臣出できたって国家を悩ます。よって勝頼、運を天にまかせ、命を軽んじて敵陣に向う。しかりといえども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。何ぞ木曽義昌神慮を空しうして哀れ父母をすて奇兵を起こす。これ自ら母を害するなり。勝頼累代の重恩をうけし輩(ともがら)逆臣と心を合わせて国をくつがえさんとす。万民の悩乱、仏法の妨げならずや。そもそも勝頼いかでか悪心あらん。我れも、ここにして相共に悲しむ、涙またとめどなし。神慮天明まことあらば、罪悪人のたぐい、かりそめにも加護あらじ。神慮まことあらば運命このときに至るも、願わくば伶(れい)人力を合わせて勝つことを勝頼一指につけしめ給い、仇を四方に退けん。
右の大願成就ならば、勝頼我れとともに社殿磨きたて廻廊建立のこと、敬って申す。
  天正十年二月十九日                   源勝煩うち
 
願文は、切々として胸を抉(えぐ)り、夫人は奏上を終えるまでに、幾度か絶句して神床にひれ伏した。
 今に通るその願文はやるせ無い心情がひしひしと寵っており、筆を運ぶ折に落とした涙で幾個所か字が惨(にじ)んでいるのを見るにつけても、夫人がいかに甲斐の国を思い武田家の運命を案じたか察するに余りあるものを覚えるのである。
 祈願をして城に帰った夫人は、少しは心が落ちついたけれども、諏訪城に行っている勝頼公の安否が気遣われてならず、いっそ夫の元に馳せ参じて、せめて身の周りのお世話をしてあげようかとも考えてみたが、この際それは許されないことだろうと思って、口にも出せず毎日ひたすら法華経を念じて夫の武運を祈るばかりであった。
 そのうちに頼みとしていた信濃の城は次々に落ちてしまい、掛け替えない血族の者や日ごろの忠臣といわれている者までも離反していく悲報が続いた。勝頼公は諏訪城にいて戦況が慌しいながらも機を窺(うかが)って塩尻峠に布陣し、武田の運命を賭けようと計画を練っていたが、命の綱とも思って甲斐の国の留守を頼んでおいた叔父の穴山信君(梅雪)が、二月二十五日に古府中の館を出て駿河(静岡)へ逃げてしまったことを二月二十七日になって飛脚が伝えてきたことから、これを聞いた勝頼公ほもう施すすべもなく翌二十八日に諏訪城を発って急ぎ新府城に帰ってきた。思わぬ結果に城内は落ち付かず慌しい雰囲気に包まれていた。
【新府城】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 天正十年三月三日の辰(たつ)の刻(午前八時)頃であった。七里ケ岩の屋上から煙が立つのが見えた。不思議に思ってそれをよく見ていると、朝霧に覆われていてさだかではないが、昨年の暮にできたばかりの新府城の東曲輪あたりが燃えているようにも見える。まさか、と思いながら感じたことは、昨年の今頃は穀物の種を蒔くため焼畑をしてそのため丘や山の傾斜を火事と間違えるくらいに焼いたし、今年も七里ケ岩以外のところでは毎日のように枯野を焼く煙が1っている。けれども七里ケ岩の上は昨年の春から、築城のため焼畑をすることを禁じられたばかりでなく、新しくできた新府城には、故のない者は絶対に近寄ることさえ禁じられている。それに特に最近は取り締りが厳しいので、城内が燃えるなどとはどうしても思えなかった。
 この新府城は昨年の七月、天から降ってわいたように「七里ケ岩の上に築城する」という布令が出されたので、しばらくは真疑のほどがつかめなかったが、そのうちに十軒のうちから一軒は築城の労役に出役するように達しがあり、出役する者の留守家族の生活は、残っている九軒が負担することに決められたので、村の人たちにはようやく築城の事実がわかった。築城のため集まった者は、織田・徳川の連合軍との戦局がいよいよ迫ってくる噂(うわさ)を耳にして、甲斐の国はこの城に拠って守り、自分たちの生命と財産がこの城によって守られるのだと切々とした願を込めて、日に夜を継いでの血の惨むような労役に服した。そしてわずか六カ月の短い間に、麓から二五〇段の石段を造って山頂に達し、老松が茂るその山頂を削って南北六百㍍、東西五百五十㍍の平地を造り、その中へ中央に本丸、西側に二の丸などを配し、北から東にかけては天然の池を利用して濠を造り、長
い腰曲輪を巻いたりして、本丸の南には望楼付きの東丸と西丸の曲輪が造られ、この下に三日月城の天然の池を内堀として、天険を巧みに利用した宏大な城を造り上げた。年の暮近くなっても壁は濡れていてまだ乾かないし、板敷も荒削りの部分が多く、手を入れる個所がたくさんあったけれども、敵襲があるという噂が日ごとに高まってきたので、武田家一族は十二月二十四日に信虎・信玄・勝頼と三代にわたって住み馴れたつつじが崎の館を引き払って急いでこの城に移って来たのである。
 毎日一万人が労役に服して造ったと言われる新府城であるから、戦局にどのような変化があろうとも木の香も芳ばしいこの城が、まさか六十余日の薄命で終わるとは誰も夢にも思ってみなかったのであるが、事実年が明けて急に戦局が変わると勝頼は自らの手で城に火をかけて新府を落ちていった。不安な気持ちで火の手を見ている附近の人々の耳には次々と疾風のように城の中の模様が伝えられてきた。
 城の中の火は人質が押し込められている東曲輪から上ったという、その東曲輪に火が放たれる前に、中に押し込められていた千人余りの人質は、調べ分けられて、人質のうち武田家に忠誠を誓う証として預けられていた約百人の者は、曲輪の外に出された。かって、武田家に叛く行動をとったため人質になっていた九百人余は、曲輪の中に押し込めたまま火をつけられたので、曲輪の中はたちまち炎に包まれて、泣き喚(わめ)く悲鳴はさながら地獄絵図の様相を呈しながらことごとく焼き尽くされてしまった。猛火は見る見るうちに全山に燃え広がっていったのである。
 私は、この物語りを思いながら、城内に寵っていた武田家一族や、家来たちはどうなったことだろうと、気懸りになったが、それよりも先に、なぜ新装してまだ日の浅いこの城に自ら火をつけて燃やさなければならなかったか、という事情を不安のうちにも追い求めていったのである。
 
【木曾義昌の謀反】史跡を尋ねて『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
 武田家一族が、新府城に移ってきてまだ日の浅い天正十年正月六日のことであった。城内では正月行事の余韻が醒めぬ巳(み)の刻(午前十時)ごろ、信州往還を駆け抜けてきた早馬一騎が城に到着した。
 馬から降りた使者が差し出した書状には、勝頼公側近の武将である阿部加賀守の宛名が書いてあった。差し出し人は木曽義昌のところに出向していた武田の武将茅村備前守と、山村新五左衛門の連名になっていた。 加賀守は戦局の要(かなめ)としてその健在を願っている木曽義昌の元からの書状なので、その書状をひったくるようにして受け取り、息をもつがず一気に読み終えた。そしてひとこと
「木曽殿が謀反(むはん)」
と、言ったきり、顔面蒼(そう)白となり頭を高く上げてしばらく無言のまま虚空を睨(にら)んでいた。木曽義昌の妻は勝頼公の妹君である。父信玄公の第三女でもある。だから義昌は勝頼公の義弟なのだ。そればかりではない。義昌の母(七十歳)とその妹(十七歳)それに嫡子、千太郎(十三歳)が今新府の城の中に人質となって囲われている。いくら戦国の世の中とは言いながら、このように深い鮮(きずな)で結ばれている義昌が謀反を起こすとは、どうしても考えられなかった。
 しばらくして加賀守はこのことが城内に知れることを恐れたので、そっと勝頼公に告げた。これを聞いた勝頼公も信じなかった。後刻このことを武田信豊や、跡部大炊、長坂長閑などの腹心の武将たちには知らせたが誰も信じようとはしなかった。それどころか勝頼公や側近の武将たちは
「どう考えてみても、木曽殿が謀反を起こすとは思えない。それよりも書状の差し出し人である茅村と山村が、何かのたくらみをして早馬を立てたものに相違ない。いずれ真相がわかるだろう」
と、言って、少しも信ずる気配はなく、飛脚はそのまま城内に囲ってしまい、差し出し人に返答する気さえなかった。
 城内は住居を直したり、正月行事などがあったので、一月の月はたちまち過ぎていった。やがて正月も終わろうとするころになって、やっと正月早々使者が早馬で届けてくれた義昌の謀反が事実であることを知った。木曽義昌は妻を裏切り人質になっている母や妹や自分の子を失っても、生き抜く道は武田へ背を向けること以外にないと考えるようになっていたのである。
 なぜなら、木曽の国は、甲斐の地からは遠いところにあり、反対に織田信長のいる尾張(愛知)や美濃(岐阜)とは隣接している。織田軍は今甲斐の武田を討伐するため大がかりの準備を進めているから、進撃を開始すれば木曽城は一番早く攻め込まれる場所にある。この時になって勝煩公に援軍を頼んでも距離的にも無理であるし、甲斐への進攻は間近に迫っていると言われているので、この際総てのものを犠牲にしても生き抜かなければならないと決意したのである。
 この時勝頼公は武田信豊を呼んで、旗本衆の神保治部が付き添っている精鉄部隊を率いて木曽義昌を討伐することを命じた。命を受けた信豊は直ちに所定の準備を急ぎ木曽に向かって軍を進めて行ったが、途中鳥居峠で木曽軍と会い幾度か激戦を繰り返したけれども勝機がなく、ついに全滅の危機に瀕(ひん)してしまった。
 このころ勝頼公も二万の軍を率いて信濃の諏訪へ出陣していたが、刻々と伝えてくる戦況はわが方に不利のことばかりで、焦燥の毎日を過ごしていた。
史跡を尋ねて【中央線の開通、そして韮崎新府城へ】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
 私は、そのころ武田氏が滅亡への、悲しい門出になった新府城を出て、田野のくず原で自刃するまでの足跡を尋ねて、勝頼公一族の菩提を弔うことを念願としていたので、そのころ工事中だった国鉄中央線が甲府まで開通するのを一日千秋の思いで待っていた。しかし、中央線笹子トンネルの工事に長い年月と費用が要ったことを後になって知ったとき、歳月がかかるのも無理からぬことだと思った。
 笹子トンネルは明治二十九年十月に着工して、総工費百九十万六千百三十二円四十五銭二厘を資して、全長四千六百五十六㍍を掘ったのであるが、当時としてはその規模が東洋一長いトンネルと言われていただけに、工事中は数多くの困難と犠牲があった。
 関係者はこれを乗り越えて、科学の粋をあつめて工事を進めたが、起工以来実に七カ年の歳月を費して、明治三十六年二月一日には初鹿野まで、四月八日に勝沼まで、六月十一日には塩山から甲府まで全線が開通したのである。新しく敷かれた鉄道線路の上を、蒸汽気閑車が走ってくると言うので、家々では門ごとに国旗を立て朝から花火を揚げたり、駅前の広場は黒山の人だかりで、汽車が笹子トソネルから出てくるのを今か今かと、固唾(かたず)をのんで待っていた。
 そのうちに一番列車が駅に着いたが、その巨大な鉄塊に驚異の目を見張り、手に、手に日の丸の旗を打ち振り、万才、万才と叫びながらその動向を見守っていた。
 見物人の中には紋付羽織に袴を着け、中には塩と洗米を持ってきては駅頭にまいて、これから乗車する人の身の安泰を祈願した人もあった。
 汽車の運行時間は、上り下りとも四時間ごとに一本で、単線だったから乗り遅れると次の汽車がくるまでに半日近く待たなければならなかった。だから、時には汽車に乗ろうとする人が手を上げて駅を目がけて走って来るのを車掌が見ると、その人が乗るまで発車しないで待ってくれたものである。
【鉄道開通】
 鉄道が開通して幾日か経ってから、私は、夢にまで見て念癖していた武田の史跡を訪ねようと初鹿野駅を朝一番の汽車に乗った。客車は横にいくつも扉があって、そこから乗り降りするので、車内を歩くことはできなかったが、車窓から見る外の景色が走馬灯のように後へ後へと置き去られていくのを見ていると、そのすばらしい速さに目が回るようであった。
 甲府駅まで約一時間かかったが、車窓から外の風景に見とれていたので、下車するとき心残りがしてならなかった。
【韮崎駅】
 甲府から先は勝頼公一族が通ったと言われている道を、往時を偲びながら歩いて行った。その道程は十六キロ以上もあったのでかなりの時間をかけてやっとの思いで韮崎の町に入り、かねて同じように武田史跡を探るため私の村に来たことのある金森さん宅を訪問した。前もってお願いしておいたので、武田氏の発祥の地であり、また武田氏滅亡の出発点ともなったこの地の武田史跡を案内してくれることを快諾してくれた。金森さんは、自家製の渋茶を入れてくれながら「伝説や口説は歴史より奇なり。と言われていますが、この土地の者は武田の歴史については幾百年の間語り継がれてきた言い伝えを信じて、それを毎日の生活の中に生かして後の世に伝え遺そうと願っているのです」と言って、私がいつも先祖からの言い伝えや、歴史の資料で調べたと同じようなことを話してくれた。私は、それから武田氏が新府城を発って終焉するまでの足跡の伝承を元にして、韮崎周辺を    訪ね歩いてみた。歩きながら当時の人に成り切ってつぎのような物語を胸に画いていた。
 
【勝頼公の菩提寺、景徳院の再建】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
 景徳院は焼失したという事情から、その後無住のまま過ぎていたが、明治三十年四月、本山の命により、大貫隆道師が住職となって入山することになった。そして師が入山するとすぐ武田氏一族の菩提の地としてふさわしくない惨状を見るに忍びず、檀家の人たちとともに寺を再建することを時の内務大臣に申請した。さいわいすぐに寄附金募集の許可を受けたので、次のような事情を記した寄附帳を持って、檀信徒をはじめ特志家や村内の家々に懇請して回った。
 
【寄附金募集の事由】
 当院は、天正十年三月十一日、武田勝頼公が織田信長と戦い討死の場所であって、徳川家康公より旧領七十五石余を賜り、当山を創建して、法式焼香を厳かにしていた七堂伽藍が完備していたが、弘化年間に火災に遭い、その後の法要の執行に差し支えのないように、建物を再建したけれども、王政復古となったので、徳川公の御朱印は取り上げとなり、わずかの寺の財産と焼香料で寺の経営をしていたところ不幸にも、またまた明治二十七年二月に本村の大半が焼失した際、本堂・庫裡・御霊堂・惣門・宝庫・観音堂等が類焼して、現在は山門を残すのみで、国中で著明であった名蹟も後形もなくなり、茫(ぼう)然として、その惨状は言葉では言い尽せないのである。
私は明治三十年四月に当院の住職に任命されたが、入山以来、県下の有士等聖士が墓参に来られた際に、勝頼公の旧蹟もこのように気の毒な有様かと、慨嘆され早く再建されるようにと、異口同音に促された。私は、その時々に励ましてくれた忠言を肝に銘じ髄に徹して、片時も忘れられず、その準備を進めていたのであるが、明治三十一年内務省令第六号、及び明治三十三年内務省令第十号によって、景徳院を再建するための寄附金募集願を本年三月十五日付で、許可されたのである。
 よって、江湖の仁徳高い人や、世の聖賢君子に懇請して、応分のご寄附を仰いで堂宇を再建して、菩提を海外に輝かし、主恩を永く世に酬い、旧蹟を遠く千里に著わし、将来の維持保存を完全に致したきに付、財政多端の折柄甚だご迷惑のことと存じますが、何分の浄財を喜捨せられたく、乞い願わくば、この望みを遂げさせたまわんことを、切望して止みません。
   明治三十四年四月十三日
                     天童山景徳院住職 大 貫 隆 道
 
 檀徒総代と住職は、この寄附帳を持って地区割をし、募金の懇請をして歩いた。旅費は一切自弁として村内を一回りした後村外を回ったが、乗りものがないので訪問して回るのに意外の日数がかかった。それに月日が経つにつれて、国内では日常の暮しを引き締めるようにとの布令が出された。私は、日本の国に近く何か大きなできごとがあるかも知れない、と感じながら募金に回った。布令があったせいもあって募金に応じてくれる人でも多額の寄附は遠慮するようになった。
【結婚式 近隣の火事 勝頼公菩提寺景徳院類焼】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
私たち夫婦は、(千やんとお万さん)の仲人として、古式に則(のっと)り、三三九度の杯を新郎新婦に交わさせ、夫婦の契りを結ばさせて続いて親兄弟や親族の契りの杯も滞りなく済ませた。式が終わった後、祝宴をするので、同座の人の前に黒塗りの猫脚膳(ぜん)が配られた。膳の上には心尽しの手料理が幾品も皿に盛られて乗せてあった。皆んなの杯にご神酒が注がれたので、仲人として、新郎新婦が幾久しく変わらぬ契りを保つように、また両家の栄えることを祈念して乾杯の音頭をとり、めでたい口上を述べてから、杯を高く上げてうやうやしくご神酒をロに注いだ。と、そのときである。昼とはいっても、家の外は寒いので、障子を閉めきってあるから、さだかには聞きとれなかったが、戸外が急に騒がしくなったのに気付いた。
「何か変わったことでも起きたのかな」
と、思って急いで障子を開けて西の方を見た。すると部落の下の方に、白黒の煙が上っていてそれが上の方へ吹き上ってくるのが見える。私はとっさに「火事だ」と感付いた。                7
【火事】                                                                                     
 誰かが、「火事だぞ」「部落の下の方が火事だぞ」と言っている。「火事はどこだ」「兵衛門の家が燃えている」「東の方へ燃えてくる」と、次々に叫び声が聞こえてきた。
 結婚披露宴が始まった千やんの家の中も、たちまち混乱しだした。私は、一昨年の冬の夜見たように、これも幻の火事であってくれればよいと心に念じた。しかし今度は間違いなく本当の火事だ。それも、あのとき幻に見た兵衛門の家から火の手が上っている。
 私は、咄嗟(とっさ)に、花婿花嫁の身の安全を考え、本人を促がして家の外に出て物置にあった筵(むしろ)を一枚持ってきて、燃えてくる筋から離れながら南の方へ花嫁の手を引っ張りながら走って行って、家並から外れた福やんの家の外縁に持って釆た蓮を敷いて花嫁を座らせた。花嫁に「ここを動くじやあないよ」と言い残して、とって返し千やんの家に入ろうと思いながらひよっと、自分の家の方を見た。するともう私の家の母屋の萱(かや)屋根にも幾箇所か火と煙が立っているのが見えた。私は、千やんの家の外から、大きな声で 「後を頼むぞ!」と言いながら自分の家へ飛ぶようにして帰った。私の家には折よく
旧正月だったので、親戚の者が三人、年始に来ていたので、家の者と一しょになって、新しく造った土蔵へ家の中のものを入れてくれていたところだった。家は西から吹いてくる風道になっていて、その日は西風が強かったので、火足が速くあれもこれも、まだまだ蔵に入れたい物が残っているのに、もう二階の梁(はり)が焼け落ちる音を聞いてしまった。
 これ以上家の中にいるのは危険だ、と思ったので、土蔵の観音開きを閉めて裏口から外へ飛び出した。見ると家の裏の土手に茂っている竹薮(たけやぶ)も、両沢向かいにある景徳院の土手の竹薮も、パンパンパンと大きな音を立てて竹が割れながらものすごい勢いで燃え上っていた。
 
【勝頼公菩提寺景徳院類焼】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
【近隣の火事により、景徳院類焼・再建】
 無意識のうちに両沢川まで飛び降りた。私は折良く、川端に干してあった綿入れの半纏(はんてん)を川の水に浸してそれを被(かぶ)り、燃えている竹薮の中を潜りながら景徳院の庭に飛びこんで行った。行って見ると寺の建物も、そこここに火が移っていたので、とっさに庫裡(くり)の縁の下にあった五間梯子を二丁ずつ持って行って、山門の四方へ掛けてから、御霊堂をお護りしなければと思いながら、そちらへ走って行った。猛火は建物のすぐそばまで燃えてきていたが何とか防がなければと思った。
 折よく寺の小僧がこちらへ走って来たので「御霊堂の二階の窓が開いているから早く閉めろ−」と言い付けて、私は勝頼公と夫人と信勝公のご影像を順に奉持して近くの畑に運んだ。続いて、忠臣たちの位牌や、鎧(よろい)兜(かぶと)をはじめ、武具などを手当たり次第に畑に運んだ。
 この時やっと二、三人の村の人が駆けつけて来たので、いっしょに運び出してくれていたが、寺の小僧が閉めたものと思っていた二階の窓がまだ開いていて、そこから猛火が吹き込んだので、たちまち建物の中は火と煙が渦(うず)を巻いてしまっていた。もう危険と思ったので、残念だったがこれ以上運び出すのを思い止めた。間もなく続々と応援にきてくれた人たちがあったが、もうそのころは施す術もなく、「あれよ、あれよ」と言う間に、本堂をはじめ、庫裡(くり)・御霊堂・惣門・宝庫・観音堂・鐘楼等が、次々に焼け落ちてしまい、御霊堂の裏にある勝頼公一族と殉難(じゅんなん)将士を祀る石碑も、吹き付ける猛火に包まれていた。
 本堂から少し離れた山門にも、あちこち飛火がしていたが、風道から外れていたのと、五間梯子が掛けてあったので、応援に来た人たちが消してくれたから、危く難を免れることができた。この火事で寺の建物をはじめ、民家二十二戸は萱葺(かやぶき)の屋根が多かったので、火の回りが早く、わずか三時間くらいでことごとく灰になってしまった。
 火事は部落続きの山にも延焼して、手の施しょうもなかったが、その山火事も、峯まで焼け上って、ようやく消すことができた。
 私は、寺の焼跡のくすぶり続けている始末を、他村から応援に来てくれた人々に頼んで、やっとの思いで自分の家の焼跡に走り帰った。家の焼跡には親類や村の人々が大勢いて、焼跡は大方片付けてくれてしまっていた。もう陽が落ちてしまっていてあたりは急に寒くなったので、まだくすぶっている焼け残りを、屋敷の真ん中に集めて燃し、その火を皆んなで囲んで、焚き出しで配られた握り飯を食べながら、悪夢のような火事の跡始末について相談した。
 焼け出された家の人たちは大方着のみ着のままで、焼けなかった家や親戚の家にひとまず身を寄せることになった。
 私の家では、土蔵の観音開きを開けて、中の熱気を冷まし、幸い畳も土蔵に入れてあったので、土蔵から出した品物の囲いにしたりして、場所が作れたので家の者は土蔵の中で寝ることにした。その翌日から、焼け出された家々では焼跡の片付けをしたり、再建築の計画をしたりして誰彼なしに寒空に身を晒(さら)しながら、大へんな苦労を重ねた。さいわい他方面からの援助があったので、春になってからはあちこちから槌音高く上棟式が行われるようになって村は活気付いてきた。
 私の家では母屋を建てるのにその年いっぱいかかった。土蔵は荒壁のまま火事で其壁になってしまったので、化粧塗りもできないで過ごしてしまった。
【火事、その後】
 景徳院では取りあえず雨露をしのぐだけの仮屋を建てて、難をのがれた寺宝を保存した。そして三年の月日は夢のように過ぎてしまった。私も家を再建して、一息つくようになったころ、ふと、火事によるできごとを思い返してみた。次々と思い出しているうちに、勝頼公は生きているとかねてより口にしていたことがいよいよ本当に思えるような気がしてきた。
 
  一、過ぐる年の夏の夜、庭に落ちた火の玉は勝頼公が、火の災を予告したのだ。
  一、また過ぐる年の冬の夜、火元に見えた幻の火事は、勝頼公が知らせてくれたのだ。
  一、今度の火事のとき、勝頼公一族と、忠臣などのご影像や、位牌やその他の寺宝を私に救わしてくれたのだ。
  一、この火事以来、毎年悩んだ持病が治ったのは勝頼公のお加護なのだ。
 と、このような思いを追っていって、私は改めて悟った。
「勝頼公は生きている。だから私にこの災厄を事前に知らせてくれたのだ。そして私の奉仕に対して持病の胃病を治してくれ、しかも私に後々の菩提(ばだい)を弔うことを託してくれたのだ」
と、繰り返し追想した。以来私はそれを信じてこれからの人生を勝頼公一族の菩提を弔うために仕えて、ともすれば忘れ去られていく、勝頼公一族が武運拙なくこの地で終鳶を迎えた悲劇の心情を世に残そうと決意した。
 

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