山梨県 武田勝頼公資料室

武田勝頼公は悲惨な最期を遂げた 武田滅亡の軌跡

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『武田勝頼公は生きている』【躑躅が崎―甲府善光寺―大善寺^笹子峠】運命の迷路 新府城退去 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
【笹子峠への道】
 勝頼公の一行は、放任度を整えた上、理慶尼の厚いもてなしに心から感謝して大善寺を後に出発したが、心の中では再び会える日を望めない思いに胸が迫り、気も絶え絶えであった。
 理慶尼も同じ思いを胸に秘めて別離の情を断ち切れぬまま、深沢川のほとりまで見送り、一行が見えなくなるまで、涙ながらに合掌してその場に立ち尽くしていた。一行に従う人数のうち昨夜のうちに行方をくらました者が多く、笹子峠の麓に向かう者
はわずかに二百たらずとなっていた。その中には女、子どもの姿が多く見え、勝頼公夫人は行き先を思うときいよいよ心細くなって
  行く先も頼みぞうすきいとどしく心よはみか宿りきくから
と、詠まれた。
 横吹あたりまでくると道はいよいよ狭く険しく、石ころだらけの坂道ばかりであるからともすれば一行に遅れる者が多くなったので、勝頼公は満川(日川)の流れを眼下に見下ろす岩角で一まず憩うことにした。平穏の時ならば風光明美の辺りの景色をたたえて和歌の一首ももうすところである。しかし今の勝頼公にはそんな心のゆとりはなかった。折から横吹郷の人々が国主一行の安否を気遣って馳せ集まり、何かと世話をしてくれたのに感激して勝頼公は奉持してきた不動尊を取り出し
「武田の運命はこの先どうなることか計り知れないので、これをそなたたちに托すから後世永く武田の武運と郷民の安泰を祈念されよ」
と、言って、郷人の代表に渡した。それ以来横吹の人々は武田不動尊を奉じて、岩角に祭祀し武田氏一族の冥福と村民の安泰を祈念している。
【駒飼・鶴瀬の宿】
 一行が笹子峠の麓の部落に着いたのは二月四日の午後であった。多くの者には鶴瀬郷の農家を借りてそれぞれ休息をとらせ、勝頼公一族はその先の駒飼(こまかい)郷の石見其の家を借りて館とし旅の疲れを休めた。この両部落は高い山に囲まれた谷深いところなので、不意に故に襲われる懸念は薄く、それにここまでついてきた者は先代から忠臣と言われている者ばかりである。
 武田家のためなら水火も辞さない士ばかりであると勝頼公は信じているし、それにこの地は、月山神社の神域でもあるから、しばらくの間、武田一族の身をこの神社の守護の下 に置きたいという祈念もあって、一応の安堵(あんど)感を深めていた。
【月山神社】 
この地に月山神社を祀ってある起源の伝承は、遠い昔に遡るのである。人皇第三十三代崇峻(すしゅん)天皇別称を泊瀬部(ほこせべ)天皇という、五九二年七十二歳のとき、時の大臣蘇我馬子(そがのうまこ)のために殺されたので、皇妃小手姫(おでひめ)も身に危険が迫ったことを感じて、出羽の国(山形県)に出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山)を開いた峰子王子(はちこのおおじ)の元に逃れようとして、皇妃の父大友糠手(おおとものぬかで)とわが子、錦手皇女(にしきでのこうじょ)を連れて、密かに奈良の都を抜け出し、後の中仙遥から信濃路を経て、甲州を通った折、駒飼の里に数か月滞留されたという伝説のあるところで、その折皇妃は習得していた養蚕と機織りの技術を施し、民生の安定に力を注がれたので、その高徳を敬慕して近郷の者が集まり、日影の上の段に十六坪の社地を設けて月山神社を建立し、郷人のご加護を祈願している社である。
【日影の宮】
 駒飼の里に設けた武田の本陣は、松明(たいまつ)山の麓の老松が茂っている場所に駒をつなぎ、所在を隠すために武田の軍旗を巻いて諏訪神社(日影の官)の旗塚に置き守護を祈念した。
【腰掛石】
 そのころ勝頼公は、朝夕を西の原にある腰掛石に赴いては、あたりの動静を窺っていた。ここから西を眺めれば、一行が待機している鶴瀬の集落は足下に見えて、あちこちの民屋から炊煙が立つのを見てひとまず安堵はするものの、時折り西風に乗ってくる川瀬の音が押し寄せてくる敵兵の喚声にも聞こえて「ハッ」と肝を冷やす思いもしばしばであった。
 睦(きびす)を返せば、東の方に笹子峠の頂上がはるかに霞んで見えるが、その辺りに小山田が迎えにくる姿が一日も早く見えぬものかと一日を千秋の思いで待ちあぐんでいたのである。家臣は代わるがわる笹子峠が見える松明山の待場に登っては、動静を窺っていたが、一日経ち二日経つうちに西の方へ偵察に出ていた家臣から「織田軍の先鋒が新府を過ぎて、古府中まで進撃してきたらしい」との情報がもたらされた。
『武田勝頼公は生きている』【躑躅が崎―甲府善光寺】運命の迷路 新府城退去 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
看回塚を発った一行は、駒沢の坂を下り宇津谷を通り、千塚・塩部を経て、つつじが崎の古府館に着いた。しかしつい先ごろまで武田が三代も栄えていたときの居館も、すでに荒れ果ててしまい一行の憩う場所さえない有様になっていたので、止むを得ず信玄公の弟である一条右衛門大夫信竜の屋敷を尋ねたが、ここもすでに人影がなく喉を潤す一服の手立てもないので、仕方なく、衣服や草鞋(わらじ)を直すのもそこそこに、東へ向けて出発した。
【善光寺】
お供の衆は、老若男女合わせて六、七百人がほどであったが、板垣の善光寺の前を通るときは、皆足を止めて合掌し、心の中では「南無阿弥陀如来、もほやこの身は長生きして身の安楽を乞わないが、せめて十万億土の極楽浄土へ心安く迎えとらせ給え」と一心に念じた。
 この寺は永禄元年(一五五八)に父信玄が信濃(長野)の善光寺を模して造ったもので、多彩な大伽藍は武田家の未来を象徴するかのように、四隣に映えていたが、今は極楽往生の祈りを捧げる境遇となり、有為転変の世の無情をかこつだけである。
 侍女たちは馴れぬ足どりのまま、無我夢中で歩き続けてきたが、さすがに疲労の色が濃く、足の爪は剥げ、足豆はつぶれて鮮血が惨み出しているのを見て、かつての日、勝頼公夫人に供してこの地で楽しい花見の宴を催したときのことを思い出して、また鳴咽して目頭を腫らしながら少し歩いては路傍の枯草の上に倒れ伏したまま立とうともしない者が多くなった。家来たちはこの者たちを宥(なだ)め促して、再び隊列に戻そうと苦心を重ねていた。
【小幡豊後守】
そのころ武田の家臣である小幡豊後守は、病気のため城を離れていたが、お家の危急を聞いて一行の後を追って善光寺前でやっと追い付くことができたので、いち早く勝頼公に拝面した。
「病気のため、残念ながら最後までお供ができないのをお許しください。これからしばらくの間道案内をさせていただきますが、私はこの界隈の地理と人心の動きを承知しております。この辺は浪人の逆心があるかも知れないので気懸りです。足の弱い女・子どもは早々に暇を出されて、今夜は勝沼の柏尾まで行かれるのが安全かと存じます」
と、進言した。
【万福寺】
 一行は薄氷を踏む思いで一歩一歩進み、石和の川中島を経て陽が西山に傾くころやっと等々力村の万福寺にたどり着いた。
  勝頼公は豊後守の進言もあったので、足弱い女、子どもを呼び、きょうまで仕えてくれたことをねぎらい、体を大事にしてりっぱに成長するよう諭した後一行から別れさせた。万福寺から柏尾までは短かい距離であるが、一行の中に残った婦女子は、杖にすがり、足を引きずって歩き、夕闇迫るころやっとの思いで大善寺にたどり着くことができた。
【大善寺】
この寺は、養老二年(七一八)僧の行基が薬師如来像を彫刻してこれを奉祀し開則したものと伝えられ、聖武天皇から「柏尾山鎮護国家大書」の寺号と、勅額を賜って以来、歴代朝廷の祈願所となり、北条貞時が弘安九年(三八六)後宇多天皇の勅を奉じて寺院の造営にかかり、八年の歳月をかけて薬師堂を完成した由緒深い甲斐国第一の古刹(こさつ)である。
 この寺には勝頼公の祖父に当たる武田信虎の弟、勝沼五郎信友の娘がいる。かって、父信友が不遇の死をとげた折、この寺に入り、剃髪(ていはつ)して、桂樹庵理慶尼と称し、護摩堂の阿閣梨慶紹を師として、仏道に精進しているのであるが、喘(あえ)ぎながらたどり着いた勝頼公一族を快よく招じ入れて厚くもてなしてくれた。やがて、夜に入ると、勝頼公夫人の願いにより、理慶尼は本尊の薬師如来の御前で経文を唱え、勝頼公一族の武運を祈ってくれた。けれども夜がふけたころになるとあちこちの家に放火する者があって、勝頼公のお心をしきりに掻き乱す仕業があったので、召し連れていた人々も、その火の光に家に残した妻子のことなどを思い、この先が案じられてきたのか忍び忍びに逃げて行く気配がした。
 勝頼公はその折「誰かおらぬか」と呼んだが、すぐにこたえお傍に出る者もなく、重ねて「誰かおらぬか」といえば重臣の土星惣蔵が進み出て「ご用を何ぞ承ります」とひざまづいた。勝頼公は「先刻から閻に乗じて姿を消す者がいる。だれや彼を呼んでも返事がない」と申されて、家来の去就に絶望的な表情を隠せずガックリ肩を落とされた様子であった。
夫人は、この様子を見ながら
   西を出で東に行きて後の世の宿かしはをとたのむみ仏
と、詠まれて、終夜薬師如来に祈りを捧げて夜明けの訪れにも気付かなかった。国中の東端にある柏尾の大善寺の朝の空気は冷えびえしていたが、桜の花は一行を慰めるかのように咲き乱れ、時折吹き渡る朝風に誘われて、一片、二片と散り初めていた。
 この朝、岩殿城主小山田兵衛尉信茂の一族は、勝頼公に向かって
「一足先に居城岩殿に参り、城の内外を整えた上、お迎えに参りますゆえ、この先の笹子峠の麓までお越しなされてしばらくお待ちください。物情騒然としている折ですから、私に二心のないことの証として、母を預けて行きますのでお世話をお願いします」
と、言って大善寺を出た。勝頼公は、小山田の言うことに一陣の不安を感じたが、その意を容れて先立たせた。
【伊那高遠城、落城 新府城に危機迫る】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 伊那の高遠城は勝頗公の弟の仁科五郎信盛が守っていたが、この守りもまた織田の大軍と悲壮な戦いを繰り返した後、三月二日になってついに全員自決してしまったという悲報が高遠から届いた。肉身が守っている最後の砦(とりで)ともいえる城も落ち、一族のほとんどが戦死したり敵方に寝返ってしまった今となっては、未完成の城では到底敵の大軍を防ぐことは覚束ないと知って、勝頼公はガックリ肩を落とした。その日、腹心とされる者を集めて、城内で最後の軍議が開かれた。
 勝頼公は集まった武将の顔を一人一人食い入るように見回してから
「おのおの方も先刻承知のとおり情勢は急迫しており、一刻も綬がせにできない。この先いかがしてよいものか、腹蔵なく意見を述べられよ」
と、言った。しかし、しばらくは沈黙が続きだれとて咳一つする者さえなかった。
 
【勝頼子息、信勝公の考え真田昌幸・小山田信茂・長坂長閉・勝頼の決断】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
しばらくすると、信勝公が重苦しい沈黙を破って発言した。
「私は、織田信長にとっては甥に当たる者でありまた、高遠城に攻めてきた城之介信忠にとっても甥に当たりますので、誤解されるかも判りませんが、父上が思われるとおり、この城で決戦することは無理だと思います。しかし今どんなにりっぱな城に立て寵っても、このように血肉を分けた一族や家臣に謀反されたのでは十分の戦力がありません。所詮(しょせん)武運が尽きたと考えるべきです。そこでこの城は延べ幾十万もの甲斐の国の人々の汗と脂を絞って造った城です。捨て去ることはできません。それゆえ私はこの城で武田が累代継承してきた重宝の御旗や、楯無しの鎧などを焼き捨て、一族そろって潔く討ち死することが一番よい方法と思います」
と、言った。
 
【真田昌幸】
 真田昌幸が、これを聞いて口を開いた。「信勝さまのお言葉には感激いたします。しかし、もう一度お家の武運を拓(ひら)く道を考えるべきだと思います。幸い私は、上州の吾妻城を持っておりますから、ひと先ずそこへ行かれてから再挙の術を考えたらいかがかと思います」と言った。
 
【小山田信茂】
 すると、郡内(大月)の岩殿城主である小山田信茂が昌幸の言葉を遮って
「なるほど、吾妻城も、駿河(静岡)の久能城と、わが岩殿城と並んで関東の三奇城と言われ要害堅固ではあるが、何を好んで、この火急の際に他国まで行かなければならない理がありましょう。私の城はここからは至近の距離にあって相模にも近いので、戦局を有利に導く位置にあると確信いたします」
と、言った。
 
【長坂長閑】
勝頼公は、いずれも一理あることと思い、決心し兼ねているところへ腹心の長坂長閑が勝頼公の側に進み寄り、耳打ちをして言った。
 「真田昌幸は三代目の臣、小山田は譜代の臣です。また信玄公時代から二十四将に列する家来でもあり、城は領内に有って難攻不落ですから小山田の言われるのが道理と考えます何の憚ることはありません」と進言した。
【勝頼公の決断】
勝頼公はこの進言を聞いて甲斐の領内の方が安心できると思ったので
「おのおのの意見はそれぞれもっともであるが、余は直ちにこの城を発ち、岩殿城で構え戦局に対処することに決する。今から指示する者は、それぞれ持ち場に帰り再挙の日を待たれよ」
と、言って、それぞれ指示する者を呼んで「真田昌幸は吾妻城に、高坂源五郎は信州(長野)の海津城へ、武田信豊は雪姫を連れて信州佐久の小諸城へ、小幡山城守は上州(群馬)沼田へ帰って命を待つように」と言い渡した。人質曲輪から出した忠臣の人質約百人には、金子(きんす)を渡して思うところに落ちのびて身の安泰を図るように申し渡して城を出した。
 
【人質の殺害】
人質になっている木曽義昌の母と妹と嫡子は、これを監視していた上野豊後守の一隊が、新府に通じる逸見筋の藤井坂井原に    引き出して「固い絆(きずな)で結ばれているお前たちの当主が謀反したことは、武田にとって憎んでも余りある仕打ちである。お前たちを八つ裂きにしても飽き足らぬくらいだ。生かしてはおけぬ」と言って、その場で躍り上って殺した。後日この場所を躍り原と呼んでいるのをみても、いかに憤激して殺したかが窺えるのである。
【勝頼夫人の願文 穴山の裏切り】史跡を尋ねて『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 天正十一年二月三日には織田・徳川の両軍は、北条軍まで含めた二十五万の連合軍をつくり、甲斐の国を攻略する行動を開始したという情報が流れてきた。
 新府城で戦況を案じながら毎日を過ごしていた勝頼公の夫人は、実の兄である北条氏政までが敵の連合軍に加わり、上州(群馬)口から進撃していることを聞いて沈痛の気持ちを押えようもなく、何かに頼らなければ一時も過ごせない気持ちで一ぱいであった。
そこで二月十九日の辰(たつ)の刻(午前八時)ころ、勝頼夫人は、武田家に輿入れするとき相模の小田原城から付け人として付き添ってきた、剣持但馬守を呼んで、「但馬、城内からも遥かに見える武田家の守護神、武田八幡宮へ祈願に行くから、供をするように」と命じた。これを聞いた但馬守は、「戦況不利が伝えられている折に夫人が城外に出られることは御身の上を案じられます。が、しかしこれによって武田の武運が開けるのならぜひないことと存じます」と言って直ちに祈願の準備にかかった。
 夫人は人目に付かぬようにお忍びで城を出た。但馬守たちは夫人が乗っている輿の周りを厳重に警戒しながらお供をして行った。武田八幡宮は、武田武大神(武田王)を祀る武田家始祖以来の産土神で、新府城からおよそ二キロのところにある。
 この宮は、平安時代に宇佐八幡宮をここに移したもので、新羅三郎義光の孫黒源太清光の嫡男の源信義がこれを祀り、武田家累代の守護神と定めた。したがって信玄は天文十年(一五四一)に本殿を再建して神域を整え、ますます信仰を深めていた。夫人は数多い種類の常緑木で覆われている社前に輿を下ろして神域に入った。
 独りで鳥居をくぐり、神楽殿・拝殿・本殿まで続く一五五段もある急傾斜で長い石段を誰の手も借りることなく一気に登り詰めて本殿の中に進んだ。神前に額いた夫人は、しばらくの間深々と頭を下げて拝礼してから、悲願を込めてしたためた願文を、奉書袋から取り出して紳々とはしているが、透きとおるような声で読み進めた。
 
    「願文」
敬って申す祈願のこと。
 この国の木主として、武田太郎と号せしよりこの方代々護り給う。ここに不慮の逆臣出できたって国家を悩ます。よって勝頼、運を天にまかせ、命を軽んじて敵陣に向う。しかりといえども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。何ぞ木曽義昌神慮を空しうして哀れ父母をすて奇兵を起こす。これ自ら母を害するなり。勝頼累代の重恩をうけし輩(ともがら)逆臣と心を合わせて国をくつがえさんとす。万民の悩乱、仏法の妨げならずや。そもそも勝頼いかでか悪心あらん。我れも、ここにして相共に悲しむ、涙またとめどなし。神慮天明まことあらば、罪悪人のたぐい、かりそめにも加護あらじ。神慮まことあらば運命このときに至るも、願わくば伶(れい)人力を合わせて勝つことを勝頼一指につけしめ給い、仇を四方に退けん。
右の大願成就ならば、勝頼我れとともに社殿磨きたて廻廊建立のこと、敬って申す。
  天正十年二月十九日                   源勝煩うち
 
願文は、切々として胸を抉(えぐ)り、夫人は奏上を終えるまでに、幾度か絶句して神床にひれ伏した。
 今に通るその願文はやるせ無い心情がひしひしと寵っており、筆を運ぶ折に落とした涙で幾個所か字が惨(にじ)んでいるのを見るにつけても、夫人がいかに甲斐の国を思い武田家の運命を案じたか察するに余りあるものを覚えるのである。
 祈願をして城に帰った夫人は、少しは心が落ちついたけれども、諏訪城に行っている勝頼公の安否が気遣われてならず、いっそ夫の元に馳せ参じて、せめて身の周りのお世話をしてあげようかとも考えてみたが、この際それは許されないことだろうと思って、口にも出せず毎日ひたすら法華経を念じて夫の武運を祈るばかりであった。
 そのうちに頼みとしていた信濃の城は次々に落ちてしまい、掛け替えない血族の者や日ごろの忠臣といわれている者までも離反していく悲報が続いた。勝頼公は諏訪城にいて戦況が慌しいながらも機を窺(うかが)って塩尻峠に布陣し、武田の運命を賭けようと計画を練っていたが、命の綱とも思って甲斐の国の留守を頼んでおいた叔父の穴山信君(梅雪)が、二月二十五日に古府中の館を出て駿河(静岡)へ逃げてしまったことを二月二十七日になって飛脚が伝えてきたことから、これを聞いた勝頼公ほもう施すすべもなく翌二十八日に諏訪城を発って急ぎ新府城に帰ってきた。思わぬ結果に城内は落ち付かず慌しい雰囲気に包まれていた。
【新府城】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 天正十年三月三日の辰(たつ)の刻(午前八時)頃であった。七里ケ岩の屋上から煙が立つのが見えた。不思議に思ってそれをよく見ていると、朝霧に覆われていてさだかではないが、昨年の暮にできたばかりの新府城の東曲輪あたりが燃えているようにも見える。まさか、と思いながら感じたことは、昨年の今頃は穀物の種を蒔くため焼畑をしてそのため丘や山の傾斜を火事と間違えるくらいに焼いたし、今年も七里ケ岩以外のところでは毎日のように枯野を焼く煙が1っている。けれども七里ケ岩の上は昨年の春から、築城のため焼畑をすることを禁じられたばかりでなく、新しくできた新府城には、故のない者は絶対に近寄ることさえ禁じられている。それに特に最近は取り締りが厳しいので、城内が燃えるなどとはどうしても思えなかった。
 この新府城は昨年の七月、天から降ってわいたように「七里ケ岩の上に築城する」という布令が出されたので、しばらくは真疑のほどがつかめなかったが、そのうちに十軒のうちから一軒は築城の労役に出役するように達しがあり、出役する者の留守家族の生活は、残っている九軒が負担することに決められたので、村の人たちにはようやく築城の事実がわかった。築城のため集まった者は、織田・徳川の連合軍との戦局がいよいよ迫ってくる噂(うわさ)を耳にして、甲斐の国はこの城に拠って守り、自分たちの生命と財産がこの城によって守られるのだと切々とした願を込めて、日に夜を継いでの血の惨むような労役に服した。そしてわずか六カ月の短い間に、麓から二五〇段の石段を造って山頂に達し、老松が茂るその山頂を削って南北六百㍍、東西五百五十㍍の平地を造り、その中へ中央に本丸、西側に二の丸などを配し、北から東にかけては天然の池を利用して濠を造り、長
い腰曲輪を巻いたりして、本丸の南には望楼付きの東丸と西丸の曲輪が造られ、この下に三日月城の天然の池を内堀として、天険を巧みに利用した宏大な城を造り上げた。年の暮近くなっても壁は濡れていてまだ乾かないし、板敷も荒削りの部分が多く、手を入れる個所がたくさんあったけれども、敵襲があるという噂が日ごとに高まってきたので、武田家一族は十二月二十四日に信虎・信玄・勝頼と三代にわたって住み馴れたつつじが崎の館を引き払って急いでこの城に移って来たのである。
 毎日一万人が労役に服して造ったと言われる新府城であるから、戦局にどのような変化があろうとも木の香も芳ばしいこの城が、まさか六十余日の薄命で終わるとは誰も夢にも思ってみなかったのであるが、事実年が明けて急に戦局が変わると勝頼は自らの手で城に火をかけて新府を落ちていった。不安な気持ちで火の手を見ている附近の人々の耳には次々と疾風のように城の中の模様が伝えられてきた。
 城の中の火は人質が押し込められている東曲輪から上ったという、その東曲輪に火が放たれる前に、中に押し込められていた千人余りの人質は、調べ分けられて、人質のうち武田家に忠誠を誓う証として預けられていた約百人の者は、曲輪の外に出された。かって、武田家に叛く行動をとったため人質になっていた九百人余は、曲輪の中に押し込めたまま火をつけられたので、曲輪の中はたちまち炎に包まれて、泣き喚(わめ)く悲鳴はさながら地獄絵図の様相を呈しながらことごとく焼き尽くされてしまった。猛火は見る見るうちに全山に燃え広がっていったのである。
 私は、この物語りを思いながら、城内に寵っていた武田家一族や、家来たちはどうなったことだろうと、気懸りになったが、それよりも先に、なぜ新装してまだ日の浅いこの城に自ら火をつけて燃やさなければならなかったか、という事情を不安のうちにも追い求めていったのである。
 
【木曾義昌の謀反】史跡を尋ねて『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 
 武田家一族が、新府城に移ってきてまだ日の浅い天正十年正月六日のことであった。城内では正月行事の余韻が醒めぬ巳(み)の刻(午前十時)ごろ、信州往還を駆け抜けてきた早馬一騎が城に到着した。
 馬から降りた使者が差し出した書状には、勝頼公側近の武将である阿部加賀守の宛名が書いてあった。差し出し人は木曽義昌のところに出向していた武田の武将茅村備前守と、山村新五左衛門の連名になっていた。 加賀守は戦局の要(かなめ)としてその健在を願っている木曽義昌の元からの書状なので、その書状をひったくるようにして受け取り、息をもつがず一気に読み終えた。そしてひとこと
「木曽殿が謀反(むはん)」
と、言ったきり、顔面蒼(そう)白となり頭を高く上げてしばらく無言のまま虚空を睨(にら)んでいた。木曽義昌の妻は勝頼公の妹君である。父信玄公の第三女でもある。だから義昌は勝頼公の義弟なのだ。そればかりではない。義昌の母(七十歳)とその妹(十七歳)それに嫡子、千太郎(十三歳)が今新府の城の中に人質となって囲われている。いくら戦国の世の中とは言いながら、このように深い鮮(きずな)で結ばれている義昌が謀反を起こすとは、どうしても考えられなかった。
 しばらくして加賀守はこのことが城内に知れることを恐れたので、そっと勝頼公に告げた。これを聞いた勝頼公も信じなかった。後刻このことを武田信豊や、跡部大炊、長坂長閑などの腹心の武将たちには知らせたが誰も信じようとはしなかった。それどころか勝頼公や側近の武将たちは
「どう考えてみても、木曽殿が謀反を起こすとは思えない。それよりも書状の差し出し人である茅村と山村が、何かのたくらみをして早馬を立てたものに相違ない。いずれ真相がわかるだろう」
と、言って、少しも信ずる気配はなく、飛脚はそのまま城内に囲ってしまい、差し出し人に返答する気さえなかった。
 城内は住居を直したり、正月行事などがあったので、一月の月はたちまち過ぎていった。やがて正月も終わろうとするころになって、やっと正月早々使者が早馬で届けてくれた義昌の謀反が事実であることを知った。木曽義昌は妻を裏切り人質になっている母や妹や自分の子を失っても、生き抜く道は武田へ背を向けること以外にないと考えるようになっていたのである。
 なぜなら、木曽の国は、甲斐の地からは遠いところにあり、反対に織田信長のいる尾張(愛知)や美濃(岐阜)とは隣接している。織田軍は今甲斐の武田を討伐するため大がかりの準備を進めているから、進撃を開始すれば木曽城は一番早く攻め込まれる場所にある。この時になって勝煩公に援軍を頼んでも距離的にも無理であるし、甲斐への進攻は間近に迫っていると言われているので、この際総てのものを犠牲にしても生き抜かなければならないと決意したのである。
 この時勝頼公は武田信豊を呼んで、旗本衆の神保治部が付き添っている精鉄部隊を率いて木曽義昌を討伐することを命じた。命を受けた信豊は直ちに所定の準備を急ぎ木曽に向かって軍を進めて行ったが、途中鳥居峠で木曽軍と会い幾度か激戦を繰り返したけれども勝機がなく、ついに全滅の危機に瀕(ひん)してしまった。
 このころ勝頼公も二万の軍を率いて信濃の諏訪へ出陣していたが、刻々と伝えてくる戦況はわが方に不利のことばかりで、焦燥の毎日を過ごしていた。

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