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史跡を尋ねて【中央線の開通、そして韮崎新府城へ】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
私は、そのころ武田氏が滅亡への、悲しい門出になった新府城を出て、田野のくず原で自刃するまでの足跡を尋ねて、勝頼公一族の菩提を弔うことを念願としていたので、そのころ工事中だった国鉄中央線が甲府まで開通するのを一日千秋の思いで待っていた。しかし、中央線笹子トンネルの工事に長い年月と費用が要ったことを後になって知ったとき、歳月がかかるのも無理からぬことだと思った。
笹子トンネルは明治二十九年十月に着工して、総工費百九十万六千百三十二円四十五銭二厘を資して、全長四千六百五十六㍍を掘ったのであるが、当時としてはその規模が東洋一長いトンネルと言われていただけに、工事中は数多くの困難と犠牲があった。
関係者はこれを乗り越えて、科学の粋をあつめて工事を進めたが、起工以来実に七カ年の歳月を費して、明治三十六年二月一日には初鹿野まで、四月八日に勝沼まで、六月十一日には塩山から甲府まで全線が開通したのである。新しく敷かれた鉄道線路の上を、蒸汽気閑車が走ってくると言うので、家々では門ごとに国旗を立て朝から花火を揚げたり、駅前の広場は黒山の人だかりで、汽車が笹子トソネルから出てくるのを今か今かと、固唾(かたず)をのんで待っていた。
そのうちに一番列車が駅に着いたが、その巨大な鉄塊に驚異の目を見張り、手に、手に日の丸の旗を打ち振り、万才、万才と叫びながらその動向を見守っていた。
見物人の中には紋付羽織に袴を着け、中には塩と洗米を持ってきては駅頭にまいて、これから乗車する人の身の安泰を祈願した人もあった。
汽車の運行時間は、上り下りとも四時間ごとに一本で、単線だったから乗り遅れると次の汽車がくるまでに半日近く待たなければならなかった。だから、時には汽車に乗ろうとする人が手を上げて駅を目がけて走って来るのを車掌が見ると、その人が乗るまで発車しないで待ってくれたものである。
【鉄道開通】
鉄道が開通して幾日か経ってから、私は、夢にまで見て念癖していた武田の史跡を訪ねようと初鹿野駅を朝一番の汽車に乗った。客車は横にいくつも扉があって、そこから乗り降りするので、車内を歩くことはできなかったが、車窓から見る外の景色が走馬灯のように後へ後へと置き去られていくのを見ていると、そのすばらしい速さに目が回るようであった。
甲府駅まで約一時間かかったが、車窓から外の風景に見とれていたので、下車するとき心残りがしてならなかった。
【韮崎駅】
甲府から先は勝頼公一族が通ったと言われている道を、往時を偲びながら歩いて行った。その道程は十六キロ以上もあったのでかなりの時間をかけてやっとの思いで韮崎の町に入り、かねて同じように武田史跡を探るため私の村に来たことのある金森さん宅を訪問した。前もってお願いしておいたので、武田氏の発祥の地であり、また武田氏滅亡の出発点ともなったこの地の武田史跡を案内してくれることを快諾してくれた。金森さんは、自家製の渋茶を入れてくれながら「伝説や口説は歴史より奇なり。と言われていますが、この土地の者は武田の歴史については幾百年の間語り継がれてきた言い伝えを信じて、それを毎日の生活の中に生かして後の世に伝え遺そうと願っているのです」と言って、私がいつも先祖からの言い伝えや、歴史の資料で調べたと同じようなことを話してくれた。私は、それから武田氏が新府城を発って終焉するまでの足跡の伝承を元にして、韮崎周辺を 訪ね歩いてみた。歩きながら当時の人に成り切ってつぎのような物語を胸に画いていた。
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武田勝頼資料室
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【勝頼公の菩提寺、景徳院の再建】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
景徳院は焼失したという事情から、その後無住のまま過ぎていたが、明治三十年四月、本山の命により、大貫隆道師が住職となって入山することになった。そして師が入山するとすぐ武田氏一族の菩提の地としてふさわしくない惨状を見るに忍びず、檀家の人たちとともに寺を再建することを時の内務大臣に申請した。さいわいすぐに寄附金募集の許可を受けたので、次のような事情を記した寄附帳を持って、檀信徒をはじめ特志家や村内の家々に懇請して回った。
【寄附金募集の事由】
当院は、天正十年三月十一日、武田勝頼公が織田信長と戦い討死の場所であって、徳川家康公より旧領七十五石余を賜り、当山を創建して、法式焼香を厳かにしていた七堂伽藍が完備していたが、弘化年間に火災に遭い、その後の法要の執行に差し支えのないように、建物を再建したけれども、王政復古となったので、徳川公の御朱印は取り上げとなり、わずかの寺の財産と焼香料で寺の経営をしていたところ不幸にも、またまた明治二十七年二月に本村の大半が焼失した際、本堂・庫裡・御霊堂・惣門・宝庫・観音堂等が類焼して、現在は山門を残すのみで、国中で著明であった名蹟も後形もなくなり、茫(ぼう)然として、その惨状は言葉では言い尽せないのである。
私は明治三十年四月に当院の住職に任命されたが、入山以来、県下の有士等聖士が墓参に来られた際に、勝頼公の旧蹟もこのように気の毒な有様かと、慨嘆され早く再建されるようにと、異口同音に促された。私は、その時々に励ましてくれた忠言を肝に銘じ髄に徹して、片時も忘れられず、その準備を進めていたのであるが、明治三十一年内務省令第六号、及び明治三十三年内務省令第十号によって、景徳院を再建するための寄附金募集願を本年三月十五日付で、許可されたのである。
よって、江湖の仁徳高い人や、世の聖賢君子に懇請して、応分のご寄附を仰いで堂宇を再建して、菩提を海外に輝かし、主恩を永く世に酬い、旧蹟を遠く千里に著わし、将来の維持保存を完全に致したきに付、財政多端の折柄甚だご迷惑のことと存じますが、何分の浄財を喜捨せられたく、乞い願わくば、この望みを遂げさせたまわんことを、切望して止みません。
明治三十四年四月十三日
天童山景徳院住職 大 貫 隆 道
檀徒総代と住職は、この寄附帳を持って地区割をし、募金の懇請をして歩いた。旅費は一切自弁として村内を一回りした後村外を回ったが、乗りものがないので訪問して回るのに意外の日数がかかった。それに月日が経つにつれて、国内では日常の暮しを引き締めるようにとの布令が出された。私は、日本の国に近く何か大きなできごとがあるかも知れない、と感じながら募金に回った。布令があったせいもあって募金に応じてくれる人でも多額の寄附は遠慮するようになった。
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【結婚式 近隣の火事 勝頼公菩提寺景徳院類焼】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
私たち夫婦は、(千やんとお万さん)の仲人として、古式に則(のっと)り、三三九度の杯を新郎新婦に交わさせ、夫婦の契りを結ばさせて続いて親兄弟や親族の契りの杯も滞りなく済ませた。式が終わった後、祝宴をするので、同座の人の前に黒塗りの猫脚膳(ぜん)が配られた。膳の上には心尽しの手料理が幾品も皿に盛られて乗せてあった。皆んなの杯にご神酒が注がれたので、仲人として、新郎新婦が幾久しく変わらぬ契りを保つように、また両家の栄えることを祈念して乾杯の音頭をとり、めでたい口上を述べてから、杯を高く上げてうやうやしくご神酒をロに注いだ。と、そのときである。昼とはいっても、家の外は寒いので、障子を閉めきってあるから、さだかには聞きとれなかったが、戸外が急に騒がしくなったのに気付いた。
「何か変わったことでも起きたのかな」
と、思って急いで障子を開けて西の方を見た。すると部落の下の方に、白黒の煙が上っていてそれが上の方へ吹き上ってくるのが見える。私はとっさに「火事だ」と感付いた。 7
【火事】
誰かが、「火事だぞ」「部落の下の方が火事だぞ」と言っている。「火事はどこだ」「兵衛門の家が燃えている」「東の方へ燃えてくる」と、次々に叫び声が聞こえてきた。
結婚披露宴が始まった千やんの家の中も、たちまち混乱しだした。私は、一昨年の冬の夜見たように、これも幻の火事であってくれればよいと心に念じた。しかし今度は間違いなく本当の火事だ。それも、あのとき幻に見た兵衛門の家から火の手が上っている。
私は、咄嗟(とっさ)に、花婿花嫁の身の安全を考え、本人を促がして家の外に出て物置にあった筵(むしろ)を一枚持ってきて、燃えてくる筋から離れながら南の方へ花嫁の手を引っ張りながら走って行って、家並から外れた福やんの家の外縁に持って釆た蓮を敷いて花嫁を座らせた。花嫁に「ここを動くじやあないよ」と言い残して、とって返し千やんの家に入ろうと思いながらひよっと、自分の家の方を見た。するともう私の家の母屋の萱(かや)屋根にも幾箇所か火と煙が立っているのが見えた。私は、千やんの家の外から、大きな声で 「後を頼むぞ!」と言いながら自分の家へ飛ぶようにして帰った。私の家には折よく
旧正月だったので、親戚の者が三人、年始に来ていたので、家の者と一しょになって、新しく造った土蔵へ家の中のものを入れてくれていたところだった。家は西から吹いてくる風道になっていて、その日は西風が強かったので、火足が速くあれもこれも、まだまだ蔵に入れたい物が残っているのに、もう二階の梁(はり)が焼け落ちる音を聞いてしまった。
これ以上家の中にいるのは危険だ、と思ったので、土蔵の観音開きを閉めて裏口から外へ飛び出した。見ると家の裏の土手に茂っている竹薮(たけやぶ)も、両沢向かいにある景徳院の土手の竹薮も、パンパンパンと大きな音を立てて竹が割れながらものすごい勢いで燃え上っていた。
【勝頼公菩提寺景徳院類焼】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
【近隣の火事により、景徳院類焼・再建】
無意識のうちに両沢川まで飛び降りた。私は折良く、川端に干してあった綿入れの半纏(はんてん)を川の水に浸してそれを被(かぶ)り、燃えている竹薮の中を潜りながら景徳院の庭に飛びこんで行った。行って見ると寺の建物も、そこここに火が移っていたので、とっさに庫裡(くり)の縁の下にあった五間梯子を二丁ずつ持って行って、山門の四方へ掛けてから、御霊堂をお護りしなければと思いながら、そちらへ走って行った。猛火は建物のすぐそばまで燃えてきていたが何とか防がなければと思った。
折よく寺の小僧がこちらへ走って来たので「御霊堂の二階の窓が開いているから早く閉めろ−」と言い付けて、私は勝頼公と夫人と信勝公のご影像を順に奉持して近くの畑に運んだ。続いて、忠臣たちの位牌や、鎧(よろい)兜(かぶと)をはじめ、武具などを手当たり次第に畑に運んだ。
この時やっと二、三人の村の人が駆けつけて来たので、いっしょに運び出してくれていたが、寺の小僧が閉めたものと思っていた二階の窓がまだ開いていて、そこから猛火が吹き込んだので、たちまち建物の中は火と煙が渦(うず)を巻いてしまっていた。もう危険と思ったので、残念だったがこれ以上運び出すのを思い止めた。間もなく続々と応援にきてくれた人たちがあったが、もうそのころは施す術もなく、「あれよ、あれよ」と言う間に、本堂をはじめ、庫裡(くり)・御霊堂・惣門・宝庫・観音堂・鐘楼等が、次々に焼け落ちてしまい、御霊堂の裏にある勝頼公一族と殉難(じゅんなん)将士を祀る石碑も、吹き付ける猛火に包まれていた。
本堂から少し離れた山門にも、あちこち飛火がしていたが、風道から外れていたのと、五間梯子が掛けてあったので、応援に来た人たちが消してくれたから、危く難を免れることができた。この火事で寺の建物をはじめ、民家二十二戸は萱葺(かやぶき)の屋根が多かったので、火の回りが早く、わずか三時間くらいでことごとく灰になってしまった。
火事は部落続きの山にも延焼して、手の施しょうもなかったが、その山火事も、峯まで焼け上って、ようやく消すことができた。
私は、寺の焼跡のくすぶり続けている始末を、他村から応援に来てくれた人々に頼んで、やっとの思いで自分の家の焼跡に走り帰った。家の焼跡には親類や村の人々が大勢いて、焼跡は大方片付けてくれてしまっていた。もう陽が落ちてしまっていてあたりは急に寒くなったので、まだくすぶっている焼け残りを、屋敷の真ん中に集めて燃し、その火を皆んなで囲んで、焚き出しで配られた握り飯を食べながら、悪夢のような火事の跡始末について相談した。
焼け出された家の人たちは大方着のみ着のままで、焼けなかった家や親戚の家にひとまず身を寄せることになった。
私の家では、土蔵の観音開きを開けて、中の熱気を冷まし、幸い畳も土蔵に入れてあったので、土蔵から出した品物の囲いにしたりして、場所が作れたので家の者は土蔵の中で寝ることにした。その翌日から、焼け出された家々では焼跡の片付けをしたり、再建築の計画をしたりして誰彼なしに寒空に身を晒(さら)しながら、大へんな苦労を重ねた。さいわい他方面からの援助があったので、春になってからはあちこちから槌音高く上棟式が行われるようになって村は活気付いてきた。
私の家では母屋を建てるのにその年いっぱいかかった。土蔵は荒壁のまま火事で其壁になってしまったので、化粧塗りもできないで過ごしてしまった。
【火事、その後】
景徳院では取りあえず雨露をしのぐだけの仮屋を建てて、難をのがれた寺宝を保存した。そして三年の月日は夢のように過ぎてしまった。私も家を再建して、一息つくようになったころ、ふと、火事によるできごとを思い返してみた。次々と思い出しているうちに、勝頼公は生きているとかねてより口にしていたことがいよいよ本当に思えるような気がしてきた。
一、過ぐる年の夏の夜、庭に落ちた火の玉は勝頼公が、火の災を予告したのだ。
一、また過ぐる年の冬の夜、火元に見えた幻の火事は、勝頼公が知らせてくれたのだ。
一、今度の火事のとき、勝頼公一族と、忠臣などのご影像や、位牌やその他の寺宝を私に救わしてくれたのだ。
一、この火事以来、毎年悩んだ持病が治ったのは勝頼公のお加護なのだ。
と、このような思いを追っていって、私は改めて悟った。
「勝頼公は生きている。だから私にこの災厄を事前に知らせてくれたのだ。そして私の奉仕に対して持病の胃病を治してくれ、しかも私に後々の菩提(ばだい)を弔うことを託してくれたのだ」
と、繰り返し追想した。以来私はそれを信じてこれからの人生を勝頼公一族の菩提を弔うために仕えて、ともすれば忘れ去られていく、勝頼公一族が武運拙なくこの地で終鳶を迎えた悲劇の心情を世に残そうと決意した。
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【勝頼公菩提寺の法事】『武田勝頼公は生きている』より 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
春には遅い山里ではあるが、勝頼公のご命日ごろになるとそれでも草木が芽吹きはじめ、武田氏最後の合戦があった三日血川のお姫淵辺りにはもう猫柳が膨らんできた。早咲きの山吹の花も木の間隠れに可憐な黄色い姿を覗(のぞ)かせていた。
景徳院はさすがに甲斐の国主の菩提寺に相応(ふさわ)しく、弘化二年に火災に遭ったがすぐ再建されて、七堂伽藍が整い、本堂裏の築山の泉他には、両沢川から引いている雪解水が、コトコト流れ落ちて、岸辺に萌(も)える芹(せり)はもう青く伸びていた。
勝頼公の年忌法要はご命日に当たる旧暦の三月十一日に行われた。
この日には、武田の忠臣で最後まで勝頼公に仕えた土屋惣蔵昌恒の後裔(こうえい)や、武田氏に縁の深い郷内外の関係者も参列して、懇ろに法要が営まれた。
私も、檀徒総代としてこの法要に参列して御霊を弔ったが、合掌して礼拝すると、勝頼公のご影像が、慈顔の面影の中で何か訴えているように拝されてならなかった。
この冬前述のような幻の火事があったから、気を回したこともあったが、しかし予感が当たって、「もしこの伽藍が火事になって焼け落ちてしまったらどうすればよいだろうか」としきりに不安が高まってならなかった。
【土蔵造り】
勝頼公の年忌法要が済んだころから咲きはじめる境内の桜は、毎年村ぐるみで花見宴を催してきたが、今年は何かの都合で中止となったまま過ぎてしまった。日陰の場所にまだ鹿の子雪があるころ、親戚(しんせき)筋に当たる仙(そま)の米やん(さん)に頼んで、家から近い懸沢(かけざわ)の日向山から粟の木を伐(き)って土蔵を建てる準備をはじめた。幾日か経って日蔭山に雪が無くなるころになったとき、土蔵の材料は九分通りそろえ終えることができた。間もなく夏がやってきた。この年の夏は前の年と違って、降る日が多かったので、土蔵を建てる大工の仕事が思うように捗(はかど)らなかったが、伐ったばかり
の材料で生の木が多いから狂いがでる心配があって、できるだけ枯らした方がよいということで土蔵の完成はあまり急がなかったが、それでも、秋口になったころには間口三間、奥行三間という二階造りの土蔵の上棟式を挙げることができた。その後一番問題となった壁土を家に近い懸沢から運んだので思ったより捗ったのである。
それに壁土練りはずいぶん労力の要る仕事だが、子分の千やん(山梨県の親分子分制度)が毎日のように手伝ってくれて、左官のお挺子(てこ)にもなってくれた。
当時の千やんは二十八歳にもなっていたがまだ独身で、陰日向なく働く仕事振りを見ていて、心から良いお嫁さんを世話してやろうと思っていたことだった。四、五年前勝沼の大善寺の祭りのとき、出店から買って来て植えておいた庭の甘柿の枝にはじめて十個ばかりの実が成り、それが美しい柿色に色付いて秋陽にキラキラ輝いている暖かい日だった。
荒壁の上塗りがあと少しになったので、ある日、左官の富さんと子分の千やんとそれに親戚筋のお万さんが、お茶入れに手伝ってくれて柿もぎをすることにした。
珍しくよく晴れて暖かな日なので午後のお茶は庭に筵(むしろ)を敷いてその上でお万さんが持(こし)らえたお中(なか)入れの焼餅を食べたり、もぎ取った甘柿の試食もした。
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武田勝頼公は生きている【幻の火事】著者 平山三郎氏 経歴
明治44年6月24日東八代郡田野村(現在東山梨郡大和村田野)に生まれる。
職歴、大和村収入役・大和村公民館長・文化財審議委員・裁判所調停委員等
年の暮のうち少し降った雪が、春までの根雪となってしまうように、木枯らしが雪の上を滑るように吹き晒(さら)していた。その夜がふけると風も静まり、村の家々ではランプの明りを消して、早々に寝てしまったころであった。表の方で誰かが、
「兵衛門の家が火事だぞ!」と大声で叫んでいるのが聞こえてきた。
兵衛門の家は住家が多い部落の下の方だから、その家が火事になると、私の家の方へ間違いなく燃え上って来るものと思われたので、私はすぐ、上二階へ駆け上って南の窓から南西の方向を見た。すると、確かに兵衛門の家のある辺りに赤々と火の手が上がっているのが見えた。
「火事だぞ!!」と言って最初に叫んだのは、南の次郎兵衛さんの家らしかった。この家は火元の家からは大部離れてはいるが、火元の家がよく見える位置にあるから発見が早かったと思った。
私は、夢中で近所の家を呼び起こした。どこの家でも水瓶にためてある水を手桶に汲んで、それを下げて、凍て付いている暗い道を手探りで兵衛門の家の庭にかけ付けた。けれども先ほど、家の方で見えた火事はどこにも見えないばかりでなく、当の兵衛門の家は大戸を閉めて静まり返っていた。
そこに、集まった者は口々に
「おかしなことがあるもんだ」
と、つぶやきながら皆で代わる代わる、兵衛門の家の大戸を叩いて、
「お前さんの家が火事だよ1」
と、呼んでみた。しばらくして兵衛門は眠そうな目をこすりながら大戸を開けた。
上部落の人たちが手に手に手桶に水を入れて持っているのを見ると、兵衛門は怪訝(けげん)な顔をして
「何があったで……」
と、まるで他人ごとのように言った。
皆が、異口同音に
「上部落で見ているとあんたの家が火事に見えたから駆け付けたのだよ」
と、むしろ不服そうに声をそろえて言うのに対して兵衛門は
「縁起でもねえことを言っちゃあ(方言、いってもらっては)困るよ、俺の家のどこが火事だえ(方言、なのか)、見たとおりなんにもありやしないらに(方言、なにもない)、大方獣にでも化かされたずらに、いい加減にしろし(方言、してください)」
(方言、なにもないでしょう)と、言って、カンカンに怒った。
手桶を持って集まった人たちは確かに兵衛門のいう通りだから、コソコソと手桶の水をこばしながら、その場を去ったがそれでも信じられない態で、それぞれに自分の家へ引き揚げた。この夜先頭になって駆けて行った私は、床に入ってから考えてみた。
昨年の夏の夜、庭に火の玉が落ちたのをこの目で確かに見た。今夜の幻の火事も大勢の目に見えた。そしてその都度言われるのは、狐か狸の仕業であらうとか、獣のいたずらだということだが、しかしそれにしてもなぜ火の災いばかり見せるのだろうか。
今夜の火事を最初に見付けたのは次郎兵衛さんである。この人の祖先は勝頼公一族が田野で自害したとき、村の名主だったそうである。ひょっとするとあの家には勝頼公一族の魂が託されているのかも知れない。
次郎兵衛さんの家では、武田家滅亡の当時武田氏の守護本尊である武田不動尊像を預かっていたそうだし、それに武田氏が終蔦(しゅうえん)のとき遺した軍用金が今もあの家にはあると言っている。
次郎兵衛さんの家では、明治になってからでも毎年夏になると、甲州小判の土用干をしたそうである。事実それを見た近所の人たちは誰彼なしに、
「小判の土用干のときは、庭に荒筵(あらむしろ)十三枚を敷いて、それに小判を丹念に並べて干した」
と、いっている。
「夏の太陽の光をうけて、庭一ぱいに干してある小判が、キラキラッと輝いているのを見ると、日も眩(くら)むようだった」 と、今でもお茶飲み話になっているから確かなことだと思う。そんなにたくさんあった小判は今どこにあるのだろうか。あの家の土蔵の床を掘って埋めてあるとも言うし、裏庭の隅(すみ)にいけてその上に梅の木を植えた、とも言っている。私は、床の中で、そんなことを考えていると、思い半ばで
「この幻の火は、勝頼公が、われわれに火の災厄があることを知らせてくれたのだ」と密(ひそ)かに思った。
そして、
「この知らせを無駄にしてはならない」
と、自分に言い聞かせて、
「ようし、きっとこの知らせに応(こた)えよう」
と、堅く決心した。
私は決心が付くと、急に心がサバサバして、その晩はぐっすり眠ることができた。こんなことがあってから、自分の家が部落では一番上の方にあって風道になっているので、万一火事があっても穀物や家財道具を安全に保護することを考え、その年の中に土蔵を建てることを決意した。
決意はすぐに実行に移した。まず土蔵を建てる位置や土蔵の図面を作り、春になるのを待った。
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