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武田家のその後【信玄の直系で生き残ったのは二男龍芳(全盲)の嫡男信道】
『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)
信玄の直系で生き残ったのは二男龍芳(全盲)の嫡男信道、出家して顕了道快と信玄の甥にあたる川窪信俊、外孫で敵味方に分かれてしまった相模の北条民政と信玄の長女黄梅院の間に生まれた長男氏直、2男氏一房らがいるが、天正18年(1590)四月、豊臣秀吉の小田原攻めで後北条一族は滅亡した。
信玄の血縁で現代まで生き永らえたのは竜芳の直系だけで第一五代武田昌信氏(東京在住)がその子孫である。竜芳の子孫がたどった運命も波乱に満ちていた。生まれながらの盲人であった竜芳は、髪をたくわえず、躑躅ケ崎の館北の聖道小路に家を建ててもらい、半僧半俗の暮らしをしでいた。本名は信親、僧名を竜芳と呼び、地名をとって「お聖道さま」とも呼ばれていた。信玄在世の永禄のころ、信州の名門・海野家を継ぎ、海野次郎と名乗った。天正10年3月11日、武田勝頼父子の自匁を知り、甲府の南はずれの入明寺(住吉本町)で自害した。42歳だった。
当時、九歳(天正二年生)だった遺児信通は、甲府長延寺の実了師慶住持の養子になり、祖母三条夫人の義弟本願寺顕如法主から〝顕″の一字を賜わり、出家して顕了道快の僧名で一時、信州に身を匿したが、信長が死に、実了和尚の病死後、甲斐に入国した家康に呼び戻されて、長延寺の二世住持となった。慶長8年(1603)三月、甲府城築城のため長延寺は、いまの甲府市相生三丁目の替地に移して堂宇を落慶し、顕了は浄土真宗東本願寺派甲府別院に永住した。
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武田勝頼資料室
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武田家のその後【梅雪の嫡男勝千代を武田の後継者】『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)
甲斐・河内領主の穴山梅雪の母、南松院は信玄の姉、正室は信玄の娘。梅雪の嫡男勝千代を武田の後継者として家康、信長に降り、武田の再興を謀ったが天正10年6月2日、京都府下の田辺町で野盗に襲われて客死。勝千代も16歳で夭析した。
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武田家のその後『太陽』「武田信玄」より(一部加筆)
天正10年(1582)3月11日、甲斐国山梨都田野村(東山梨郡大和村田野)の山中での、武田勝頼・信勝父子の自匁で甲斐武田氏は滅亡した。
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高知県の歴史 山内一豊と封建制度
関ケ原の戦によって、山内一豊が土佐の国主になったのは慶長五(一六〇〇)十一月であった。尾州黒田に生れ、豊臣に仕えて遠州掛川六万石の城主となったが、明敏な一豊は徳川家康の将来を期待して巧みに進退を決し、見事土佐二十四万石の地に一国一城の主となったのである。
土佐入国後、一豊は長宗我部氏の居城浦戸を捨てて大高坂に城を築き、国択一帯の地に土工を起して水害を除き城下町をつくった。潮江・江口両川にはさまれたデルタで、地形によって河中と呼んだが、間もなく竹林寺の僧空鏡の勧めを容れて、文字を高智と改めた。すなわち現在の高知市の中核部である。これによって新国主としての威容をととのえ、長宗我部氏の遺臣に対しては弾圧と懐柔の両政策を併用し、庶民の安堵につとめた。慶長十年(一六〇五)九月二十日六十一歳で没し、実弟康豊の子忠義がその家督をついだ。
康豊は慶長六年六月幡多郡中村に二万石を分封せられ、一豊歿後は忠義の後見となって政務にあずかったが、元和三年(一六一七)隠居、寛永二年(一六二五)八月二十九日病歿、二代良豊は同六年四月八日に病死 して嗣なく断絶した。これが前の中村山内氏である。
明暦二年(一六五六)七月忠義の第二子息直が改めて幡多郡で三万石を領し豊定・豊明と相継いだが、元禄二年(一六八九)五月故あって幕府に領知を没収された。これを後の中村山内氏と呼び、領知三万石は同九年十二月になって高知の山内家へ還付された。以来幡 多郡奉行を常置して特別行政区としたが、これは右の如き歴史的由来のはかに、遠く高知を隔てて広域を占める地理的事情にもよったのである。
二代忠義は一豊 におとらぬ人物であった。気宇豪壮、しかも周到な経世の材幹をもち、腎臣野中兼山を用いて存分にその経
倫を行わしめ、山林の経営、新田の開発、海港の修築等に殖産の道をひらき、郷士の登用によって軍備をおぎない、また神社仏閣を修補して人心をおさめるなど山内氏治世の基礎は忠義の代になったと称しても過言でない。
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