山梨県 武田勝頼公資料室

武田勝頼公は悲惨な最期を遂げた 武田滅亡の軌跡

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高知県の歴史 長宗我部国親の没落
 天正十三年(一五八五)十月元親は京都に上って豊臣秀吉に謁見して臣従の盟を立て、翌年秀吉の九州征討には命によって嫡子信親を従軍させた。信親、時に二十二歳、十二月十二日豊後戸次川に島津氏の軍と敢戦し、従兵七百余名と枕をならべて戦死した。
九州平定後、天正十六年(一五八八)春、秀吉は羽柴の姓を元親に許し、かつ奏して侍従に任じ土佐守と称せしめた。同年冬、元親は岡豊を去って大高坂城に移ったが、その一帯は潮江・江の口両川にはさまれて水害絶えず、城下町の経営困難のため数年ならずして浦戸を居城に定めたのである。
天正十八年(一五九〇)豊臣氏の小田原征討にも参加し、文禄慶長両度にわたる朝鮮の役にも従軍したが、長宗我部の海軍が重視されたのは、元親の浦戸城経営につながるものと考えられ、慶長元年(一五九六)八月二十三日スペイソ船サン・フェリベ号の漂着は世界史的な宗教問題を生んで、浦戸を世に紹介した。
 慶長四年(一五九九)五月十九日元親の死後、第四子盛親が家督を継いだが、同五年関ケ原の役で西軍に党して惨敗し、国を奪われて浪人した。その後をうけて土佐の新国主になったのが山内一豊で、盛親は大阪夏の陣に捕斬せられ、長宗我部氏は断絶したのである。
 
高知県の歴史 長宗我部国親 文武の教学
 元親は攻城野戦に奔走したばかりでなく、文武の教学にも深く意を用いた。南学の始祖南村梅軒の高門、吸江庵の忍性と宗安寺の真西堂は元親に招かれて毎月六回岡豊城内に講筵を開き、一族家臣に儒学を教え人倫を説いた。僧非有は書道の師となり、和歌の師範にはかって一条家に仕えた小松谷寺公範がある。また蟻川新左衛門道標を京都から迎えて連歌の師とし、蹴鞠には京都の飛鳥井曽衣、鼓は泉州境の勝部勘兵衛、謡曲は京人宗因、大鼓は似我惣右衛門父子を招いてその指南をうけた。また家臣中島与市兵衛・桑名太郎兵衛を上京させて小笠原流諸礼を習わせ、そのほか小野菊之丞は笛、大平拾牛と森勝助は本因坊の囲碁習得のため上京してそれぞれ業をおさめたものである。馬術には彦方休少、鉄砲には近藤越後、後弓術には大藤才八、刀術には精参流伊藤武右衛門、長刀には其道流の大平市郎右衛門があって武技を教えた。
 戦国乱世のうちに誇るべき岡豊文化のあつたことは「長宗我部百箇条」と呼ばれる立派な法令を生み、三百六十八冊より成る「天正地検帖」を後世に残したことでも証明せられよう。長宗我部元親は武将としてのみでなく、政治家としても文化人としても認められなくてはならない。
 
高知県の歴史 長宗我部国親  
長宗我部国親は機運に乗じて兵を動かし、天文十八年(一五四九)山田元義を攻め、大津の天竺花氏、介良の横山友隆、十市の細川宗桃を討ち、永禄三年(一五六〇)本山氏と兵を構えてその支城浦戸を政略したが、同年六月十五日病気のために急逝した。享歳五十七。嫡子元親もまた将材あり、父の遺志をついで機略縦横、しきりに近附の諸城を略して本山氏の支城朝倉を攻め、永禄七年(一五六四)四月七日には本山城を襲い、同十二年(一五六九)八月十一日には安芸城を落した。かくて国内の群雄は皆元親の膝下に伏し、一条兼定もまた政を失って天正元年(一五七三)九月十六日退隠し、ついで豊後に逐われたので、元親は兼定の子内政を長岡郡大津におき政令を土佐一国に布くに至ったのである。
土佐統一後、元親は阿波に出兵して三好存保と戦い、讃岐を侵して香川信景の降を容れ、伊予を改めて河野通直を降し、四国
征服の志業を大成して、さらに中原に進出の策をほどこしたが、たが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の征討軍を迎えて合戦利あらず、ついに和を請うて土併二国の所領を許された。
高知県の歴史 長宗我部氏の覇業
 名門一条家の国司在任によって、土佐に政治的重心はおかれたが、地理的にみて中村御所は西部に偏しているし、財力も他の豪族に比して絶対的なものではなかった。したがって諸豪の間にしばしば私闘を生じたが、長宗我部氏が一条家の信頼をうけて勢威の加わるのをみた本山義明は、大平・山田の諸氏をかたらい、永正五年(一五〇八)九月、岡豊城を攻めた。このため長宗我部兼は一子千雄丸を房家に託し、城と運命を共にした。千雄丸は後の国親である。成育後一条家の仲裁で岡豊を恢復したが、国親は父の怨恨を忘れることができなかつた。津野元実は戸波に福井玄蕃を攻めたが、一条家は救援の兵を出して永正十四年(一五一七)四月十三日恵良沼の合戦で元実の軍を全滅せしめ、大永六年(一五二六)八月十六日香宗我郡氏は安芸氏に討たれ、天文九年(一五四〇)吉良氏は本山氏に滅ぼされ、同十五年(一五四六)蓮池城主大平氏も津野氏と通謀した理由によって一条家の兵に改められて滅亡した。
高知県の歴史【一条家の所領】
一条家の所領は一万六千貫、京都に模して中村に都府をいとなみ、東小路・西小路・入江・飛鳥井・白河の五家を一門と称した。家老に土居・羽生・為松・安並の四家があり、一条殿衆とて侍五十三家がある。その後将軍足利義政を請うて土佐の国司の宣下を得た。教房は文明十二年(一四八〇)十月五日薨去し、中村町の北、妙筆寺谷に坤葬された。享歳五十八。長子政房は先年兵庫に横死し、第二子房家が家督を相続したが、土佐一条家はこの房家をもつて始祖とするのである。天文八年(一五三九)十一月十三日六十六歳で薨去、嫡子房通は京都一条家を継ぎ、第三子房冬が土佐一条家を相続したが天文十年(一五四一)十一月六日四十四歳で薨去、三代房基は天文十八年(一五四九)四月十二日二十八歳で薨去した。実弟に小松寺殿康政があり、実子兼定が幼少だったので一時その後見として政務を執ったものである。
 兼定は幼名万千代丸、豊後の大友宗鑑の女をその母とし、六歳で父房基の跡を継いだ。成長して伊予の宇都宮氏女を娶り摘子内政を挙げたが、のち宇都宮氏を離別して大友宗鱗の女を迎えた。多情多恨の性で政務につとめず、家老土居宗三の諌言をしりぞけ、之を惨殺する行状などが重なつて遂に家臣に逐われた。豊後に去ってキリシタンに改宗、大友氏の揺助をうけて中村奪回を企てたが成らず、天正三年(一五七五)伊予の戸島で殺害された。享歳三十二。土佐一条家は長宗我部元親の覇業に圧せられ、兼定の子内政の大津御所、孫政親の久礼田御所に在りし日の夢をとどめたが、慶長五年(一六〇〇)政親の上京によってその後を断った。

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