山梨県 武田勝頼公資料室

武田勝頼公は悲惨な最期を遂げた 武田滅亡の軌跡

武田勝頼資料室

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
高知県の歴史 土佐一条家 土佐の豪族
 足利氏十三代の治世に室町文化が成熟したが、その半面には権勢の抗争が断続し、ついに将軍義政の継嗣問題に端を発して京都は兵乱の巷と化した。応仁元年(一四六七)管領細川勝元・山名宗全の対立以来十一年間交戦がつづき市街はほとんど兵火に焼けた。将軍の威信は地におち、諸国の守護地頭はそれぞれ境界を争って豪族割拠の時代を形成した。関白一条兼良は京都の兵乱を避けて奈良に隠れ、その子教房は兵庫に逃れたが、土佐の土豪長宗我部文兼に迎えられて一条家庄園の地幡多郡の小村にその住居を定めた。〔教房の離京は応仁二年九月六日のことで、一説には文明二年(一四七〇)八月とも文明十年八月ともある〕
 土佐では、当時すでに守護代細川氏の威権はうすらぎ、各地の豪族はそれぞれ独立割拠の風をなしていた。
高岡郡半山郷五千貫の領主津野氏、
吾川郡弘岡五千貫の領主吉良氏、
安芸郡安芸五千貫の領主安芸氏、
長岡郡本山五千貫の本山氏、
高岡郡蓮池四千貫の領主大平氏、
香美郡山田三千貫の領主山田氏及
長岡郡岡豊三千貫の長宗我部氏
を七人衆または七守護と呼び、森・国沢・千里・改田の四民が各々二千貫を領して之に次ぎ、香宗我部・片岡・中村・尾川・枝川・三宮・能津・大高坂・津野・吉松・大黒・野中・谷・姫倉・横山・稲毛・久万・小野・国書・馬場・五百蔵・甫吉山・伊尾喜・萩野・山川・安田・北川・室津・奈半利・在井・和食・北村・賀江・佐竹・秦泉寺・十市・池・下田・広井・執行・野田・西和田・上村・豊永寺の国侍のほかに仁井田五人衆と呼ばれる土豪があつた。
領知を貫で称するのは当時の習慣で、田地の収納は米をもってせず、銭に代えたのに起ったものだが、その数量については古説一定せず、板垣氏自家雑記には
「或人云ふ、古の知行に何千貫と有、夫は永楽銭一銭の重さ米四合八勺にかぞえ、上百貫と云は百石の事にて米四十八石也。今も陸奥にては此何貫と云うぞ」
と記している。後世蔵米知行を四つ八分の免ならしとて、百石につき四十八石の物成を給与したのはこの古法によったのだと
いうのである。
高知県の歴史 室町幕府と土佐 
 足利氏の四国平定には細川頼之の功少なからず、その功によって天授四年(二二七八)栃之の一族細川遠江守頼益が土佐の守護代となり、香美郡田村に居城した。鎌倉幕府から室町幕府にかけて文化はひとり仏教によって支えられ、文保二年(一三一七)夢窓国師が長岡郡五台山に吸江庵を創建した。京都五山の学僧として知られた
絶海はかって吸江庵に籍を置き、絶海と並び称された義堂とともに高岡郡津野山を故郷としたものである。南北丙朝の兵乱の真に、文化の種が蒔かれていた土佐の姿も想見しなければなるまい。
高知県の歴史 南朝と北朝 土佐の状況
 土佐では南朝方で大高坂松王丸・河間左衛門次郎光綱等、北朝方で津野孫次郎家時・堅田小三郎経貞等が世に知られ、徒党相率いて各地に交戦したが、大高坂城の攻防戦がもっとも烈しかった。北朝は安楽寺山に向城を築いて大高坂と対峠した。安楽寺城は現在の升形、金子橋附近だったと伝えられている。たまたま後醍醐天皇の第七皇子花園宮(満良親王)の船が土佐に漂着、新田綿打入道・金沢左近将監等がここに随従していたので一時南朝方の勢威を加えたが、延元五年(一三四〇)正月二十五日力戦効なく大高坂はついに落城した。これより以後、南朝方の兵勢次第に衰え、花園宮も土佐を去り、元中九年(一三九二)南北両朝の和議成るにおよんで足利氏の室町政権は全く確立したのである。
高知県の歴史 南朝と北朝 武門政治
 源氏の政権は間もなく執権北条氏に移り、承久の変によって武門政治は全く確立し、応永五年(一二六八)と弘安四年(一二八一)には蒙古軍の襲来を撃攘して国威を保持することができた。しかしこの両度の戦役によって鎌倉幕府は疲れを見せ、北条高時執権となるにおよんで内政は乱れ人心は離反した。
後醍醐天皇による王政復興の計画はこの虚に乗じてすすめられたのである。
正中元年(一三二四)の陰謀成らず、
元弘元年(一二三一)の挙兵もまた空しく、
元弘二年三月七日天皇は隠岐に遷され、
元弘二年八日、一宮尊良親王は土佐に、尊澄法親王は讃岐に流されることになった。
佐々木太夫判官時信に護送された尊良親王は土佐国幡多郡で有井の庄司三郎左衛門尉に迎えられたのである。
 「我庵は土佐の山風寒る夜に軒洩る月の影氷るなり」
 とは親王配流の感慨である。
やがて勤王の士諸方に起り元弘三年(一三三三)五月十八臥北条氏の根拠鎌倉が陥落、天皇は京都に遷幸されて建武の中興を達成され、長岡郡吾椅郷は尊良親王の庄園となり、藤原兼光を土佐の国司に任命されたが、それも束の間の夢であった。足利尊氏の背反によって中興の治は破れ、天皇は吉野に行在し、尊氏は京都で光敢天皇を擁立した。
 後世史家は吉野朝廷を南朝、京都朝廷を北朝と呼び、南北丙朝の抗争は地方各地にも波及した。
高知県の歴史 【鎌倉幕府】
 建久元年(一一九〇)源頼朝が総追捕使となり、間もなく征夷大将軍に任ぜられて鎌倉に幕府を開きこれより以後政権は完全に武門に帰した。
源内民部大夫行景が土佐国の守護職となり、
中四郎秋家が香美郡宗我部・深淵同郷の地頭に補任されたことが古記に見え、
承元元年(一二〇七)には法然上人の土佐配流、
承久三年(一二二一)には土御門天皇の遷幸のことあり、
中央の政局は,配流国土佐に幾多の哀史をとどめた。

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事