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高知県の歴史 【源平合戦の終焉】
源平合戦は文治元年(一一八五)三月二十四日の長門国壇浦で幕をとじた。土佐の住人安芸太郎時家と次郎実光が源氏の軍中に在り、平教経に肉薄したが、強力の教経に組まれて三人とも入水したことは史書にも見え、当時の土佐の水軍が源氏の陣に参加していたかと想像される。
安徳天皇も二位尼に抱かれて入水されたことになっているけれども、土佐には天皇潜幸の伝説が古く残り、
高岡郡横倉山は御陵参考地に指定されている。
安芸郡鮮即断には平教経、
香美郡梶山には平資盛が潜伏したと伝え、
吾川郡の椿山やそのほか各地に平家落人の遺跡と伝説が非常に多いのである。
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武田勝頼資料室
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高知県の歴史【頼朝蜂起 その時土佐は】
寿永元年(二八二)九月二十五日頼朝が東国に源氏復興の兵を挙げるにおよび、土佐の住人蓮池家綱と平田俊遠は希義を長岡郡年越山で殺害した。希義を救援しようとした夜須行家は機を失して志を果さず、海路紀伊にのがれたが、頼朝の兵威ようやく振うにおよび、命をうけて蓮池家綱を討ち、建久四年(二九三)七月十一日夜須の本領を安堵した。介長の住僧琳猷上人も平氏の勢威をおそれず、希義の墓をたてて菩提を弔い、頼朝の感賞をうけた。
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高知県の歴史 源平合戦
【平治の乱 六波羅政権】
保元の乱から三年を過ぎて「平治の乱」がおこった。二条天皇が即位後、藤原信頼は後白河上皇の寵に乗じて専横の志あり、源義朝に結んで兵を動かし私権を張つたが、平治元年(二五九)十二月二十五日平清盛は天皇を擁して信頼・義朝を討ち、六波羅政権を樹立した。義朝の死後、長子頼朝は伊豆に流され、その弟希義は土佐に流されて介良に住み、介良の冠者と呼ばれた。
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高知県の歴史【保元の乱】
藤原氏の専権と、藤原氏をめぐる勢力の抗争は王朝の権威を衰退させ、「保元の乱」によって明らかに武家勢力の進出を許した。皇位継承問題に端を発して藤原忠通は後白河上皇を擁し、弟頼長は崇徳上皇を推してそれぞれ源平の武力を利用し、保元元年(一一五六)七月十日兵火を交えたが、頼長は利あらずして傷死し、上皇は讃岐に流された。頼長の子帥長も父の罪に連座して八月三日土佐の国幡多郡に遠流の身となり、船出にのぞんで門弟源惟成に青海波の秘曲を残した佳話は史書にも見え、妙音院の師長とも土佐大将とも呼ばれた。
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高知県の歴史 産物貢進 高岡郡仁淀川
貢兵三十名と定め、沼山村に馬牧を置き、馬・兵器のほかに網島・薬草・堅魚(かつお)・年魚(あゆ)等の産物貢進も指定された。「土佐日記」にみる押年魚は煮塩年魚とともに正親司・内膳司の贅殿に納めたもので、その原産地を贅殿川と呼んだ。高岡郡仁淀川はそのむかしの「にえどの」の名残りをとどめたものである。
【備考】 僧行基
和泉大島部の人、百済国王の胤である。聖武天皇の敬重を受け、菩薩号を賜う。天平二十一年二月二日寂。年八十二。
【備考】弘法大師
諌岐多度郡の人、空海と号し、美音宗の祖、諸国に弘法して大和に高野山を開いた。東和二年三月二十一日入寂。
【備考】紀貫之
天慶九年卒。書を能くし、歌道に長じ、古今和歌集の選者の一人である。
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