山梨県 武田勝頼公資料室

武田勝頼公は悲惨な最期を遂げた 武田滅亡の軌跡

武田勝頼資料室

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高知県の歴史 陸路の発達
 紀貫之は海路をとったが、陸路も次第にひらけ、古来官道は伊予を経由したが、元正天皇の養老二年(七一八)五月これを阿波に改めることを勅許され、『延喜式』には頭駅五椅、丹治川に駅伝馬五匹を定めたとある。近畿との交通はその利用によって著しく短縮されたであろう。
高知県の歴史 【藤原純友】
土佐・阿波の東海が海賊の行動水域だったと考えられ、当時航海者をおびやかしていた。藤原純友が伊予を根拠に乱を起して、附近の海上を荒したのはそれから五、六年後のことであつた。『日本紀略』には天産三年(九四〇)十二月土佐国幡多郡に純友の軍が侵入して官軍と戦い、双方に死者を出したことを伝えているし、『前太平記』には翌年八月純友の妻が幡多郡松尾坂で憂死し、その父栗山定阿が捕虜になったことを記している。
高知県の歴史【「土佐日記」 紀貫之】
 国分寺の建立されたのは聖武天皇の天平十一年(七三九)で行基の開山である。ここを中心にしてわれわれは国府文化の跡をみるのであるが、朝臣虫麻呂が土佐守に任ぜられた。
命のはじめであって、この以後国司上に現われるが、その代表的人物は「土佐日記」で知られたた紀朝臣貫之である。醍醐天皇の延長八年(九三〇)土佐守となり承平四年(九三四)任期満ちて京都に帰るときに生れたのが「土佐日記」であつた。貫之の任期四年にわたる治績は知ることはできないけれども、その日記によって土佐は文学的にはじめて世に紹介されたのである。
承平四年十二月二十一日に旅立ちの用意をして、
二十七日大津で船に乗り、浦戸・大湊・奈半・羽根・奈良志津・窪津などの船湊を経て難波の川尻についたのが翌年の二月一日、京都に帰ったのが二月十六日で五十日に近い旅程であつた。
「廿四日、講師馬のはなむけしにいでませり。ありとある上下、童まで酔ひしれて一文字をだに知らぬ者、其が足は十文字に踏みてぞあそぷ」
 と、首途の宴を叙したのは酒の国土佐の第一貢をかざるものであろう。観光土佐を紹介したものは十二月九日大湊から奈半利への海上から宇多の松原をたたえたものである。
 「かくて宇多の松原をゆきすぐ。その松の数いくそばく、いく千年へたりと知らず。もとごとに波うち寄せ、枝ごとに鶴ぞとびかよふ。おもしろしと見るに耐へずして、船人の詠める歌
 見わたせは松の梢ごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる
 とや。この歌は、処を見るにえまさらず。」
 
一千年の天変地異は地相を変えたが、香美郡に兎田の地名があるので、今の赤岡岸本あたりの海岸であろうと、
鹿持雅澄(かもちまきずみ)はその「土佐日記地理弁」で解説している。人情や地理ばかりでなく、一月二十一日室津出船のころから海賊襲来の説におびえる記事がつづき当時のおだやかならぬ時代相が窺われるのである。
 
高知県の歴史 【「土佐日記」の頃 行基 弘法大師 国司】
 仏教文化の伝来も往古の土佐に見のがしてならないものである。僧行基が長岡郡大島、すなわち五台山に竹林寺を草創したのは聖武天皇神亀元年(七二四)で、幡多郡平田の延光寺、長岡郡豊永郷の豊楽寺もその開基だと伝えられる。ついで平城天皇大同二年(八〇七)には弘法大師が長岡郡十市に峰寺を創建し、安芸郡甘三戸の最御崎寺、元村の金剛頂寺、高岡郡の青龍寺、幡多郡足摺崎の金剛福寺など大師の足跡は東西にあまねく、医療や殖産に関する衆生済度の事績は一千年後の現代にも到る所に伝承を残している。
高知県の歴史 【土佐は遠流の地】
土佐が伊豆・安房・常陸・佐渡とともに遠流の地と定められたのは聖武天皇の神亀元年(七二四)の三月である。
それより以前壬申の乱(六七二)に弘文天皇に味方して敗れた大臣蘇我の赤兄(あかえ)が土佐に流されたこともあるし、その以後も中央に志を得なかつた政治犯の流寓したものも一々は挙げがたい。近畿の言葉や習俗がこの人々によって伝わり、その門閥と統率力によって新しい社会がつくられる。流人文化がそこに想定されるのである。

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