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高知県の歴史 【土佐は遠流の地】
土佐が伊豆・安房・常陸・佐渡とともに遠流の地と定められたのは聖武天皇の神亀元年(七二四)の三月である。
それより以前壬申の乱(六七二)に弘文天皇に味方して敗れた大臣蘇我の赤兄(あかえ)が土佐に流されたこともあるし、その以後も中央に志を得なかつた政治犯の流寓したものも一々は挙げがたい。近畿の言葉や習俗がこの人々によって伝わり、その門閥と統率力によって新しい社会がつくられる。流人文化がそこに想定されるのである。
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武田勝頼資料室
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高知県の歴史 古代の土佐【考古学 古墳】
考古学の分野では縄文式・弥生式の時代を経てその次ぎに古墳文化期がおかれる。石室に土を盛つたもので、当時の地方豪族の墳墓と認められ、その中から発掘した刀剣や馬具や用度の諸品によって当時の文化が想像されるのである。土佐で今日まで発掘された古墳は
幡多郡で六、
高岡郡で一、
吾川郡で三、
高知市附近で二〇、
長岡郡で五七、
香美郡で二五
と算せられる。(安岡源一氏作成表参照)
向後の新発見が予想されるとしても、これまでの発見を基礎とするならば、古墳時代の文化は長岡郡を中心として栄えたものと推測されよう。奈良朝から平安朝へかけてその繁栄がつづき、国府の跡がその地に現在するのも決して偶然ではないのである。
大和朝廷の威が次第に確立して四方に国郡の制が立ち、孝徳天皇(六四五−六五四)には土過分界を定めて郡の下に里をおき、里の下に村をおいた。この里がやがて郷に改まったと伝えられ、「和名抄」には土佐七郡の下に四十三郷が記載されている。
安芸郡
奈平(なは)(奈半利・田野・北川)
室津(室戸・津呂・吉良川・羽根)
安田(安田・中山)
丹生(伊尾木・東川・川北)
布師(井之口・畑山)
和食(わじき)(和食・赤野・西分・馬之上)
玉造(土居)
黒鳥(安芸・穴内)
香美(かがみ)郡
安須(夜須・徳王子・岸本)
大忍(西川・川・槙山)
宗我(香宗・赤岡・富家・山北・山南)
物部(三島)
深淵(佐古)
山田(山田野地・明治・佐岡・大楠植(おくすうえ))
石村(岩村)
田村(田村・立田・前浜)
長岡郡
登利(十市・三里と想定)
殖田(久礼田・新改)
宗部(そかべ)(岡豊・長岡・国府村)
江村(常通寺・中島・吉田)
大角(大津・高頻)
片山(三和)
気息(介良・稲生・五台山)
篠原(大在)
大曽(おおそね)(大祐・野田・後免)
土佐郡
土佐(布師田)
高坂(高知・小高坂・久万等)
鴨部(鴨目・旭)
朝倉(朝倉・宇治)
神戸(かむべ)(一宮・秦)
吾川(あがわ)郡
仲村(長浜・浦戸・御畳瀬・諸木)
桑原(八田・弘岡)大野(伊野・神谷)
次田(すいた)(秋山・森山)
高岡郡
高岡(高岡・高石・蓮池・波介・戸波・北原)
吾川(川内・日下卜加茂)
海部(あまべ)(多野郷・吾桑・頚崎・新荘・上分)
三井(新居・宇佐・浦内)
幡多郡
大方(白田川・入野・田口・七郷)
宇和(不破)
山田(具同・中筋・山奈)
鯨野(いさの)(清松・上灘・三崎等)
枚田(ひらた)(平田・和田・宿毛・小筑紫)
【註】吉田東伍博士「大日本地名辞典」による。括弧内は後世の町村名で二三は必ずしも定説とされて難い.これらの郷は鎌倉期に入って荘名に改まるものが多く、豊臣秀吉は文禄四年(1596)郷・荘の廃止を命じたが、徹底しなかつた。土佐では山内氏時代になっても郡制が残つたのである。
郷名のそれぞれに歴史的な、または地理的な意味が含まれている筈である。言語学の助けを借りて、それらを正しく解釈することができるならば、文献のとぼしい往古の土佐を知るためにどれだけ役立つかもしれない。
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高知県の歴史 古代の土佐
天皇による大和朝廷が成立して以後も、海と山とによって遠く隔てられた土佐は、近畿文化の影響をうけることが遅れ、原始的な生活がより久しく続けられたであろう。
高加茂大明神がまつられたのは雄略天皇四年(四六〇)であった。「延喜式」内社の一の宮、現在の土佐神社である。
祖先崇拝の習俗をもつ大和民族の来住は、神社の鎮座年代や分布の状態を研究することによって、そのあらましが推定される。杏葉郡東川村の石船神社は天忍穂別革(あめのおしはわけのみこと)が祭神にまつられ、附近には後裔物部(もののべ)氏が栄えた。現在物部川の名に往時を偲のばせている。近畿に勢力を失った氏族が安住の地を求めて土佐にうつり、四国山脈をこえたものは四万十川・仁淀川・物部川の流域に居を定め、海を渡ったものは沿岸の適地に定住した。狩猟時代から農耕時代へ生活文化は時代とともに向上して各地に集落が発生する。新しい移住者とそれに対する原住民の抵抗、征服者と被征服者とによる社会秩序の構成など人頬の歴史過程の必然性をわれわれは往古の土佐にも推想したい。
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高知県の歴史【弥生時代】
弥生式文化期における土器・石器の出土地は幡多五、高岡一四、吾川二、高知一三、土佐二、長岡八、香美六、安芸五があげられ、銅器は幡多二、高岡一八、吾川二、高知三、土佐一、長岡二、香美九、安芸三の比を見せる。
香莫郡佐古村の龍河洞の遺跡は土器・獣骨・貝殻等を残し、その出土状況は洞窟の景観とともに有名である。(安岡源一氏調査表による)
考古学的研究は現在なおすすめられているが、縄文式や弥生式文化をもち、石器使用から銅器使用に移った古代日本人はどんなものであつたか。人類学的調査も同時に進められて東北アジア方面とのつながりがあるという説、また言語や民俗の比較によって東南アジアや太平洋諸島から渡来したという説もあって、原日本人にはいまだ定説がない。そのほかにアイヌ族が相当広い地域に住んでいたことも推定されている。土佐でも穴内とか咥内とか奥屋内とかアイヌ語の集落を意味する「ナイ」の地名が残っているし、地理的には南方民族の漂着定住なども考えられる。資料の発見と学術の進歩によって、将来これらの問題が解決される日を期待しよう。
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高知県の歴史【土佐の考古】
神話や伝説をそのまま史実としてうけとることは危険であるが、正しい文献のない上古を探るには考古学的方法がある。土中に埋没した古代の遺品によって、民族やその信仰・生活を知り、これを他と比較研究することによって文化の進度を測る。幡多郡郁智町に発見された貝塚には縄文土器・打製の石斧・石皿・敲石・人骨があった。何千年か何万年の昔、この附近にすでに人類の生活が営まれたことが知られ、縄文式文化期の遺跡は幡多郡に二箇所、高岡郡に四、高知市に一、長岡郡に一である。
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