欲望を捨てる「愛は責任」どれだけの人が愛に責任を持てるのだろうか?「責任だなんて」ほとんどの人が愛に責任を持っていないのかもしれない。愛は好きだと言う気持ちの延長戦、愛は好きだと言う気持ちの集大成、すなわち愛とは自由。人を好きになるのは自由、「自由なものに責任を取る必要はない」と思っているのかもしれない。人は自分を中心に生きている。自分さえ良ければいいと思って生きている。自分の喜びを満足したくて生きている。自分に苦しみや悲しみを与えるのはとても許せないと思って生きている。自分が嬉しいか自分が苦しいかで愛の物差しが決まる。 自分さえ良ければいい。自分が嬉しい時は恋人を大事にし、自分が辛い時は重荷である恋人を捨てる。自分さえ良ければ人のことはどうでもいい。そんな恋愛が闊歩(かっぽ)いばって思うままに行動しているように思えてならない。そういった意味では自由社会の民主主義は恋愛の弊害かもしれない。人を好きになるのは自由、そこには何の責任もない、人を好きになるのは責任のない自由、それによって被害者がどんどん増えている。 愛は喜びばかりではない、どちらかというと愛は苦しみの方が多い。愛は辛抱強く、妬まず、思い上がらず、苛立たず、威張らず、忍耐強く相手を愛さなくてはいけない。喜びより苦しみの方が多い。人に愛され人を愛するのは、すべてが訓練である。訓練か?なるほど、そう考えれば愛は良い勉強かもしれない。自分に足りないものを学ぶ訓練の場所、それが愛。 訓練を終えた人はきっとこう思うだろう。 「自分の欲望なんかどうでもいい」 と。 「愛は自由でいい、自由を尊重する」 と。 「愛は自分の欲望でどうなるものではない」 と。 「だから、愛は失ってもいい」 と。 そう感じるだろう。 訓練を終えた人は、自分の欲望を捨てることができる。欲望があるうちはまだまだ幼い。その幼さが残っているうちは愛の大成(成就)はできない。自分の苦しみばかりに目がいき、自分が幼いということに気づいていないからだ。 苦しんでいる人は幼い。 子供だ。 乙女だ。 子供と乙女は、ワガママという欲望の塊。その欲望を捨てない限り、真の愛には巡り合えない。 欲望を捨てた者は、「去る者は追わない」欲望を捨てた者は、「相手に新しい人ができても嫉妬しない」それで相手が幸せならそれを祝福する。欲望を捨てた者は相手の幸せのために自己犠牲ができる。相手が幸せになるのなら自分は深い悲しみを受け入れる覚悟がある。とても辛くとても悲しいが、それが一度は愛した人への感謝の気持ちだと自覚している。「愛には終わりがある」卒業式を迎える愛に、笑って卒業させてあげよう。喜びの涙を流しながら愛を卒業させてあげよう。 愛は欲望を捨てた時、うまく回るようにできている。こんな単純なことを人々はまだ知らないだけ。私は長年この仕事をしているので、皆様より早く愛の訓練を終えた。今はそれを教える先生である(エヘ) その私が言う。 愛する人がいたら欲望を捨てることだ。 悲しいけど愛は自由。 自由に勝つには欲望を捨てるしかない。 欲望を捨てることで、この愛が正しいどうかかわかるようになる。 正しければ結ばれ、正しくなければ終わる(卒業する)だけである。 |

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先生、ありがとうございます。
今日の言葉はいつも以上に心に沁みます。
愛は苦痛だっていつも思っていました。
愛し始めたとき、苦痛もはじまる。
だけど、愛した男が幸せならそれでいい、
そう思えるようになりました。
[ オレンジ ]
2013/12/18(水) 午後 6:59
先生の言葉、本当に胸に染み渡りました。わたし、そんな風に生きていこうと思います。生きていけると信じます。
[ 銅貨 ]
2013/12/19(木) 午後 0:58